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夢の観光鉄道 尾瀬観光線 序

宮脇俊三の衣鉢※¹を継ぐという大言壮語※²は
字面のとおり
「できもしないことをおおげさに言う」
「口先だけで実行が伴わない」
小生を表すにはきわめて適格な熟語

※¹「衣鉢を継ぐ」=弟子に受け継がれる奥義の継承
※²「大言壮語」= 大ぶろしき

宮脇俊三は「読み鉄」にとって
神様を通り越して・・・ほっとけない存在だ
・・・すでに仏だが。

文体の格調高さと諧謔の心地よさ
その絶妙なバランスで文章を紡ぐことは
凡人にできない。

日本語はバランスと音色である。
音読して
「しっくりとこない」文章は
SNS全盛の現代
そこかしこに溢れている

noteも内水氾濫の危機に直面する。
言葉がことばであるかぎり
「発声する可能性は・・・発生する。」
おやじギャグのためにこじつけているのではない

note作者の文章にまで
「声を出して読むという想定せずに書かれた文が散見される」
憂慮すべき状況だ。

文字面を目で追う時
文字は脳内で音に変換される。
音韻を持たない言語も地上には存在するが・・・
日本語は音韻が重要で・・・
過大に申せば
「音が全て」

文語文という文章を戦前まで利用していたが
それを音読すれば・・・
温度が伴った口語に変換される。
文語は表記の規則であり
漢文と分離が不可能な作法である。

日本語がやまと言葉で発声されるためには口語が生まれたのではない

口語が先に存在し漢語の文字を借用したわけだが
「この場合たてるは建てるで立てるではない」
と摩訶不思議な解説を講じる不思議な文章学が存在する。

ほとんどの言葉は
「先におと有り」だ

文字が先という言語は自然に発生した言葉ではない。

表記法としての文語を日本人は古来から
「音訳して読んだ」

複雑な作業を経ずダイレクトで口語表記した記述法こそ口語文だと小生は理解している。
したがって
「文語でなければ格調が低い」という論調はお門違いも甚だしい。

現代の文章はほぼ
「口語文」で綴られる。

文章として筆記する方式が口語であれば
公文書であろうと日記であっても
「音への変換が必然」だ。

それなのに・・・
音に変換すると
「ヘンテコリンな文章」が
そこかしこに氾濫する
「内水氾濫」喫緊だ。

河川の堤防が決壊し・・・
街を襲う
その恐怖は幾何かと思う
対策は十分でなくとも・・・
備えは施している。

内水氾濫の怖さは「堤内地」という
「守られた安全な場所」で
マンホールや側溝から水が溢れ出すことだ。

noteの作者は
「日本人の中で文章に親和性が高く・・・
文章表現に親しみ・・・
綴る労苦を厭わない上手だ。」

それなのに・・・堤防の内側で
水があふれる・・・

「その表記を発声すると耳障りがかなりわるい」そう感ずる文章が
視界に乱入する。

文章の音感を鍛えるために・・・
リズムの良い文章を読むのは絶対条件だ

どの作者の文章が良いか?
「宮脇俊三」の文章だ。

「悪文見本」のような小生の駄作は
手本にならない。

note作者には優れた書き手が存在する。

どなたかを推挙せよと命ぜられたなら
「寡黙な年寄り」先輩の文章を推す

この文章を読んでリズムが感じられる方は「日本語リズム体得者」だと小生が認定進ぜる
そんな認定には何の徳目もないが・・・

ウクモリヒロオさんの文章も
「実業家らしく明快で・・ひっかけやシチめんどくさいケレン味が微塵もない」
軽快な音楽を聴いているように錯覚する文章だ。
読後しばらくして・・・意味が通ずる不思議な文章・・・含蓄を誇らないから
ついつい読み流す・・・あとから効いてくる。

いずれにせよ
現代の碩学として
「類稀なる文章を紡いだ」
宮脇俊三はすでに彼岸のひとだ。

ただし著作はたっぷりとある。
学習参考書として宮脇の文章を読めば
小生の危惧と
「日本語はおと」という意味が
常識人の多いnote界隈の皆様には
ご理解いただけると信ずる。

「尾瀬のの字も出てこないじゃないか」と
お嘆きの貴兄貴女・・・

「尾瀬ははるかだから・・・・尾瀬」
序章なしにいきなり到着し
「はい今から尾瀬観光です!」
と始まらない・・・

「ハイカーが尾瀬に魅力を感ずる所以だ」

序章とはもったいをつけるものだ。
イントロが少ない昨今の音楽に慣れると
イントロなしにいきなりサビ・・・
その類の文章に
違和感を感じない読者を濫造する。

文学作品に序章なしという時代が到来するのだろうか?

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