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主語で異なる

 朝から、息子を駅まで送った。自転車で行けばよいのに、暑いからと送迎をせがまれた。休みだし、別にいいのだが、それにしてもなぜ彼は高校のジャージを着ているのか謎だった。「なんでジャージなの」と聞くと「予備校が寒いから」と言う。であればきみはスウェットとかカーディガンとかもっているじゃないか。まるで理由になっていない。
 「てか、高校生カルチャー的には、そういう休みの日に学校ジャージとか着ちゃうのって、今どきアリなわけですか」と聞くと「カルチャーってなに」と言うので、もっとはっきりと「いや、ダサいとかヤバイとかないの」と、ダサくてもヤバくてもほんとは私はぜんぜんどうでもいいんだけと、一応そういう風にきいてみた。「さあ、ないんじゃね?てか部活帰りってかんじ?」と言うので「三年はもう引退してるけどね」と返すと「いやインハイがあるっしょ」と言うが、そもそも彼は、サッカーを選ばずに入ったまさかの演劇部をやめて以来、バンドはやっているが部活をやっていないので、引退もインハイもないのだった。
 したがってジャージは謎のまま、この暑い今日という夏の一日との調和的情緒も、青春の名残的要素も、なにもないまま、彼の体とともに在ることとなり、母としてはあきらめながらも少しざんねん、、、せめて、臭くならないといいな、と思う。

 駅までの途中、公共施設のWIFIって、WIFIあります、ってことだけ明確で、パスワードとか探せなくない?っていう話で意気投合し、それから私は思い付きで「最近さあ、歌詞のある日本語の曲を聴いていると、ふたり、っていう言葉がやけに気に障るのよ」と話し始めた。
 「ふたりは、とか、ふたりの、とか、そんなにおまえらふたりなのかよ、なんでデフォでふたりなんでよ、っておもうのよ、せかいはふたりひと組じゃないからね?じんせいの単位はひとりだからね?何言っちゃってんの、なにふたりって言っちゃってんの、ってなってイラっとしちゃうのよ、どうおもう?やばくない?」と続けると、息子はおかしそうに「うん、おばさんのこじらせだね、やばいね」と笑った。
 私も笑って、「そうなのよ、たとえば」と、最近聴いているある曲のなかの『最近二人は行けないとこない』という歌詞に言及して、「ここでもさ、ふたりなのよ、ふたりが主語なの。」と言うと、その曲を聴いたことのある息子が「でもこれさ、『最近”俺は”行けないとこない』だったらなんかやばくね?」と言う。なるほど、確かになんか、その”俺”やだな、と思う。「それにさ、『最近”俺らは”行けないとこない』だったらさらに話変わってくるよね、だいぶオラついてくるし、音楽の種類も変わらざるを得ない」と続ける息子の話を聞いて、確かにな、と思って想像してみる。
 『最近〇〇は行けないとこない」の〇〇を、わたし、にしたらかなり不思議ちゃん要素も出るし、ぼく、にするのもまた空想家の少年めいてくるし、ぼくら、だったら青春小説感が出るし、あなた、だと啓発めいてくるし、、、やっぱこれ、ふたり、しかないわ、ふたりは行けないとこない、っていうのが、後に続く歌詞を含めても、もう唯一無二の世界観であって、この曲にはそれしかないわ、ってなって「そうか、これはふたり、でいいやつだね、ふたり、しかだめなやつなのかもね」と息子に言うと、「どのふたりを想定するかも、聴き手の自由になるじゃん、俺とか俺らって言われたらあれだけどね、あ、ラッパーなんだなってなるけどねw、じゃ、行ってくるわ」と、ちょうど駅に着いて彼は、車を降りて行った。
 主語で異なるってこととかって、わかってるつもりだけどわかってなくて、なんか言ったり言われたりするとき、だいたいが主語をじぶんにして翻訳してしまうということ、ついついやってしまうけど、たまにちゃんと思い出さなきゃな、良い曲だなー、と思いながら、息子のジャージが着用されるにあたっての主体つまり主語は、あくまで息子であるけれどやっぱジャージはないわ、と陽炎のなかの後ろ姿を見送りました。




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