見出し画像

夢に、真っ直ぐに向かわなくても良い

学校でも習い事でも、親族の間でも、「将来何になりたい?」の質問が子どもたちを襲います。
長女は、3歳の頃から変わらぬ夢がある…というちょっと風変わりな子どもなので別として、、次女は、聞かれるたびに夢が変わっていきます。子どもらしくて、私は好き。
私自身は、「何になりたいか」より「どう生きたいか」の方が問いとしては好きだなと思っています。

私自身は、20歳の頃に思い描いた夢を、すぐに叶えることができませんでした。紆余曲折あって、実現したのはつい最近です。
そんな生き方も悪くないかなと思っています。


子どもの頃の大人の影響は絶大

小学生の頃に言われた父の言葉

小学生の頃から、自立にとても興味のある子どもだったと思います。
何かのきっかけで父親と大喧嘩をして、「飯を食わせているんだから生意気いうな」と言われ、ミッキーのバックに荷物を詰めて「だったら一人で生きていくわ」と飛び出した(勇気がなくて、庭で1時間くらい過ごして終わった家出…)なんていう思い出もあり。
昭和の父っぽい人ですが、一方で、大人になる頃には当たり前のように女性でも働き続ける時代なのだからと、学ぶことと手に職をつけることの大切さをよく語っていました。
家計は厳しかったのですが、私を大学進学させてくれたのも、父のそういった想いからなのかなと思います。

剣道少女時代の出会い

小学生から高校生までは剣道少女。剣道で全国大会に出場したこともあり、先生からつけられたあだ名は、「カミソリのアエラ母」でした。恐ろしきあだ名…(でも、見た目は「コケシ」って言われてました)
年に数日しか、お休みがなかったハードな中高生時代。剣道やっているか、寝ているか、漫画読んでいるかの記憶しかありません。(授業はどこへ…)

多感なお年頃に、恩師ともいえる大人にも、一方で反面教師となった大人たちとも出会いました。(後者の方がとってもとっても多かった‥‥)

「嫌な大人にはならない!子どもを応援する大人になるんだ!!」という思いで、学校教員を目指し、大学に進学。小学校時代から、外国籍の子どもたちと一緒にクラスで過ごすことが多かったことも手伝ってか、国内外問わず、世界中の子どもたちが笑顔になる仕事に就きたいなと思って大学時代を過ごしていました。

天に任せたキャリア形成

最初のキャリアは小学校教師

大学卒業したら海外へ…という思いもあったのですが、実家で大きなハプニング発生。地元に帰って就職することにしました。教員氷河期時代でもあったのですが、運よく新規採用で小学校の先生に。
夢が心の中にうずいてはいましたが、なんだか自然と「今はここでの出会いが必要な時期なんだ」と思うことができました。

そうは言っても念願の先生。子どもたちと向き合う日々、やりがいがありすぎました。
体調を壊し、たった2年で退職することになってしまいました。
志半ばにも至らない短い期間ではあったのですが、「最初の仕事」は代えがたい経験だったと今改めて思っています。

次のキャリアは好奇心軸で選択

少しお休み期間を経て、地元の製造業へ。「ものづくり」が盛んな地元なので、街を支える産業への好奇心から次のキャリアを選びました。
最近は「100年時代」「キャリア開発」という言葉を耳にします。すごく大切だと思っています。娘にはよく、キャリアを考えることの大切さを伝えています。
でも当時の私は、未来のことを全く考えずに「やってみたい!」で仕事を選んでました。

教員と、製造業の仕事の仕組みは全く違い、私の好奇心をくすぐりました。
先生は、経営者、総務、営業、技術…色々な役割を一人で担っている。製造業は、部門ごと、チームごと、かつ時間単位でも役割分担があって、多くの人の連携によって動いている。と感じました。
私にとってはとても新鮮で、大きな発見でした。
また、職員室にいる先生は40名くらいでしたが、会社には数百人もいて、多様性に満ち溢れていました。
仕事が終わる、達成するという感覚を味わえたこともとても大きな経験でした。

人生の転機

素敵なパートナーとの出会いもあり、自然な流れで結婚。子どもも2人授かりました。
漠然と、このまま仕事で働き続けながら家庭を築いて、家族仲良く生きていけたらいいなぁと思っていました。
「女性も働き続ける時代なのだから…」という、父の言葉通りに行くと思っていたのです。

長くなるので、続きはまたの機会に。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?