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『リテイク論』の前に③

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「距離を置きたい」
としほから話があった。働き詰めで疲れ果て、家のことと職場のこととを分けて考えられなくなって辛いのだと、彼女はそう言った。
「職場の時間の流れ方と家の時間の流れ方が違うから、すごくイライラしちゃうの」
 それはぼくも感じていた。切り替えられてないなと感じることが多くなっていた。彼女は広告写真のカメラアシスタントをしていて、昼夜問わず働いている。残業が当たり前なので家で過ごす時間は相対的に少なくなり、家に帰ったら寝るだけの日々が続いていた。ぼくはそんなしほをサポートするべく動くこともあったが、基本的にぼくもスタミナがない方だから、サポートらしいサポートもできず、〈今日は何時に帰る?〉のLINEだけ頻繁に打ち、それがまた彼女を苛立たせるのだった。
「〈何時に帰るね〉って返事したのに帰れなかったりとか、そういうのがもうほんと耐えられないの。時間を気にせず夜中じゅう友だちと駄弁りたいし、いろいろ全部リセットしたい。だから距離を取る」
 ぼくは
「距離を取るっていうのは、具体的に言うと?」

 2024年3月26日、ぼくは神奈川県へ本命の就職面接に向かっていた。この日はひどい雨で、東京からやっとの思いで面接先の会社に辿り着いた頃にはローファーの中はびしょびしょになってしまっていて、足先が冷えてしょうがなかった。適正テストと面接を終え、ぼくは藤沢市の中野さんの事務所に向かった。蔵まえギャラリーだ。中野さんの事務所が移転するのでその手伝いをした。そして、ぼくは『リテイク』の予告編を作るために彼から映像素材をハードディスクでもらった。帰りには晩ご飯を奢ってもらった。彼は
「北京に『リテイク』行くから、北京飯店にしよう」
4月に北京で『リテイク』が上映されるらしかった。久しぶりに中華を食べた。きくらげが大好物だから八宝菜定食にした。本当においしかった。北京飯店は初めてだったけどかなりいい感じだった。
 家に着いたのは21時半くらい。藤沢から東京の自宅までかなりの距離があったから本当に疲れた。しほはまだ帰っていなくて、今日も遅くまで仕事みたいだった。
 家はだんだん汚くなっていった。洗濯物は溜まっているし、洗い物は1日1回しかやらない。料理すらほぼしない。キムチと納豆と簡単な炒め物で誤魔化して、たまにポリポリチョコレートを食べながら生きていた。しほはほとんど家にいないし、ぼくしか家に生息する生き物はいないわけだから、ぼくがどれだけだらしなくしていても誰にも迷惑はかけないわけだ。しほにだけは迷惑をかけたくなかったけど、正直ぼくも生意気なところがあって、しほがこれだけ働けてるのはぼくが今まで家のことをほとんどやってあげてるからだぞという気持ちがあったから、「お互い様だろ」と思っていた。多少汚くても目をつむれ、ということだ。でも、明らかに体力的にきついのはしほの方で、ぼくはもともとスタミナがないためちょっとのストレスでかなりのダメージを喰らうから、何もせず1日寝込む日なんかも多かった。ただ就活はしていた。通信制大学のレポートもしてたし、バイトも週に3回は出ていた。何もしていないわけではないとは言えた。ただ、何かしているとも言えない気がした。
 しほと同棲を始めて1年になる。しほは2023年度に社会人になり、それを機に2人暮らししてみようということで、2人で物件も探して、ようやく今の家を見つけてそこに落ち着いた。その物件は引越し業者に「牛乳パック」と呼ばれる形の物件で、一軒家をまっぷたつに分断した形の、いわゆる2世帯住宅だった。隣はたぶん20代の社会人カップルで、どんな仕事をしてるかはわからなかったけれど、とりあえずスーツは着てなかった。割とゆったりした黒めの服を着て自転車で通勤してるみたいだった。引っ越しの挨拶はなかった。お互いに顔を合わせるのも、この1年で2回だけだった。東京ってそんなもんなんだろうな。
 「これはチャレンジなんだ」と2人で始めた同棲生活は、果たして今どうなってるんだろう?しほは仕事、ぼくは就活で、お互いボロボロになっていた。
 本当なら、ぼくがしほを支えるべきだ。ぼくとしほは高校の同級生で、同じ年にそれぞれ大学に入ったけれど、ぼくが一度大学を辞めて違う大学に入り直したため、卒業の時期が2年遅れてる。ぼくの卒業は2025年3月予定。今は2024年3月31日。ぼくが本当の意味でしほの支えになるのはきっかり1年後だ。今2人で住む家の家賃はしほの会社の家賃補助で安くなっているとはいえ、彼女が払っている。ぼくは食費と光熱費を負担している。すべて彼女におんぶに抱っこというわけではない。それでも、ぼくは2万円を実家から毎月振り込んでもらいながらなんとか生きているので、やっぱりぼくがちゃんとやっていけてるわけではない。わざと力を抜いて親に引っ張られる子どもみたいに、ぼくはしほと実家の両方の手を握りながら、だらんと力を抜いている情けない男だと、そう見ることもできる。すごく中途半端な時期だけど、できる限りのことはやりたいしやっているとも思ってる。でも、「もっとできるのに」としほや親に言われそうで、思われてそうで、とても心苦しい。聞いたわけでもないのにそう思うのは、ぼくがぼくに対してそう思ってるからなんだけど。
 「心苦しい」ってなんだよ!と思った。やっぱり甘えてるんだな。わかった。
 同棲してもしほは変わらない。ぼくはだいぶ変わったと思う。就職先も、今まで映画と法律の勉強をやってきたのに、鉄道系と建築系の会社に絞ってる。理由は「現場」と「安定」が欲しかったから。ぼくはひとが好きだから、「現場」があれば仕事をサボることはないと思う。「安定」があれば、しほとの暮らしに見通しを持てるから、福利厚生の比較的行き届いた会社にした。何も文句はない。こう考えられたのは、しほがへとへとになって帰ってくるのをケアするのに疲れたからだ。ぼくが安定した収入を得ていれば、しほのへとへとな姿を見ることはなくなるのではないか。そう思った。もうしほのいない生活を思い描けない。
 しほの社会人1年目の夏場は酷かった。朝の5時に家を出て、夜の0時に帰ってきて、また朝の5時に家を出る。ぼくはそれを待ち構えて、寝るときには1時間マッサージして、しほの起きる時間の1時間前に起きてまたマッサージを1時間して、できる限り体を持たせた。サーキットレースの部品点検の時みたいな感じだった。でもやっぱりぼくはスタミナがないから、そういうケアには限界があった。もう今はできない。今ぼくには就活がある。
 こういうこともあって、しほが働けてるのはぼくの力も少しはあるぞと思ってしまう。誰も頼んでいないのに、ぼくはやってしまう。きっと、世の中そんなひとがたくさん家庭にいるんだろう。これをずっとやっていたら、不満も溜まる。でも、やりたくてやってる。このジレンマが具体的なケアの問題なんだと知った。働き方改革は働くひとのためのものじゃない、彼らをサポートするひとのためだと考えるようになった。ぼくはしほよりもしほの会社の悪口を言っている。しほは困ったように笑う。ぼくはぼくのために怒っていた。
 同棲を始めてぼくとしほの間の関係性に変わりはなかったと思う。ただ、社会の見え方が変わった。この1年物価の上昇が著しかったのも大きく影響してると思う。政府がやってることなんてほとんど何もないんだな、というのが本音だ。むしろ地方行政の動きや、民間の動きがダイレクトにぼくたちに影響する感じがした。ぼくは政府に不満はない。というか興味がない。社会科の先生になろうかなと思ったとき、「ぼくは国に何をして欲しいかな」と考えた。でも、何もなかった。そのことに衝撃を受けた。国に興味がなかった。自分の意見というものがなかった。ただ目の前の生活に精一杯だった。たぶん、ほとんどのひとがこういう感じなんだろうなと思った。ぼくの住む江東区でこの1年2回も区長選挙があったけど、2回とも終わってから知った。何か自分の意見を持たなければ政治に参加できないとしたら、ぼくは政治に参加できない。でも、いまのぼくの実感は、政治に興味もないし、したがって国に不満もないけれど、それが「生活のリアル」なのだから、それを踏まえた「政治」がないならば、それは生活実感からかけ離れているとしか言えず、したがってそんな政治に興味は持てないというものだった。抽象的だけど、本当にそう思った。
 抽象的な話ばかりしているからお金の話に戻る。ぼくは光熱費、食費、学費を自分で負担している。実家からは月に2万円仕送りをもらって、なんとか生きている。スタミナがないことを言い訳に、結局しほに学費を借りたりしている。なんでこんなこと書いてるんだろう。とりあえず、ぼくは「ちょっと情けない」。そんな自分が嫌だ。だから変わろうとしている。実際変わったところも、実感もある。良い方に変わっていると思う。でも、遅かったのかもしれない。

「距離を置きたい」
 しほは家に帰ってきて、ひどく疲れた幽霊みたいにぼくのそばにずっといたかと思えば、急にそんなことを言い出すのだった。しほは働き詰めで疲れ果て、家のことと職場のこととを分けて考えられなくなって辛いのだと言った。そして
「職場の時間の流れ方と家の時間の流れ方が違うから、すごくイライラしちゃうの。〈何時に帰るね〉って返事したのに帰れなかったりとか、そういうのがもうほんと耐えられないの。時間を気にせず夜中じゅう友だちと駄弁りたいし、いろいろ全部リセットしたい。だから距離を取る」
「距離を取るっていうのは、具体的に言うと?」
「具体的って?」
「具体的、だよ、つまり、うーん」
「距離を取る!」
「つまり、ママさん家(しほの実家)に帰るってこと?」
「ううん、ここには住む。一緒のベッドにも寝る。でも、距離は取る」
「......」
 話を聞くと、同棲してるけど別れてるカップルみたいになりたいということだった。だからぼくは
「うーん...別れてみる...?」
しほはニカッと笑って
「1回別れるか!」
 ぼくたちは擬似的に別れることにした。

 「擬似別れ同棲カップル生活」は結構楽だった。それでも、まだ始めてから今日で5日だけど。
 しほを気にかけなくて済む。これがこんなに楽なのかと思った。日々のケアから離れられた。いや、最近はケアしていなかった。なのに、ケアしてる感覚があった。つねに彼女が気がかりだった。彼女のことを気にしていなければいけないという感覚があった。それは、生活に対するぼくの負い目からだったかもしれない。しほに比べてのんきに暮らしている自分。しほに比べて生活費を工面できない自分。しほのことをケアの対象としてしか見ることのできない自分に対する負い目もあったかもしれない。「これではいけない」という意識がつねにどこかにあった。それが「擬似別れ同棲カップル生活」からパタッとなくなった。擬似的にでも別れるというのは、本当に気持ちのリセットに効果的なのだと知った。
 しほとは次の日も普通に会話はした。でも、「何時に帰ってくる?」とは聞かなかった。この期間はお互いに誰と何をしてもいいということにした。そしてお互いのことを何も聞かないことにした。それがとても楽だ。
 ぼくはここ最近、しほに興味がなかった。つねに気がかりにしていたから、わざわざ考えたくなかった。でも今は少し考える。今何をしてるのかなとか。ぼくは福満しげゆきという漫画家が好きで、彼が若い頃自分の妻をストーキングしていたという話を知って「すごく面白い!」と思ってから、いつか自分でもやってみたいと思っていた。でも、ぼくはしほと付き合ってもう7年になるし、ほとんどいつも一緒にいたから、わざわざストーキングする意欲が湧かなかった。でも、今はその意欲が湧いてきた。そう、今はお互い誰と何をしてもいいのだ。ぼくはぼくの「擬似元カノ」をストーキングしたい。「擬似」というのがポイントだ。これで、きっと、本当のストーカーじゃない。だから......きっと......大丈夫...........だ。

 なんでこんなことになってしまったんだろう。ぼくは『リテイク』と中野さんの話をしたかったはずなのに。でも、今回は、ぼくがしほの話をするのは自然な気がした。彼女がぼくの人生の核だからだ。
 ぼくの人生は彼女なしにはあり得ないし、彼女がいなければ中野さんとの出会いもなかったとさえ思ってる。それくらい、彼女には大きな影響を受けている。今回は彼女の話をしたというよりは、ぼくがぼくの人生について話していたら彼女がどうしようもなく登場するという感じだけど、なんというか、中野さんや『リテイク』のことを書くにあたって、ぼくの不甲斐ない部分というのは書くべきだと思ったのだ。
 ぼくは『リテイク』の中でジローという役で出演している。彼は絵を描くのが好き(だった)で、美大に行きたかったが実家の家業を継ぐために進学は断念した青年だ。それが、ユウたちとの映画制作で大事な何かを得ていくのをぼくは演じながら感じていた。ジローはユウの作る映画の主人公で、画家の役をやっていた。その絵は実際にジロー(ぼく)が描いたものだが、それがジローの精一杯で、それを褒めてくれたウミという女の子に彼は惹かれていく。もっとも、ジローとウミはおちゃらけた感じだから、真面目な交際かどうかは怪しい。でも、ぼくはどうもジローを嫌いになれなかった。おちゃらけた中に、真剣なものを心に持っている気がしていた。
 『リテイク』のエンドロールでぼくの名前は〈千葉龍青〉となっている。ぼくの本当の漢字は〈千葉竜生〉で、これは誤表記ではない。ぼくが中野さんにお願いしてそうしてもらった。なぜかというと、昔から〈竜生〉という漢字がスカスカした感じがして好きじゃなかったからだ。一時期は本気で改名も考えたが、読み仮名が同じで漢字だけ変えるというのは法律的に難しいみたいで断念した。だから、せめてエンドロールでは自分の好きな漢字を使いたかったのだ。そんな〈千葉龍青〉という名前は、『リテイク』にしか刻まれていない。ぼくはぼくの名前を「リライト」した。『リテイク』は登場人物は同じでも、その物語の流れが変わる。ぼくの名前は読み仮名は同じでも、その漢字の表記が変わる。同じ名前なのに違う名前で、同じひとなのに違う物語というのは、ぼくの中での大きな重なりだ。
 『リテイク』を観たひとはわかると思うが、あれは単純な「リセット」の話ではない。すでに撮られた映像は何度見返しても同じものを見せてくる。『リテイク』はだから、その映像の「変わらないもの」としての性質を〈撮る〉〈撮られる〉の関係から引き離すように、あるいは何度も撮り直す(リテイクする)こと自体を前景化することで映像の「変わらないもの」としての性質を揺るがす契機として「同じとは何か」という問いを打ち立てる。
 要するに、ぼくは『リテイク』が好きで、ジローはその中で絵描きの青年として登場する人物で、そんな彼を演じているのは、〈千葉龍青〉という「同じ」読み仮名で「同じ」人物の〈千葉竜生〉「ではない」ひとなのだ。
 非常に抽象的な言い方しかできないが、ぼくは今こんなことを考えている。振り返ると『リテイク』は、ぼくが演じているのにそれはもうぼくではない感覚がすごくある。ジローとぼくは同じ人物のはずなのに、全く違う世界を生きている。画家が絵の裏に名前を書くように、彫刻家が石像の裏か下に名前を刻むように、『リテイク』のエンドロールには〈千葉龍青〉と刻まれている。あのジローを描いた(演じた)のは〈千葉竜生〉ではなく〈千葉龍青〉なんだと、なんとも言えず、感慨深くなる。でもそれは確実にぼくで、「同じ」人物なのだ。
 この「同じ」性は重要な気がしている。ぼくの生き方がそのまま『リテイク』の語りに直結する何かを物語っている気がする。今は、そんな気がしている。だから、ぼくは、『リテイク』を撮った中野さんや、ぼくの人生に関わったひとたちのことを「書か」なければならない。それが「リライト」した〈千葉龍青〉と、つまりジロー=ぼくにとっての『リテイク』との接点だからだ。
 
 ぼくはしほとの同棲生活で、かなりいろんなことの捉え方が変わった。平たく言えば「大人になった」。でも、『リテイク』は変わらず好きだし、変わっていないところの方が多いとも思う。そんなぼくの迂回した接点として、『リテイク』に「リライト」したぼくの名前は残ってる。
 むしろまた『リテイク』の話ばかりになってしまった。......やっぱり楽しいなと思った。ということは、あまりひとには伝わらない内容だな、とも思った。なんてことだろう......。

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