認知症とか職員会議とか
今週、朝ドラの余貴美子の演技が話題だ。
主人公の夫の義母の役なのだが、それまでの穏やかな雰囲気から打って変わって、認知症の発症から進行の様子を見事に演じている。
わたしはわりと楽しく見ているが、この作品自体にはいろいろな意見もあろう。
ただ、確かに彼女の虚な目の演技は、わたしの見知った認知症の人の目で、役者というのは大したものだと思った。
朝ドラや大河ドラマに代表されるが、総じてNHKのドラマ作りはセット、時代考証、そして俳優の演技力と、脇の部分が充実している。
まぁ予算が潤沢なのもあろうが、腐っても何とかで、まだまだこの局に対する信頼は根強くある。(関係者がいらしたら申し訳ない)
ドラマの好き嫌いは、何も内容だけに限らない。
わたしにとっては道具立て、設定や真実味というのもかなり重要なファクターだ。
例えば、現在日本のテレビドラマを回している三大職業は「医者・弁護士・警官」な訳だが、少し前には(といっても30年くらい前か)弁護士の代わりに教師というのがこの地位にいたように思う。
この教員ドラマというのがわたしは苦手で、まず見ない。
なぜなら自身が教員だったからで、ストーリー以前に、出てくる学校のリアリティーのなさに、もうやめてくれよぉという気分になってしまうのである。
例えば職員会議。
残念ながら真っ当な描写を見たことがない。
まず出席者の数からして違っていて、全員で10人くらいしかいないことも多いのだが、あれでは小さな学校の学年会議だ。
あと、管理職がやたらに退学を持ち出したりするのはともかく、今度の試合に勝ったら廃部は撤回とか、年度途中に新人を雇って担任に据えるとか、いや、世の中にはそういう普通じゃない私学もあるかもしれないけど、なんか確実に新聞沙汰を起こしそうな剣呑さだ。(ちなみに公立なら絶対にあり得ない)
あのリアルだと評判だった金八先生ですら、今見てみると、「んなわけあるまい」という感想を禁じ得ないのである。(実際あれを信じて教員になって現実に絶望した、という話は枚挙にいとまない)
リアリティーといえば、一応わたしもアーティストを名乗っているので、ドラマに出てくる画家、芸術家がいかに胡散臭さいかということも声を大にして訴えたい。
そもそも出てくる作家が作った作品、というのが最低で、有り体にいって「下手くそ」なのである。
絵にせよ彫刻にせよ、まともだったものをほぼ見ない。
(ただこれには例外があって、過去二つだけまともだと思ったことがあるのだが、それはきちんとした作家の作品を借りていたようだ。はっきり覚えているのは竹下景子主演の「天才画の女」NHK・1980年)
さらにいえば記事一本でその画家の運命を左右してしまう評論家とか、特選をとると美術界で生きていけるようになる展覧会とか、そんなあろうはずもない代物がわりと頻繁に出てくるのはどうしてなのだろう。
多分こういった思いは、警察官にも医者にも弁護士にもあるに違いない。
ただ自分が知っている分野以外は、どうしても解像度は甘くなるもので、絶対あり得ないと頭でわかっていても、何となく楽しめてしまう。
逆を言えば、ドラマがあまりに自分の生きる(あるいは生きた)世界で描かれると、例えそれが虚構であっても、現実の問題として自分に引きつけてしまい、しんどくなったり、怒りが湧いたり、あるいは居た堪れない気持ちになったりしてしまうのかもしれない。
今回の認知症の演技にせよ、身近にそういう人を見ている視聴者が多いからこそ話題になっているのだろうし、だから例えばこれが認知症メインのドラマになったなら、今度は些細な違和感や、自分たちとは違う経験で(あるいは同じ経験であっても)、見るのが辛くなる人が出ていたのかもしれない。
虚構を楽しむというのは、案外厄介なものかもしれない。