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独りでいる事のイデオロギー

※希死念慮のある方はご注意ください。



・わたしという人間の価値

人と分かち合う喜びは大きい。
煩わしさや、傷つくリスクを超える価値はあるのかも知れない。
でもそれは、個人の心の許容による。心の許容は、基本的なベースがありながらも、状況によって広がったり縮んだりする。
日によって、あるいは年齢によっても変化する。
大抵は、広く大きく丈夫になっていくのだけれど、ある側面については弱まっていたりもする。
私の20代は、1人でいる時間が無さすぎた。
30代で1人になれた時、この解放と癒しと引き換えに、また人と広く繋がっていこうという思いは、正直抱けなかった。
あまりにも傷き、くだらない事が多過ぎて、放っといて欲しいと思う事も多過ぎた。
それを上回る経験があった事も確かだけれど、どれも刹那的で永遠性は皆無だった。
残ったのは、あらゆる経験とそこで出会った音楽たち。
私という人間の価値は、孤独の中でそれらと共にある。

というか、沢山の歴史を経てボロボロになった自分に、もう同じ経験を踏めるエンパシーは残っていない。
あまりにも激しく生き急いでいたから。
それからはずっと、ひとりでいる事を何よりも優先し、これまで消費してしまった時間を取り戻す為に生きようと思っている。

ただ、、、
コロナと同時に40代を迎えて、今、この思考にもうひとつ別の思考を取り付けても構わないなら、最近感じた真逆の認識がある。
どれだけ周りに囲まれていようと、いなかろうと、本当の孤独に陥った時、自分という灯火は消えてしまいそうになる。
そんな時、やはり自分のそばに掴む手があったなら、どれほど救われるだろうかという事。それさえあれば、いつもすぐ立ち上がれるのに。

人は社会性の動物だから、ひとりでは生きられないようにできている事は知っている。
コミュニケーションが皆無になれば、脳は機能しなくなるし、感情も死んでいく。植物に水を与えないのと同じように、心も枯れていく。
だから自分は、3割程度の人間関係で良いのだと考えていた。
生きていくのに必要な分だけ。
時々つまらないと思う事はあっても、寂しさを感じない性質ゆえに、煩わしさと比べれば答えは一つだった。
でもそれは、心が壊れなかったらの話だと気がついた。


・マインドの神隠し

明確な理由が見当たらなくても、人の心は壊れる事がある。
原因を探れる内はいいけれど、それが尽きた時、お手上げになってしまう。
そして、それは誰にでも起こり得る。
いつもの自分が消えてしまい、また会えるのかも分からない。
どれだけ充実した関係性があっても、ひとりで戦わなければならない精神状態に陥れば、段階を経て、命の瀬戸際に追いやられていく。
死なないこと、生きることの意義を知っていても負けそうになる。
相当の自己意識を持って、SOSの旗を握りしめていても、タイミングが見えない。
私はギリギリの所で、なんとか冷静でいられて、専門家を予約した。
それでも一ヶ月は耐えなければならなかった。
これは確かにサバイバルだ、と実感した。

希死念慮から全身全霊で逃げ続ける努力を、無気力の人間が行わなければならない。
私は人間の辛さを体験して、共感性を高めるために、今ここにいるのだと必死に考えながら、何度かの波を超えはしたけれど、次は勝てるのか自信がなくなった。
そして、ふと、先のような事を思うようになった。
言葉はいらないから、ただ横にいてくれる人がいれば。
友達でも、家族でも、恋人でもいい。
結局自分は、そうやって全ての関係に一定の距離を置いてきたから、今ここには誰もいない。自分には、本当にいざとならない限り、すぐに白旗を振れる誰かがいない。
ここまで自分を追い込んだのは、自分なんだと悟った。

孤独には流儀がある。でも、流儀には、"気"が備わっている必要がある。
私は消えそうな体験をしたから、もし誰かが同じ状況にいれば、きっとその気持ちを理解する事はできる。でも、だからといって、自分がその人の生涯の友人や伴侶になれるわけでもない。孤独という流儀から離れてしまえば、セルフサバイバルが開始される。

そこまでの経験をしてもなお、私はひとりでいようと思っている。
自分が耐えられるかの消耗戦かもしれないし、トラウマから、もう一機もチャンスがないと言われてるのかもしれない。専門家だって、対処法以外の答えは知らない。それでも心を開いて、いくらでも頼るつもりでいる。
今後どうするかは、常に賭けになる。

現段階で一つ良い事があったとすれば、少食になってダイエットに成功した事ぐらいだ。
体は健康でも、心の津波と隣り合わせだけれど。
金はあるのにパン屋がないみたいな状況と似ているかもしれない。
でも、健康を維持する事は、フィジカルにおいても、メンタルにおいても、サバイバルの基本だから。


・わたしは自分に嘘をつく

父の格言で、"嘘はつくな"という言葉があるのだが、人には正直に、自分の心にも正直に、という意味だ(と思う)。
父の死後、十数年を経て、正当に使えていると自負する自分と、だいぶ歪曲して使っている自分がいる。
人に対しては時に優しさにもなるし、のっぴきならない状況の時には、自分を誤魔化してでも生きろと考える。騙すのは、死にたい訳じゃない自分のために。

私は弱い。基本、全ての事に自信がない。
でも、弱くても生きようとする事に意味があるのだと思っているし、結果がゼロでも何かあるかもしれないと、いつも自分を試し続けてしまう。
人前に出たり、話したりできなかった自分が、どうでもいい意見を聞き流したり、時には親身に聞くようにもなって、今は、社会性は3割で十分だとか、人間はそんな生ぬるい生き物じゃないとか勝手に言い合うようになった。結局、自分はどこにも消えておらず、各々馴れ合っている様子を遠くから眺めている。

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