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2022年10月の聖書タイム「祝福の抱擁が待つ坂道」

by 山形優子フットマン

山形優子フットマンの執筆・翻訳 by 「いのちのことば社
新刊「季節を彩るこころの食卓 ― 英国伝統の家庭料理レシピ
翻訳本:
マイケル・チャン勝利の秘訣」マイク・ヨーキー著
コロナウィルス禍の世界で、神はどこにいるのか」ジョン・C・レノックス著
「とっても うれしいイースター」T・ソーンボロー原作
「おこりんぼうのヨナ」T・ソーンボロー原作

「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばの、つないであるのが見つかる。それをほどいて、連れてきなさい
ーー マルコによる福音書11:2

去る夏、ギリシャの小さな島に滞在しました。そこは岩盤でできた、かなり厳しい自然環境にある島で、住民たちは港の近辺に集中して住んでいます。岩の上の方に住む人たちは、急な坂か、無数の階段を登り続けなければなりません。島には車が発明される前から人々が住んでいたので道=階段は狭く、くねくねと入り込んでいるので、スクーターにも乗れません。人々は歩くだけです。荷物がたくさんある場合は、港近くにある動物タクシーを雇います。動物とは、ろばです。

滞在中、働き者のろばたちによく遭遇しました。階段を登っていくと、後ろからヒズメの音が聞こえてきます。振り返ると大きな荷を背負ったろばたちが足速に進んでいきます。時には、ろば使いが先頭のに乗り、勇ましい掛け声をかけ続けます。荷は大量のペットボトル水だったり、ワイン、オリーブの苗木だったりと様々です。つまり、人が運べないものは、ろばに運んでもらうのです。

冒頭の聖書箇所は、イエス様が子ろばに乗ってエルサレムに入られたという記録の一部です。人々は自分たちが着ていた上着を脱いで道に敷き「ホサナ・ホサナ神の子」と口々に叫び、イエス様を大歓迎したとあります。その様子はBC520に書かれた旧約聖書の預言書ゼカリア書の9章に既に記されています。それは、ユダヤの王様の凱旋の預言です。

普通の凱旋将軍は甲冑に身を包み、白馬にまたがり、凱旋門を意気揚々と通っていきます。しかしイエス様に甲冑はありませんでした。白馬ではなく、世紀を渡り、荷物を運ぶために使われてきた、ろばの子。弟子たちは埃だらけで汗臭かったかもしれない自分たちの服を鞍がわりに、ろばの背に乗せました。普通の人たちがその場で抜いだ服が道に敷かれ、レッドカーペット代わりになりました。その上をイエス様は、ろばに乗って往かれました。ゼカリヤ書には次のようにあります。

 娘シオンよ、大いに踊れ
 娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
 見よ、あなたの王が来る 
 彼は神に従い、勝利を与えられた者
 高ぶることなく、ロバに乗って来る
 雌ろばの子であるろばに乗って。

ギリシャの島で見たロバたちの目は優しく、大きな耳がピンと立ち、神経質な馬に比べて温厚そのものでした。イエス様は柔和な平和の王ですから、ろばの背に揺られてのエルサレム凱旋がぴったりです。

ところが、イエス様のエルサレム入りは、この世の見方では凱旋とは言いにくいでしょう。なぜなら、その後に彼はローマの最低の刑である、十字架にかけられたからです。この世の栄華を極め凱旋した勝ち組将軍の派手さに憧れるなら、見窄らしい、ろばに跨ったイエス様が神の子で、勝利の勝利を納めた方だということは、わからないでしょう。この平和の君は、人々の罪という重荷をご自身に負われ、十字架にかかってくださいました。そして、私たちに、こうおっしゃいました。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなた方は安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
ーー マタイによる福音書11:28-30

平和の君を心に迎えましょう。ゼカリヤ書の続きにはこうあります。

「わたしはエフライムから戦車を絶つ。エルサレムから軍馬を絶つ。諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ。大河から地の果てまで及ぶ。」
―― ゼカリヤ書9:16

あのギリシャの島では今日も、ろば達が黙々と重荷を負って人々の暮らしを助けています。イエス様もまた、わたしたちの重荷を今日も明日も明後日も負ってくださいます。疲れているあなたは、自力で重い荷物をもとうと躍起になっていませんか?

イエス様が「向こうの村から、ろばの子を連れて来なさい」と弟子たちに言う下りは、4つの福音書の全てに書かれていて、内容もほぼ同じです。けれども、マタイによる福音書だけが、この子ろばが、親ろばの側につながれていたとあります。その箇所は次の通りです。

「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところへ引いてきなさい。」

天のお父様は常に独り息子のイエス様と共におられました。息子が人の形をとって、この世にいらした時も、祈りを通して神の親子は語り合い、息子はお父様の御心に従いました。この罪の無い神の子が、いよいよ十字架の道行をゴルゴダの丘までたどった時も、お父様は共に歩かれたのです。ところが、親と子は、どうしても成し遂げなければならない仕事のために、一時的ではありましたが離れなければなりませんでした。イエス様が十字架にかかって私たちの罪を負ってくださった時、イエス様はたった一人、わたしたちの罪の重荷の犠牲となられたのです。お父様と私たち人間が常に一緒にいれるようになるには、罪の清めとしての神の子の命の犠牲が必要だったのです。傷の無い愛らしい、まだ人が乗ったことのない子ろばは、親から離されてもいななきもせず、連れていかれました。

この、子ろばが連れて行かれたことに関して聖書には「もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」(マルコによる福音書11:3)とイエス様が言ったと書かれています。たった一人で陰府に降られたイエス様は死に打ち勝ち、3日目に本当の凱旋を遂げました。言うまでもなく復活です。「子ろばは、すぐに親元に返されました。」イエス様は天に昇り、再び天のお父様の右におられます。

この神の親子は実は、聖霊を通し、地上にいる私たちの重荷を今も喜んで担いでくださっているのです。あなたは、人のために、ろばのように、なんでも担いで働かれる平和で柔和な神の家族に支えられ、囲まれ、愛されているのを見過ごしていませんか?神の家族を信じて歩き出してください。どこへ行くのかわからないけれども、神の親子はご存知ですから、それで十分なはずです。信じて従えば、祝福は全ての曲がり角で、あなたを抱擁してくれます。

「Humble yourselves, therefore, under God’s mighty hand, that he may lift you up in due time. Cast all your anxiety on him because he cares for you.」
―― ペテロの手紙一の5:6ー7

(日本語訳よりも英語訳の方がわかりやすいので、英語訳を選びました。)