見出し画像

演奏芸術と再生芸術について語る

✳️この記事は2021年4月に書いたアメブロ記事を編集したものです


トーマス・エジソンによって世界初の蓄音機が発明されるまで「再生芸術」は存在していなかったと思う。1889年、エジソンの代理人がブラームスを訪ね、録音が実現する。そこでは彼らの肉声とハンガリー舞曲第1番の自作自演が途中まで収録された。演奏は中断されているように聞こえる―この後ブラームスは公の活動から離れ、隠居生活を始めようとする。まるで自らの行為を恥じたかのように。


対して「演奏芸術」は一過性のものであり、二度と同じ演奏は聞くことはできなかった。イタリアの諺にあるとおり「パガニーニは繰り返さない」のだ。だからだろうか、どこにいても音楽を楽しめる環境と状況にある僕たちにしても、やはり「実際のコンサート」が良い―という考え方は不思議と失われていない。

(執筆当時の) 2021年春の時点でも「COVID-19」の状況が続き、演奏家たちの活動は著しく抑えられてしまったが、無観客状態でコンサートが行われるようになり、ネット配信されるようになっても、人々は「コンサート・ライヴ」を望む。
(もしグレン・グールドが生きていたら、どうしていたであろうか)
最近は緩和がなされ、限定された人数の聴衆を含めたコンサートも行われ始めている。

僕も機会があれば、やはりコンサートに足を運びたいと思う。何故か?やはり「一過性の価値」に重きを置いているからだろうか―。
単なる気分転換だろうか?
「非現実」とまでは言わなくても、音楽に包まれる環境に身を置きたい、と思うからなのだろうか。
その時にしか訪れない「何か」を期待しているのだろうか―。


もう何十年も前に、音楽好きの知人が私淑するアーティストのコンサートに行ってきたそうだ。結果は散々たるものだった。ホールの音響の悪さが原因だったらしい。帰宅して、改めてCDを聞き直した―と彼は語っていた。

例えば、アニメの憧れていたキャラクターの声優のリアルな姿を見て幻滅した経験が誰しもあるように、時に「現実」は「理想」(もしくは「幻想」)を軽く打ち壊す力を有している。せっかく高額のチケット代を払ったのに、想定以下の演奏を目の当たりにすると、確かにチケット代を返して欲しくなるだろう(いつしかのVPO日本公演はそういう残念な評判を聞いた)。ライヴが持つ「不確定」の要素が嫌なら、自分の音楽に対する「世界観」とのマイナスの「ズレ」を体感するのが耐えられないのなら、自分の「王国」に引き篭もる他ないだろう―。

しかし、「現体験」の影響は時にその人の人生を決定するものになる。学生の頃のブルーノ・ワルターが、もし「トリスタンとイゾルデ」を聞きに行かなかったなら、「指揮者ワルター」は存在していなかったかもしれない―。
こんな話は山のようにあるはずだ。

五感全体で感じ入る―。
倍音が身体に染みわたる―。

よく言われることだが、人は音を「聞く」だけじゃなく「感じ」ている―。
身体全体で受け止めているのだ。
聴覚が捉えることができない音を感じ取っている。
音楽を聴くとリラクゼージョンできる理由の1つがそこにあるのかも知れない。

以前にアナログレコードとCDの音の違いについて語られたことがあったが、CDではカットされている周波数がLPには含まれているようなのだ。
耳では聞こえないが、確実に身体は感じ取っている音たち―。
僕たちの大半が「コンサート」という「実体験」を欲するのは、そんなことも関係しているのかもしれないと思うのだ。


19世紀、メンデルスゾーンによって現在の形に近い「コンサート」が確立されても、すべての人がホールに足を運ぶことは出来なかった。それゆえ当時の文化環境もあってか、家庭で演奏できる編成に編曲された数多くのオーケストラ曲が身近に届けられた。彼らにとってはそれこそが「再生芸術」だったのかもしれない―。

最近は特に編曲モノの録音&演奏のヴァラエティが増えた気がする。かく言う僕も、ひょんとしたことから「ピアノ連弾」に興味を持ち始めている―それもオリジナルではなく編曲版に。各声部がシンプルかつ明確になり、新たな表情を発見できるのは喜びだ。大編成では辟易して聞けない曲がすっきりと聞けるのは、ある意味「奇跡的」な発見に近いものがある。

例えばドビュッシー/「夜想曲」~「祭り」。管弦楽曲での「夜想曲」は恐らく初めての作品だろうが、4手ピアノによって、ある意味での「先祖帰り」を果たしている。

「再生芸術」が僕にとっても(きっと大勢の人たちにとっても)かけがえのないツールであることに一片の疑いもない。もしそれが存在しなければ、僕の人生の喜びの大部分が失われることとなる。

 ( 以前も語ったが「視覚か聴覚か」という究極の選択があるなら、僕はためらわずに「視覚」を失うことを選ぶだろう )

このブログも存在し得ないのだ―。
そして今の僕自身も―。


僕の手元には僅かな枚数のアルバムしかない。音楽愛好家なら4~5ケタの枚数があってもおかしくはないだろうが、どういう訳か、まるでヴェーベルンにでもなったかのように切り詰めて、最小限度に留めてしまっている。それでも満足なのは恐らくYouTubeで同曲異演を楽しめるメリットがあるからだろう。現在のコレクションの1枚1枚は数えきれない再生数であっても常に輝き続けるアルバムたちばかりなのだ―。

(2024年現在では、数年前の執筆時よりだいぶ枚数が増え、当初の拘りが変化しつつある)

「再生芸術」の最大のメリットはその「持続性」にある。繰り返し聞き、そう願えば「骨の髄」まで沁み込ませることも可能だ。作品の姿を―その完全に近い姿を―じっくりと観察できる。スコアを見ながら作品を研究することも容易になった。そして望む時にいつも近くにそれは「いる」(「ある」というべきか)

蓄音機の時代からLPへ、そしてCD時代となり、今では「ダウンロード」だ―2024年の今年にはついにApple Musicがクラシックに特化したサービスを始めた―。
音質もデジタルで申し分ない。音楽が「データ」としてやり取りされることに密かな抵抗を覚えるとしたら、時代遅れだろうか―でも考えてみると「楽譜」も紙の「データ」なのだが。


それでも僕はよく考えることがある―。

もし世界が随分おかしなことになってしまって、手元に「壊れかけのラジオ」しかなかったとしても(よくカラオケで歌ったな)、そこから「か細く」流れる音楽にきっと食いつき、慰めを得ることだろう。そのような時に、演奏家の解釈、音質、スタイル、奏法などが問題になるだろうか。誰のどんな演奏であっても、そこから流れる音楽は確実に僕の心に潤いを与えてくれるのだ。

(何故かそんな「危機的事態」に流れる音楽は「G線上のアリア」と決めつけている)


「演奏芸術」と「再生芸術」を擦り合わせたのが「ライヴ・レコーディング」だろう。商業ベースの話はさておき、僕たちはそこに「演奏芸術」の匂いを感じ取り、たとえそれが加工された代物であっても、そこに「コンサートの夢」を見るのである。ただ、もし演奏ミスが編集されなければ、聞く度に演奏家は同じミスを繰り返す羽目になり、僕たちはそのミスに付き合わされることになる。不思議な事実だが、演奏至難で知られるマーラー/交響曲第9番には妙に「ライヴ・レコーディング」が多いのはなぜなのだろう。疵があって当たり前なのか、作品の魔力がそうさせるのかはわからない。幸いなことに名盤も多いようだ―バーンスタイン/BPOによる1979年の一期一会の「伝説的」なライヴのように。逸話が沢山残っている演奏でもあり、ある意味「壊れた」名演であろう。


「演奏芸術」がもたらす喜び―。
そして「再生芸術」がもたらす喜び―。
それらは似て非なるものなのだろうか―。

今の僕たちはそのどちらも必要としているのだ―。


The purpose of art is not the release of a momentary ejection of adrenaline but is, rather, the gradual, lifelong construction of a state of wonder and serenity.
― Glenn Gould

「芸術の目的は、瞬間的なアドレナリンの解放ではなく、むしろ、驚嘆と静寂の精神状態を生涯かけて構築することにある」― グレン・グールド




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?