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【連載小説】韓信 第20話:濰水の氾濫

第2部

#創作大賞2023 #オールカテゴリ部門

濰水の氾濫

 韓信の戦い方は、常に相手の裏をかく。武を競い合おうとする相手に肩すかしを食らわすような戦法は、当時でも賛否が分かれたものであった。しかしこのことを批判する者は物事の本質を見る目を失っていると言うべきである。現代においても「戦争とは正当に認められた政治的手段のひとつである」と憚りなく言う者が存在するが、たとえそうであったとしても戦うこと自体が最終目的であるはずもない。戦争とは、次の世を生み出すための過程に過ぎない。そうである以上、それを必要以上に美化してはならないのである。

 しかし時代や国を問わず、武人というものは自ら指揮する戦争自体を美しく表現したいと考えがちなものである。時にはその結果が敗北であったり、玉砕であったりすることもあるが、彼らにとってそれよりも大事なことは強大な敵と雄々しく矛(ほこ)を交え、怯むことなく戦ったという事実であった。

 実に底の浅い、罪深い人物達だと言えるのではなかろうか。


 平原(地名)から済水を渡り、斉国内に侵入を果たした韓信率いる軍勢の進軍速度は、快調そのものであった。

 城の内外に守備兵がほとんどいないということは、軍を向ければ必ず城が落ちるということであり、人命や時間を無駄に損なうことないので、韓信としては大いに助かる。

 時間がかかれば、敵に迎撃の機会を与えることのほか、糧食の問題も発生する。糧食の問題が発生すれば兵の士気にも関わり、それが深刻な状況に陥れば餓死する者も出てくる。そんな軍が戦いに勝てるはずがない。


 韓信の軍が斉に至り、そのような問題に直面せずにいられたのは、他ならぬ酈食其の功績であった。

 韓信としては、なるべく酈食其を救出し、保護したい。できれば危機を察知して脱出していてもらいたかったのだが、首都の臨淄(りんし)に間近に迫った今でも斉軍の反撃が散発的なことは、酈食其がまだ臨淄に残っていて、斉王相手に説得なり工作なりしていることの証拠であった。


 つまり、酈食其は助からない。


 そうと知っていても、今さら進軍を止めることはできなかった。

 ここで軍を引くということは、せっかくの酈食其の功績を無にすることであり、ひいては劉邦の意に背くことになる。私情にかられて中途半端な侵略行為で終われば、酈食其が斉王に殺されるばかりでなく、自分も劉邦に殺されるかもしれなかった。

――結局は、自分の命が惜しい、ということか。

 韓信はそう思い、自らを嘆かざるを得ない。

 しかし一方で、

――人として生を受けたからには、それを惜しみ、大事にするのは当然のことだ。なにを思い悩む必要がある?

 などと開き直ったりもするのだった。


――酈生のような達観した死生観を持つ男は、このような感情のせめぎ合いとは無縁でいられるのであろうか。

 だとすれば尊敬すべき生き方ではあるが、自分がそれに倣おうとは思わない韓信であった。

――酈生は、死して名を残す……。彼のような男に比べたら、自分は単なる軍人に過ぎぬ。その単なる軍人ができることと言えば、せいぜい長生きして、敵兵を一人でも多く殺すことしかない。自分は生きて名を残すしかないのだ。


 韓信の酈食其に対する思いは、さまざまな過程を経ながら、結局最後には自虐的に自分を評価するところで帰結した。


 昨晩まで親しく酒を酌み交わしていた相手が翌朝になって態度を豹変させることは、この時代のこの国では、珍しいことではない。ある朝、酈食其は斉王田広や宰相田横の自分に対する表情がいつもと違うことに気付いたが、たいして驚きもしなかった。

「広野君(酈食其の尊称)、君は天下は漢に帰すと余に語ったが、それはこういうことなのか」


 田広の表情、口調も反問を許さないものであったが、それに動じる酈食其ではない。涼しい顔でこれに応対した。

「さて、どういうことですかな」


 しらじらしい言葉、わざとらしい表情。あたかも確信犯的な態度である。

「……われわれ斉が漢に味方することを決めた以上、漢軍の矛先は、楚に向けられるべきではないのか。しかし、聞くところによると漢は大軍を擁し、済水を渡り、ここ臨淄に向かっているそうではないか。広野君、貴公はこれをどう説明するつもりか」


 酈食其は鼻を鳴らして、不満を表明した。物わかりの悪い子供を叱りつけるような態度である。

「今さらなにを言われるのか。わが漢が貴様ら斉国などと同等と思われては困る。わしが心から貴様らと誼みを結ぶはずなどないではないか。貴様らはわしがなにを言おうと、面従腹背の態度で臨み、都合が悪くなると、平気で裏切る。今、漢が軍を臨淄に向けたのはひとえに貴様らが信用できぬからだ」

 それまで横でこれを聞いていた宰相の田横が、たまりかねて会話に割って入った。

「ほざけ! 信用できぬというのは、お前のような奴のことをいうのだ。口先だけの老いぼれめ。儒者のくせに礼儀も知らない男だ。死ね!」


 田横は左右の者に命じて、大釜を用意させた。酈食其を煮殺そうというのである。

 年に似合わず大柄の酈食其は四人掛かりで取り押さえられ、手足を縛られて釜の中に放り込まれてしまった。


 頭から釜の中に落ちた酈食其に向かって、田広は吐き捨てた。

「さて、広野君……。このまま死にたくなければ、漢軍に進軍を止めるよう、取りはからえ。それができないとあれば……死ぬまでだ!」


 すでに釜には火がつけられている。酈食其は徐々に熱くなっていく水の温度に恐怖を感じながらも、精一杯の虚勢を張った。

「馬鹿どもめ! わしを殺せば、漢がお前たちを許すはずがないというのに! お前たちは辞を低くして、わしに頭を下げて頼むべきだったのだ。『どうか漢軍の進撃を止めてください』とな! しかし、もう遅い。わしがお前らのためになるようなことをしてやる義理はすでにない」


 田広、田横ともにこの言葉を聞き、事態がすでに収拾のつかないところに至ったことを知って、歯がみした。

「姑息な……誰がお前のような小人に頭を下げたりするものか」

「確かにわしは小人に過ぎぬ。お前らにとってわしのしたことは姑息な手段だったかもしれん。だが小人が大事を成就させるには、そんな小さなことにこだわってはいられない。お前らがわしのことをどう思おうとも、突き進むまでだ。真に徳のある者はちっぽけな礼儀などにはこだわらぬのだ!」

 驚くことに、生涯儒者として礼儀の神髄を追及してきた男の結論が、これであった。


 田広などにとっては、酈食其が儒者だということも虚言であったかのように思われ、どこまで自分は騙されていたのかと思うと、我慢ならない。田広は釜の中の酈食其の顔に唾を吐き、罵倒した。

「貴様は腐れ儒者だ! 腐れ儒者の礼儀など、人を誑かすものでしかないことを余は思い知ったぞ。早く死ね! 貴様が死んだ後、その肉を食ってやるわ! どうせ美味くはないだろうが」


 酈食其は次第に気分が激し、どんどん高くなっていく湯温が気にならなくなってきた。

 彼の言動は、もはや虚勢ではなくなっていた。

「よいか、断言してやる。わしは確かに死ぬが、お前たちにわしの肉を食っている暇はない! それはなぜか教えてやろう。漢の指揮官は、韓信だからだ! 天下無双の将である彼にかかれば、お前らなど……」

 ここで酈食其は頭の中で言葉を選び、

「野良犬のようなものだ」

 と、吠えるように言い放った。


 彼の罵倒はさらに続く。

「犬、犬! 斉の犬どもめ! お前らが韓信に尻を蹴られ、屠殺される光景がわしには見えるぞ。悪いことは言わぬ。犬は犬らしく振るまえ! 腹をさらして降伏するのだ。それが嫌なら、今すぐ尻尾を巻いて逃げるがいい!」


「この……」

 反論しようとした田広であったが、田横がその肩に手を置き、押しとどめた。彼らは煮られ続ける酈食其をそのままに残し、兵をまとめ臨淄を脱出し始めたのである。


 酈食其が釜の中から放つ高笑いの声が、それを見送った。


 韓信が臨淄に突入したころには、すでに斉の高官たちの姿はそこになく、あるのは取り残された下役人と宮女たち、そしてわずかな数の宦官の姿だけであった。


「酈生は! 酈生はどこにいる」

 探しまわる韓信のもとに、ひとりの男が近づいてきた。その男は、おずおずと一通の書簡を差し出し、韓信に対して仔細を説明しだした。

「私は、広野君の従者でございます。従者は私の他に何名かおりましたが、他の者はみな四散してしまいました。ただ私だけは韓相国(韓信のこと)さまにこちらの書簡を渡すよう申し付けられておりましたので、ここに残った次第でございます」

「酈生はどうした。どこにおられるのか」

 韓信は従者の言葉を遮るように質問した。

「広野君は、すでにお亡くなりになりました……。壮絶な最期でした。どうかその書簡をご覧になってください。広野君は生前より、こうなることを予測して、その書簡を相国宛にしたためておられたのでございます」


 韓信は酈生がすでに亡いという現実を突きつけられ、激しく動悸を覚えた。

 結局はこうなるのか、どうして逃げなかったのか、という思いが錯綜し、しばらくの間呆然と佇んだ。


「……どうか」

 従者は書簡を読むよう韓信に催促すると、自分も難を逃れようとその場をあとにした。韓信はそれに気が付きながらも、ただその後ろ姿を眺めているばかりである。


「将軍……」

 蘭が読むように促すと、ようやく韓信は我に帰り、おそるおそる書簡を開いた。



『……ここに至り、わしは礼の正体を知った。一口に言えば、礼というものは相容れることのない人間同志の欲を反影したものなのである。遅まきながら、わしはついにそれを知ったのだ。


 人はそれぞれ内面に欲を抱えており、それをまったく持たない者は、人ではない。人は程度の差こそあれ、誰しも欲を持ち、それを隠そうとしない者は、一般的に悪人とみなされる。しかし、欲こそが人生、ひいては社会を向上させる原動力となっていることは否定できず、堯舜の時代(ぎょうしゅん・堯、舜ともにはるか古代の聖王の名。神話のように昔であることを指す)から今日に至るまで、天下繁栄の素因となっていることは確かだ。

 いわば欲は人における必要不可欠の構成要素であり、礼はそれをあらわにしないためのごまかしの道具でなのである。


 かつて荀子は人間の本性は悪であるとし、礼によってそれを正すことができると説いたが、仮に人の欲望を悪とみなすのであれば、今さらながらその説は正しいと認めざるを得ない。

 しかしあえてわしはその説を前提から疑う。

 はたして欲は、本当に悪であろうか。


 生物はすべて現状に満足せず、常により高みを目指すもので、これはなにも人に限ったことではない。野にいる獣でさえも、より良い餌場を求めて縄張り争いをし、子孫の繁栄のために同胞同士、相争うものだ。人の欲もこれに似たようなもので、欲を原因とする争いごとは絶えることがない。これを思うに欲とは生物に本来備わった本能というべきもので、悪だ、とはいえない。


 しかし獣と違って知恵を備えた人という生き物は、その知恵ゆえに欲を隠そうとする。その道具こそが、礼なのである。

 ではなぜ人は欲を隠そうとするのかと言えば、隠しておいた方が欲の実現が容易であるからだ。

 欲を隠さない人物は、警戒され、文化的でないと批判される。その結果、欲を実現させることは難しい。

 これに対して利口な者は礼を用いて、内面に潜む欲を隠し、誰にも気付かれぬよう、その実現に向けて努力をするものだ。


 将軍は儒者ではないが、わしの見るところ、礼を巧みに用いている。よって将軍の内面に潜む欲がなんであるのか見極めることは非常に難しい。

 しかしわしは、ついに将軍の欲がなんであるのか発見することに成功したのだ。

 常に孤高の存在でいること。

 これはおそらく将軍自身気付いていないことであるに違いない。だが、わしにはわかる。

 将軍は、項王はおろか漢王からでさえも干渉を望んでおらぬ。将軍は、項王や漢王には、それぞれ普遍的な正しさが欠如していて、それゆえ本気で膝を屈したくないと考えているのであろう。確かにこの二名には良い面もあるが、目を覆いたくなるような悪逆な面もあるので、将軍の気持ちはわからないでもない。

 しかし、将軍は自身の信じる正しさというものの普遍性に確信が持てずに、なにも行動を起こせずにいる。わしとしては、もどかしくて仕方がない。

 将軍は、漢王に対する忠義や礼儀の観念に縛られているが、本来それらは自らの行動を掣肘するものではなく、先に述べたように目的を実現するための道具なのだ。よって、将軍は実際に行動を起こすべきだ。世の中には、漢王や項王の正しさを疑う者など、掃いて捨てるほど存在する。将軍、貴方ほどの影響力のある男が彼らを導かずして、いったい誰が導くと言うのか。


 ところで、礼の正体を知り尽くしたわしは、人生の目的をほぼ達したわけだが、ひとつやりたいと思っていたことがある。わしに残された最後の欲の実現だ。

 それは、自らの死を尊敬する者のために捧げたい、という欲である。迷惑かもしれないが、士というものは自分の死も劇的に演出したがるものなのだ。


 間もなくわしは、ここ臨淄で死を迎える。願わくば将軍はわしの死を有意義に活用することを考えてもらいたい。死者に対しては、礼など不要だ。わしの死と引き換えに斉の地を将軍のものにするがいい。

 将軍と初めて会った時、わしは将軍にかしずいてみせる、と言ったものだったが、あれはあながち冗談ではない。わしは将軍のことを本気で敬愛しているのだ。


 最後となるが、いずれ項王は敗れ、天下は漢のものとなろう。しかし将軍はたとえ一人になっても独立を保つべきだ。将軍の才能は項王亡き後、漢王にとってきっと有害なものとなるからだ。よって漢王は、将軍が重要な勢力を持ちながら存在している限り、自分に都合よく天下を切り盛りすることが出来ない。だから将軍の自立は、漢王のためでもあるのだ。将軍の存在によって、漢王は後世に残るべき良帝となるであろう。

 このこと、決して忘れたまうな』


 酈生の書簡を他人に見せることはできなかった。韓信は書簡を懐深くしまい込み、内容に関しては蘭にさえも語ることはなかった。ただ彼の記憶の中には、この内容が克明に刻まれているのである。

 当時の人々にとって韓信がそのときなにを思ったのかは定かではなかったが、彼が臨淄を平定してさらに東方を目指す姿に、常にない悲壮感が漂っていたのは誰の目にも明らかであった。


「……酈生……くそっ!」

 韓信はその途上でたびたびそう呟き、歯がみした。


 韓信は斉王田広を追撃し、ついに高密という海岸沿いの都市にまで至った。田広たちの前には海が立ちふさがり、逃げ場をなくした彼らは、使者を送って楚に救援を求めた。


 しかしそもそも斉という国は、項羽が諸国を分割した際にいち早く不満をあらわした国である。楚と斉はそのころから慢性的な敵対状態にあったわけだが、それゆえこの二国に協調関係が生まれたのはやや唐突的な感がする。楚、斉にとって漢が共通の敵となり得たからこそ生じた苦しまぎれの連合、といったところだろうか。

 実情は、国体を失った斉が藁をもつかむ気持ちで楚にすがり、楚は打算に基づいて手を差し伸べたに過ぎない。


 項羽により斉軍の救助を命じられた楚将の竜且(りゅうしょ)と、彼の部下との会話はそれを象徴しているかのようであった。

「漢軍は故国から遠く離れた地で戦うため、兵は逃げ場がなく、必死で戦わざるを得ません。斉、楚は己の地で戦うため、苦しくなると兵は散り散りになってしまいやすい、と言えましょう。ここはむやみに戦わず、斉の国内に使者を遣わして漢に叛かせるのが良いのでは、と考えますが」

 慎重論を唱えた部下に対して、竜且は激怒したという。

「馬鹿か、お前は!」

 部下はひれ伏して許しを請うたが、竜且は聞く耳を持たず、目の前の食器や調度品を投げつけながら、持論を展開した。

「貴様のその足りない頭で必死になって考えてみろ! 斉が救援を求めているのに戦わないとあっては、いったいわしにとってなんの得があるというのか? 斉を漢に叛かせるのでは、楚に利はない。ただ斉が勢いを盛り返すだけではないか! いま我々が斉の国難に乗じて戦って勝てば、斉の半分以上の領土を手にすることができるのだ。そんなこともわからんのか!」

 これは漢のみならず、斉の支配をも目論んだ発言である。

 また竜且は次のようにも言っているのが、当時の記録にも残っている。

「漢の将、韓信は昔楚に属していたことがあるので、わしはその為人(ひととなり)をよく知っている。かつて漂母(食を恵む老女)に寄食し、自分で自分の世話もできなかった男だ。無頼者の股の下をくぐる屈辱を受けながら、その恥をすすごうともせず、人を凌ごうとする勇気さえもない。敵としてはまったく恐れるに足りぬ」

 要するに韓信はあしらいやすい男だ、と評したのである。鋭気に富む楚軍の諸将からすると、韓信はこれまで幾多の戦いに勝利をあげてはいるが、小細工を弄してばかりいる印象が強かったのかもしれない。よって詭計に陥りさえしなければ負ける気がしない、と思っていたに違いなかった。

 外見や経歴から判断して気弱そうな男だから、正面きって力比べをすれば必ず自分が勝つ、と信じていたのである。

「そんな奴を相手に、なんで戦わずにすまそうというのか!」

 竜且は最後にそう言ったという。

 つまり、韓信はなめられていたのである。しかし、竜且はその点を逆手に取られることとなった。



 韓信率いる漢軍と竜且率いる楚軍は山東半島の付け根に位置する濰水(いすい)という川を挟んで対陣した。

 楚軍は二十万、その誰もが溢れ出ようとする戦意を隠そうともしない。対岸には自分に対する殺意が渦を巻いているかのように、韓信には見えた。

――竜且は、やる気だ……しかし、そうでないと困る。

 韓信は対岸の様子を眺めながら、策を巡らせた。

「準備をするとしようか」

 やがて韓信はそう言うと、部下に命じて一万個以上の土嚢を作らせ、それを濰水の上流に積み上げて、流れをせき止めさせた。

 夜のうちの作業であり、作業には慎重さを必要とする。

 濰水は水深こそ浅い川ではあったが、川幅は広く、流されてしまえば岸にたどり着くのは難しい。なおかつ敵に悟られないためには、事故が発生して兵たちがうろたえ騒ぐのを防がねばならなかった。


 地味な作業ではあったが、韓信は心ならずも気分の高揚を感じた。敵を狼狽させる罠をひそかに仕掛けるという行為は、誰しも胸がわくわくするもので、この時の韓信もその例外ではなかった。

 彼はそれを自覚し、

――幾多の兵を犠牲にしておきながら、いま私の胸にあるこのときめきの正体は何だ? カムジンや酈生を失っておきながら、まだ私は人を殺し足りないというのか……。

 と、自分の人格を疑った。


「竜且という人物と将軍はお知り合いなのですか」

 近ごろ蘭は、韓信にひとりで物思いにふける機会を与えないよう、努力している。韓信は思考が深く、そのおかげでこれまで戦勝を重ねてきたことは事実であったが、大事な人物をひとり、ふたりと失っていくにつれ、彼はその思考の深さにより、押しつぶされてしまうのではないかと気がかりなのであった。

 この時の質問もたいして内容的には重要なものではなかったが、それでも頭の中で悶々と考えてばかりいるよりは、くだらない話でもした方がましだと思った程度のものである。

「知り合い、というほどのものではない。私はかつて楚軍に属していたのでその名前ぐらいは知っているが、たいして気にかけたことはなかった。項王のもとで勇将として珍重されていたというが……まあ、つまるところ、よく知らない」

 韓信はそう答えた。蘭が驚いたのは、韓信のこの言葉に多少相手を軽蔑した響きがあったことである。知らない、とは言っているが、過去に侮辱を受けた経験でもあるのではないか、と蘭は疑い、それを質した。

「本当に知らないのですか」

「私の眼中にはなかった、ということだ。まったく知らないわけではない」

「どういうことですか?」

「見ての通り、彼は窮地に陥った田広を受け入れ、ともに戦おうとしている。彼は結局昔から戦うことしか頭にないのだ。私が彼なら田広に籠城を勧めるのだがな」

 確かに斉の土地を侵略する側の韓信にとって、欲するものは斉の民衆の支持であった。ゆえに田広に民衆を巻き添えにする形で籠城されれば、手を出しづらいのである。

「そのことに気が付かないことが、竜且の戦略眼の欠如を証明している。あるいはよほど私のことを軽んじているか……おそらく後者だろうな。私に勝つ自信があるのだろう」

「舐められたものですね」

 蘭は悪戯っぽい笑みを浮かべながら、そう言った。その笑みには、韓信が竜且に敗れるはずがないという確信が見え隠れする。

 韓信はその蘭の意図を正確に受け止め、それに応えた。

「まったくだ。この私があんな男に負けるはずがない」


 夜が開けて、朝靄が次第に薄れるにつれ、楚軍の兵士たちは目の前に広がる状況が昨日と違うことに一様に違和感を感じ始めた。

――川の水量が少なくなっている!

 もともと浅い川であったので、船ではなく徒歩や騎馬のまま、なんとか川を渡るつもりであった。しかし川に足を踏み入れると、どうしても行動が制約されるので、そこを遠弓で狙い撃ちされる危険がある。

 この問題を解消するには、相手に川を渡らせるに限る。竜且は当初そう考えていたのだが、川の水位が下がったことにより、その必要がなくなった。


 彼はその勇猛さをこの機会に最大限発揮し、先手を打って渡河を決行しようと考えた。

 しかし、兵たちは川の水位が突如として下がるという自然現象を怪しみ、かつ恐れ、なかなか思うように動こうとしない。

 気が付いたときには先に漢軍の渡河を許していた。

「ちっ……先を越された。馬鹿どもめ」

 配下の兵の不甲斐なさに歯がみした竜且であったが、よく目を凝らしてみると先頭に大将旗を掲げた一団が見える。

 その中ほどに紛れもない韓信の姿があった。

――自ら来たか。ほう、意外な……。

 竜且はそう思ったが、別に韓信のことを見直したわけではなく、単に自暴自棄になっているだけだと思った。

 二十万の楚軍に対して、いま川を渡りつつある漢軍の数は明らかに少ない。彼我の兵力の差も考えず、ただ突進して死ぬだけの兵法も知らない男の姿であるように思われた。

「奴の奇策もいよいよ尽きたように見える……来るぞ。迎え撃て」

 楚軍は竜且の命のもと、漢軍が川を渡りきる前にこれを迎撃せんと足を水に浸して次々と川の中に突入していった。


 いっぽう楚兵が討って出るのを確認した韓信は、進軍速度を緩めつつ、戦鼓を鳴らすよう命じた。この合図を境に、漢軍は陣形を乱し、統率がとれなくなったように見える。

 竜且はその一瞬の隙を逃さず、全軍に突入を指示した。

――虎が、罠にかかった。

 韓信は竜且の騎乗する馬が川に脚を踏み入れたことを確認すると、さらに合図を出し、全軍に渡河した道を逆戻りさせた。罠だと悟られないよう、兵たちに慌てた素振りをさせたのは、彼の芸の細かさである。


「取り乱せ。怯えた振りをして、竜且をおびき寄せるのだ」

 漢軍の兵がこれに応じて敗走するふりをした姿は、あたかも鮫に追われた小魚の群れの姿のようであった。井陘での戦いに続き、偽って敗走する機会が二度も続くと、芝居も真に迫るというものである。


 しかしはやる気持ちを抑えきれない竜且は、これが芝居だと見抜けなかった。

「見よ。漢軍の醜さを。わしは知っている! 韓信が昔から臆病者であったことを!」

 左右に向けてそう言い放った竜且は、一気に漢軍を追いつめ、雌雄を決しようと渡河の速度を速めた。漢軍はこれを逃れようとやはり後退の速度を速め、もとの出発した地点に再上陸を果たした。


 上陸した漢軍は押し寄せる楚軍をそれなりに迎え撃ちながら、「その時」を待った。しかし彼らは次第に押され、じりじりと川岸から後退を始める。やがて楚の先鋒部隊のすぐ後ろに位置していた竜且その人が上陸したとき、事態は楚軍の予想しない展開を見せた。


 川の水位が一気に上昇し、渡河中の楚兵たちが残さず流されたのである。


「何ごとだ!」

 振り返った竜且の目に見えるものは、流されていく人馬、槍・戟などのもはや役に立たなくなった武装品、そして無様に折れた自軍の旗竿であった。

 そして対岸には、もはや渡河が不可能となり、取り残された楚の残兵たちの姿が見えた。

 竜且は楚の先鋒部隊もろとも漢軍の中に孤立したのである。


 流れをせき止めていた土嚢の山が、決壊したのだった。上流に残っていた兵が韓信の合図によりそうさせたものである。


 激流による轟音が響く中、韓信は岸に残された竜且を始めとする楚兵たちを完全に包囲し、じりじりとその包囲網を狭めていった。一人、また一人と楚兵の姿が視界から消えていく。対岸の楚兵たちはそれをただ眺めることしかできなかった。


 竜且はついに進退極まり、喚くように叫び立てた。

「韓信! 川を氾濫させるなど……このえせ呪術師め! 貴様が小細工を弄したことは知れているのだ。俺と正面から勝負するのがそんなに怖いのか。こそこそと逃げる真似などして、情けないと思わないのか。自尊心のかけらもない奴め! 勝負しろ、韓信!」


 しかし韓信は応じなかった。応じる必要もない。

 戦の勝敗はすでに決し、指揮官たる重要な地位にある韓信が無意味な一騎打ちを演ずる必要性は、全くといってないのである。


 結局、竜且は漢の雑兵に過ぎない男の手にかかって刺殺された。


 韓信は無惨に横たわる竜且の遺骸を指差し、将兵に向かってつぶやくように言った。

「見よ……。あふれる自尊心のあまり冷静に状況を判断できなかった者の、成れの果てだ!」


 対岸に取り残された楚の残兵は、それぞれ逃亡し、斉王田広も捕らえられ、のちに処刑された。

 そして曹参、灌嬰の二人に斉の残党狩りを命じ、諸地方に分散して逃げ回る田姓の者たちを捕らえたり、抵抗する者を殺したりさせた。


 しかしそれでも逃げ延びた者は存在する。宰相田横は田広の死を伝え聞くと、にわかに斉王を称して、灌嬰の軍を襲った。

 しかし田横は逆にこれに敗れ、逃れて梁の彭越のもとに走り、保護されるに至る。彭越は友軍なので韓信としては釈然としない気持ちが残ったが、よく考えてみれば、楚に奔られるよりははるかにましであった。韓信にとって彭越はあまり馴染みのある人物ではないが、友軍である以上、田横の復権を手助けしてこちらを攻めてくる可能性はほとんどない。田横自身がおとなしくしていてくれれば満足すべきだった。


 このように田横を取り逃がしはしたものの、韓信が斉を攻略した際の態度は、これまでになく断固とした印象を受ける。

 かつて韓信は魏豹を討伐した際にもこれを殺さず、劉邦にその処分を委ねた。

 また、趙を征伐した際にも幹部の李左車を赦し、助言を請う姿勢さえも見せている。

 しかし斉を攻略した際にはそのようなことはなく、徹底した意志のもと、積極的に滅亡を狙ったかに見えるのである。


 あるいは酈食其の死による心境の変化があったのかもしれない。

 また、かねてより田氏の動きに好意を抱いていなかったことも、根底にあったのかもしれない。

 いずれにしても斉は趙のように傀儡の王をたてた国家ではなく、田姓一族が堅固に支配体制を固めていた国だったので、残酷なようだが旧来の体制を解体するには徹底した殺戮が必要であったのだろう。


 そもそも、韓信は武力で斉を討つつもりでいた。

 大国の斉を滅ぼすためには、中途半端な気持ちで臨むと失敗する。

 しかし田氏の連中は気に入らないとはいえ、個人的な怨恨があるわけではない。決して憎んでいたわけではないのだ。


 酈食其の死は、韓信に田氏を憎ませるに役立った。


 だがこれも都合のいい解釈である。韓信は酈食其の死が自分の行動に原因することを自覚しながら、それをどう消化すべきか悩んだ。

 責任を感じ、自害すればすむ話ではない。

 自らの行動を恥じ、撤兵すればすむ話でもなかった。

 それでは酈食其の命をかけた行為が無駄になってしまう。

 韓信は自己嫌悪を覚えつつ、責任を田氏に転嫁しようと決めた。そうするしかなかったのである。


 やり場のない思いを敵にぶつけ続けると決めた韓信は、竜且を破った後も逃亡した楚兵をしつこく追い、ついに残さずすべて捕虜とした。


 なおも国内には各地に少数の反乱勢力が残されてはいるが、事実上、大国の斉はついに平定されたのである。


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