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2023年1月の聖書タイム「信仰は小さくても・・・」

by 山形優子フットマン

山形優子フットマンの執筆・翻訳 by 「いのちのことば社
新刊「季節を彩るこころの食卓 ― 英国伝統の家庭料理レシピ
翻訳本:
マイケル・チャン勝利の秘訣」マイク・ヨーキー著
コロナウィルス禍の世界で、神はどこにいるのか」ジョン・C・レノックス著
とっても うれしいイースター」T・ソーンボロー原作
おこりんぼうのヨナ」T・ソーンボロー原作

「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。」
ーー ヨハネによる福音書1:1

新年、初の言葉は「明けまして おめでとうございます」。新しい日記帳は真っ白で、未知の時間が待っています。今年はどんな年になるのでしょう。


冒頭の聖句は、もちろん新年の挨拶ではありませんが、「新年」という決まりがなかった頃からの「初めにあった言葉」、つまり世が始まる前からの神秘へと、読む人をいざないます。創世記の最初、天地創造のくだりをみましょう。

「はじめに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ』こうして、光があった。」
ーー 創世記1:1ー3

光あれ」と「初めに(神の)言葉があった」ので、「光があった」のです。まるでハリー・ポッターのように「ルミナス」と呪文を唱えると光がぼうっと出てくるみたいと、思う方もいるでしょう。しかし、神の言葉にはお話に出てくる魔法はもとより、人間の想像を超えるほどの威力があります。ヘブル人への手紙4:12には次のように書かれています。

「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄を切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」

一方、神に似せて作られた(創世記1:26、27)人間にも言葉があります。ロゴスと呼ばれる神の言葉とは雲泥の差がありますが、それでも人の言葉には力があります。自分が発する言葉で自分に限界を作ったり、他人を傷つけ締め付けたり、良きにつけ、あしきにつけ、言葉には力があります。「あけましておめでとう」の言葉には希望が込められています。まさか新年を呪う人はいないはずですが、冗談でも口をついて出る言葉には力があるので要注意です。


ローマ人への手紙10:10には言葉の力について次のように書かれています。「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」と。結局、人は毎日、思ったところを口に出す言葉で、自分を作り上げているのかもしれません。けれども、それ以前に、神の言葉が、私たちの知らないところで既に私たちの道を作られています。

多くの人たちが送ってくれたクリスマスカードが我が家の居間に、まだ飾ってあります。年が明け、イギリス人の友達から来た一枚に、思わず心を奪われました。それは聖画のモチーフとして有名な、天使ガブリエルによる乙女マリアへの受胎告知の場面のカード。お告げを聞いたマリアは戸惑いながらも、次のように応えたと聖書にあります。

わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」
ーー ルカによる福音書1:38


マリア自身の当面の計画は約束をかわしたヨセフの妻になることだったはずです。けれも告げられた神の言葉を、マリアが口に出して受け入れることで、彼女は全く未知の神の世界へと放たれました。

そのマリアの受胎告知の少し前、彼女の親類のエリザベトが高齢にもかかわらず、身籠りました。天使ガブリエルは、エリザベトの夫ザカリアに現れて、ヨハネという男の子をエリザベトが産み、やがてその子は人々に悔い改めを勧め、救い主キリストの到来準備をする人物になると告げました。しかし老祭司ザカリアは信じませんでした。

ザカリアが信じなかったのは無理もないでしょう。まず夫婦共に高齢者、彼にとって妻の妊娠は常識外でした。人生経験も豊かで人望も熱かっただけに、自分の判断に狂いはなく「ありえない事」と思ったのでしょう。乙女マリアは十代の少女、経験も乏しく白紙同然だっただけに受け入れやすかったとも言えます。先に妊娠していたエリザベトは、マリアの訪問を受けた際、こう言いました。

主が仰ったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
ーー ルカによる福音書1:45

エリサベトの、この言葉には含みがあると見るのは穿った視点でしょうか。ザカリアはお告げが信じられなかったため、エリザベトのヨハネ出産まで口がきけなくなリました。言葉の含みとは《マリアさん、あなたの信仰は素晴らしい。それにひかえ、うちの夫ときたら、どうでしょう(祭司職なのに)信じられず、口がきけなくなっているのですよー。》よっぽど立派な妻でない限り、ふと脳裏を横切る思いではありませんか?

ただし、信じれなかったザカリアにも、信じたマリアにも一貫するものが一つあります。それは「初めに言葉があった。」です。ここに大いなる救いがあります。信じれなかったザカリアにも、神の言葉は約束通り実現しました。信じる信じないにかかわらず、神は初めに言葉をくださり、それを成就される方なのです。「不信仰者だから言葉による約束には値しない。」ーーではありません。不信仰なら、神はなおのこと御言葉通りに約束を守られ、信じない者の目をあけてくださいます。信じれなくても、安心してください。神の信じられないような素晴らしい御心の実現を心の一角で待ちましょう。疑いながら待っても良いのです。信仰は小さいままでも大丈夫。主が育ててくださいます。

人に与えられた言葉にも力があるので、私は「2023年は良い年です」と宣言します。みなさん、今年もよろしく・・・・

ダビデの王座とその王国に権威は増し
平和は絶えることがない。
王国は正義と恵の業によって
今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。
万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」
ーー イザヤ書9:6