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【連載小説】韓信 第17話:邯鄲に舞う雪

第2部

#創作大賞2023 #オールカテゴリ部門

邯鄲に舞う雪

 人の世は、清濁入り交じって流れる川のようであり、混沌としている。清流が清流のままでいることは難しく、その多くは周囲の濁流の影響を受け、自らも濁流と化すものだ。

 また、汚らしい泥のなかに埋もれる宝石が、その輝きを主張することは難しい。泥の中ではせっかくの宝石もただの石ころと見分けがつかないものである。

 鬱蒼とした林の中で、わずかな日光を得て可憐に咲く花を見つけることは困難である。林の中は雑草ばかりで、深く分け入らないとそれを見つけることはできず、せっかく見つけても価値がわからないものにとっては、花も雑草であると思われるものだ。


 韓信は、自分が濁流の中の清流であり、泥の中の宝石であり、雑草の中の花だと考えていた。また彼は、自分以外に清流たる者など存在せず、周囲の者はみな泥、あるいは雑草だと信じていた。つまり、自分以外の者を認めようとしなかったのである。


 濁流や、泥、雑草の類が人の世に多いことは間違いない。

 しかしその中で確固として輝きを放とうとする者が自分だけではないことを、韓信はようやくわかりかけてきている。内省的ではあったが、孤高を保ちすぎる傾向にあった自分の生涯を少しずつ修正しようと努力し、機会があれば他者を理解しようと心がけるようになった。

 そのきっかけは彼自身にもよくわからなかった。意識もしたことがなかったが、もしかしたら蘭との出会いが大きいのかもしれなかった。


 韓信は敗軍の趙将、広武君李左車を前にして教えを請う態度をとった。他人に教えを請う行為自体は、人としてさして珍しいことではないが、以前の韓信を知る者にとっては容易に信じられないことであった。

「私ごときがどうして将軍のお力になれましょう。亡国の大夫は国を語らず、敗軍の将は兵を語るべきではありません。たとえ私がなにを言おうと、将軍にとってためになる話はありますまい」

 助言を請われた広武君はこう言って協力を固辞したが、韓信は常にない執拗さを示し、食い下がったのである。

 敗軍の将は兵を語らず……李左車は謹み深く、謙虚な男であった。あるいはこういう人物を韓信は好んだのかもしれない。


「……私は、北に燕を攻め、東に斉を攻め、これを降そうと考えています。これは、実に大それたことで、責任も重大なのです。もちろん私自身にもどうやって燕や斉を攻め降すか、おぼろげながら考えはありますが、しかし確信を得るには至っていません。私は部下を死地に向かわせ、燕や斉の住民を戦乱に巻き込まねばならない。そうである以上、部下や住民に犬死にはさせたくないのです。やるからには、成功させねばならない」

「将軍のもとにもよき相談相手はおりますでしょうに。なぜ私のような者の意見など聞きたがるのか」

「傲岸なように聞こえるかもしれませんが……私は、負けたことがありません。連戦連勝が続けば、次も勝つと信じて疑わなくなるのは自然なことです。我ながら、その気持ちを抑えることができなくなりつつある……。私につき従う兵にしても、同じでしょう。どうか、第三者の目から見て、私が次にどうするべきかご教示いただきたいのです」

「そういわれても、私は趙国内においても、それほど重き立場の身分だったわけではない。それに対して将軍は若いといっても、漢の重鎮中の重鎮……。将軍の求めるような国家的な戦略など、私が助言できるはずもありません」

 韓信はふう、とため息をつき、その言葉を受けた。しかし、彼は諦めたわけではない。話題の鉾先を変え、しつこく説得を試みるのであった。

「……広武君どのは、百里奚(はくりけい)という人物をご存知か」

「は? 楚出身のかつての秦の宰相ですな」

「そう。百里奚は当初虞(ぐ・春秋時代に存在した国)国にいたが虞は滅び、その後秦国に赴いたところ、秦が覇者となった。これは百里奚が虞にいたころは愚者で、秦に行ってから急に知恵者になった、ということではないでしょう。虞にいようが秦にいようが百里奚その人の本質は変わらない。要は彼を用いたか用いなかったか、当時の君主が彼の意見を聴いたか、聴かなかったか、ということです。もし陳余があなたの計画を採用していれば、私などは今ごろ虜囚の身であったことでしょう。どうか辞退せずに……私はあなたの意見のままに行動するつもりです」

 李左車はこれを聞き、ついに折れた。

 この大陸における通例の儀礼では三度目の懇願に対して了承するものであるが、彼は四度目でようやく了承した。のちに売国奴として批判されるのを恐れたのであろうか。


「私が見る限り、士卒はみな疲れているようです。勝ち続けているので士気は高いですが、気持ちだけでは戦には勝てません……。実際には使い物にならないでしょう。したがってこのまま将軍が燕に侵攻したとしても弱い燕に勝てず、ましてや強国の斉に勝てるはずがありません。まずは士卒を休ませ、そのうえで燕に対して遣いを出すのがよろしいでしょう。そうすれば趙を降した将軍の武威が生きてきます。燕は靡くように降伏しましょう。実情を隠して示威するわけですな。……兵法に『虚声を先にして実力を後にす』とありますが、いま将軍がとるべき作戦がそれなのです」

「なるほど。確かにそうかもしれません。私も、わざわざ武力を用いて燕を屈服させる必要性があるのかどうか確信が持てなかったところなのです。いや、実に参考になりました」

 韓信は微笑とともに李左車にそう言ったという。つまり彼は李左車に奇抜な発想を期待していたわけではなく、自分の考えを後押ししてくれさえしてもらえば、それで満足であったのである。

 決して結論のない戦略という主題を突き詰めていく中で、自分と同じ考えに至る者が存在したことに安心した彼は、会心の笑みを漏らした。韓信には井陘での戦いにおける前後の経緯から、李左車であればこう考えるだろう、ということがあらかじめわかっていたのだった。

 よって韓信が李左車を自身の幕僚に加えようとしたのは、自然な流れであった。しかし李左車はその要請を断ったのである。

「なにか、ご不満でも……?」

 傷つけられた少年のように落胆の色をあらわにした韓信を前に、李左車は淡々と語るのであった。

「私が思いまするに、将軍と私の軍事に関する考え方は似ています。志を同じくする者同士が力を合わせれば、物事を強力に押し進めることが可能でしょう。しかし、それでは……将軍、いざという時にあなたを掣肘する者がいなくなってしまう」

「……どういうことでしょう」

「どうか、ご自分の考え方を疑ってみることを常となさいますように。それを忘れると、あなた様は秦の始皇帝のような存在となってしまいます」

「…………」

 韓信は絶句した。李左車が言っていることは、彼の中に独裁者と化す危険が潜んでいるということであったのだ。

「同調ばかりする者を周囲に置いていては、将軍が道をお誤りになったときに苦労します。聞く耳を持つことと、決して独善的にならないことを旨としてお過ごしください。私のような身は、将軍には必要ありますまい。むしろ、害悪となりましょう」

 韓信としては、こう言われては無理に李左車を引き留めることはできない。我を通して彼の意思を無視すれば、それこそ聞く耳を持たないことになるからだ。

「広武君には、趙の地に留まっていただきましょう。我々に協力していただければ、身分は保証します。しかし、それをあえて拒否する権利も保証しましょう」

 韓信はそう言い、判断を李左車に委ねたが、結果的に二人の交流はこれが最後となった。李左車は敵対行為は働かないことを約束したが、そのかわりに平民となることを希望し、その後一切政治の表舞台に登場することを拒否したのである。亡国の大夫は国を語らず……彼はその自分の言葉を実際の行動で示したのであった。


 韓信は意気消沈したが、一方で李左車の生き様に潔さを感じ、その後の行動については彼の意見を尊重する形をとった。

 はたして燕は李左車の言う通り降伏し、韓信は戦うことなく燕を勢力圏の下においたのである。


 酈食其という儒者は、老人でありながら挙動が軽く、いつも軽快な足取りで韓信の前にひょっこり顔を出す。

 その彼は屈託のない調子で韓信に対して言った。

「将軍、たびたびのことで申し訳ないが、漢王が兵をよこせと仰せだ。出せるか?」

 韓信としては「簡単に言うものだ」と半ばあきれる気持ちもあるのだが、それを口に出して言う気にはなれない。酈食其は、彼にとってどうにも憎めない人物なのである。

「出しますよ。というより、出すしかないのでしょう?」

「うむ。まさか出せません、とは言えまいな。いや、言わないでくれ。それを伝えるのはわしなのだから……。そんなことを伝えれば漢王はまた癇癪を起こし、わしのことをきっと口汚く罵るに違いないのだ。実は、この間もさんざん叱られたばかりでな」

「言いませんよ。……それよりなぜ叱られたのですか?」

「我ながら妙案だと思ったのだが……秦の滅ぼした六国の子孫をたてて、それぞれを王とするよう漢王に献言したのだ。漢王が覇王として君臨することになれば、項王も襟を正して心服する以外にないと思ったのでな」

「…………」

「やはり駄目か、そうであろうな。漢王は一度はわしの策を採用し、大急ぎで印綬を作らせたが、張良があわてて引き止めたそうだ。時代に合わん、といってな。おかげでわしは大目玉だ」

 酈食其は悪びれた様子もなく、淡々と話す。韓信にはそれがおかしくてたまらなかった。

「今さら項王が襟を正してなどと……。私が張子房どのでもやはり止めたでしょう。六国をたててその六国が揃って楚に靡いてしまっては、元も子もない。酈生ともあろうお方が、どうしてそのような早まった献言を?」

「それは……早いところ現状を打開しなければどうにもならぬとわしなりに思ったからだ。はっきり言うが、滎陽は落城寸前だ。早めに手を打たなければ、あとひと月も持つまい」


 酈生はこのとき苦渋に満ちた表情をした。日ごろ温和な態度を保ち続けている儒者の彼としては、珍しいことである。

「漢も詭計を用いて、楚軍の内部を切り崩したりはしているのだ。しかし、決定的な打撃を与えることができないでいる」


 このとき韓信は酈生から伝え聞き、甬道が遮断されて滎陽が飢餓状態に陥っていること、また陳平の策によって亜父范増が死んだことなどを初めて知った。

「深刻な状況ですね……。しかし、現状では私にできることは少ない。せいぜい兵を補充して差し上げることぐらいしか……。漢王はさぞや憔悴していることでしょう」

「軍事面ではな。私生活の面では、心配ない。漢王は囚われの身の呂氏のかわりに若い戚夫人を得るに至った。元来が女好きのお方だ。若い婦人を相手にしていた方が精神的にも安定するに違いない。判断力はしっかりしておられる」

「に、しても急がねばならぬ。斉を討伐し楚を逆に包囲すれば……」


 韓信はしばらくの間、士卒を休ませることに決めていたが、もしかしたらそれも撤回しなければならないと考えた。

「いや、心配するな。事を急いで将軍に失敗されてはすべてが無に帰す。成功したとしても……」

「成功したとしても?」

「……将軍の立場を悪くするだけだ。わしにはそう思える」

「…………」

「将軍の功績はいまでも大きすぎる。このうえ斉を平定などしたら漢はおろか、楚さえも上回る勢力になりかねん。将軍が戦いに勝つたびに漢王が兵を送れといちいちいうのは、それを抑えるためだ。いや、たしかに滎陽が苦しいという事情はあるが、基本的には将軍の力を削ぐためだと思えてならない」

「……私が自立勢力を持つというのですか。私の幕僚にも似たようなことを言う者がいる。しかし、その度に私は言うのですが……私にはそんな気はない」

「うむ。しかし、将軍自身がどういうつもりなのかは、たいして問題ではないのだ。重要なのは事実であって、実際に将軍の勢力が自立するに足るものであれば、漢王としては警戒しなければならない。今のところ将軍にはその気はないようだが、人の心というものは、ちょっとしたきっかけでうつろいやすいものだからな」

「私は……違う。私はもし自由を与えられたならば、誰とも関わらずにひとり気ままに暮らしたい、というのが本心なのです。誰が自立などするものですか。王など称して不特定多数の人々を相手にするなど……面倒です」

「だから将軍がどう思っているかは問題ではない、と言っているだろう。将軍、こういう故事をご存知か?……かつて秦の将軍王翦は楚を滅亡させるにあたって六十万の兵を用意した。これは楚を撃ち破るに充分な数であったが、王翦の心次第では秦を撃ち破ることも可能な数だ」

 韓信は口を挟んだ。

「その話なら知っています。王翦は始皇帝にいらぬ疑いを持たれぬよう、再三にわたって使者を送り、戦勝後の褒美をことさらねだった……戦後の恩賞で頭が一杯で、反乱など考えてもいないことを印象づけるためです」

「その通り……。考えてみるがいい。将軍の立場は王翦と同じだ。だが、将軍は漢王に対して何も要求していない」

「要求など……臣下が主君に要求をするなんて、不躾(ぶしつけ)ではないですか」

「確かにそうかもしれんが、留意すべき故事だ」


 韓信は息をのんだ。自分の立場はそれほど微妙なものなのだろうか。かつて李左車が自分に向けて言ったように、自分には独裁者となる危険性があるのだろうか、と。


 いつにもなく深刻な表情で、酈食其は続ける。

「将軍が考えるべき事項はまだある……。漢王は函谷関を出て中原に進出してからも、折りをみて何度か関中に戻っている。そのわけが分かるか?」

「関中は漢にとって重要な拠点だからでしょう。それは他ならぬ私が漢王に主張したことです」

「……それだけではない。漢王は丞相蕭何が謀反するのではないかと疑っておられたのだ」

「……蕭丞相が? まさか。彼はそんなお人ではない」

「蕭何は漢王とはまるで違い、真面目で人格者でもあるし、それゆえ人望もある。関中の父老の支持を得て、若者を駆り集めれば、文官とはいえ謀反は可能だ」

「…………」

「しかし蕭何が優れているところは、それに自分自身で気付いたところだ。彼は漢王の信用を得ようと一族郎党から男子をすべて集め、残すことなく滎陽の前線に送り込んだのだ。体のいい人質というものだろう。将軍はそのようなことをなさっておいでか」

「……いえ、まったく。第一私には親類縁者が少ないので……」

「考えるべきだ。旗揚げ以来の重鎮の蕭何でさえ疑われるのだ。言いたくはないが、漢王と将軍の信頼関係は、漢王と蕭何のそれよりは薄い。……親類に心当たりがいないのであれば、他の者を探すべきだ。要は漢王の気に入る者を差し出せばよいのだからな。さしあたり……例の魏豹の娘などはどうであろう」

「…………!」


「お顔の色がすぐれませんね。どうかなさったのですか?」

 蘭の問いかけに、韓信は応じる言葉を見つけることができなかった。

「悩み事でも?」

「……ある人が、君のことを……人質に出せと……漢王のもとに……」

「いつになく歯切れの悪い物言いですこと。それを言ったのは酈食其さまでしょう。先ほど私に直接話してくださいました。私にはそんなに悩む必要があるとは思えませんが」

「まったく、あの爺さんときたら! あの人は思いつくとすぐ行動に飛び移るのが悪い癖だ。この間も漢王に叱られたばかりだというのに」


 蘭はくすっと笑い、韓信をなだめるように穏やかな口調で話し始めた。

「悪い人ではありません。あの方は将軍のことを、ずいぶんと気にかけております。将軍は智勇兼ね備えた名将にして、漢の至宝たる存在だ、とまで申しておりました。それゆえ漢王との微妙な関係が気になると……」

「酈生のことはいい。肝心の君の気持ちはどうなんだ? 私は君を行かせたいとは思っていないが、心を鬼にして行けと命令すれば、君は断る立場にはない。非情なようだが、公私の区別はつけなければならぬ」

「おそれながら、将軍のいまの言いようは間違いでございます。いったい公とはなんでございましょう。将軍が漢王ににらまれたくないから私を人質に出す、ということを示しているのでございましょうか? にらまれたくない、というのは私的感情でございます。公ではなくて私の領域です」

「では君の考える公とは、なんだ」

「将軍にとっての公とは、将軍自身が理性を保ち、精神と感情の平衡を保ち、それによって軍の士気を維持することにある、と私は考えます。漢王は確かに自立できるほどの勢力を将軍に持たせることを危惧しておられるようですが、それによって将軍が戦いに敗れることを望んでおられるわけではありません。つまり、将軍は軍を常に勝てる状態に保つことが公であり、何よりも優先して務めねばならない責務なのです」

「つまりは、私が君を手放すと、私が気落ちして理性を失い、その結果、私の軍は弱くなると……そう言いたいのか?」

「いやな女だと思われたくはないのですが……その通りでございます」

「そんな風に君のことを見たりはしない。たぶん君の言う通りだろう。しかし……ということは君は行く気がないのだな?」

「私が行けば、それなりに効果はあるのでしょうが……行きたくありません。つきましては私に考えがございます。聞いていただけますか?」

「聞こう。聞かせてくれ」

「では……先日将軍は井陘で趙を激戦のうちに破り、趙王を虜になさいました。これにより趙は王座が空位となったわけですが、将軍はそれをそのままにしておいでです。これをどうお考えになられますか」

「私も好きでそうしているわけではない。趙の国内は現在無政府状態であり、早く手を打たないと諸地方に反乱が起きるだろう。しかも、それを機に楚から武力で干渉される恐れがある。だが燕との交渉を先にしてしまったので、後手に回ってしまったというのが正直なところだ……しかし、趙を王国のまま保つか、漢の直轄郡の一部にするかは私の決めることではない。漢王の沙汰を待っているのだ」

「滎陽は窮地に陥っている、と聞いております。漢王は実際それどころではないのかもしれません。時間が経てば経つほど状況は悪化しかねません。沙汰を待つのではなく、将軍から行動を起こすのがよろしいでしょう」

「……まさか、君まで私に王を称せ、というのではないだろうな」

「違います。張耳さまを趙王に推挙するのです。そうすれば将軍が自らの王位襲名を考えていないことを漢王に印象づけることができましょう。趙国内の早期安定にもつながります」

「なるほど……そうだな。酈生が兵を連れて帰るときに伝えてもらうことにする。しかし、漢王はそれを了承するだろうか?」

「極端な話をすれば、了承するかしないかは問題ではありません。要は将軍に王を称す意志がないことを伝えることができればそれでいいのですから。でも……了承するでしょう。張耳さまは趙にゆかりの深い方ですし、漢王ともご関係の深い方ですから」

「君も幕僚らしい口の聞き方をする……どうも私はそう言うことを考えることが苦手で……君の言う通りにしよう。今後もよろしく頼む。軍事にしか頭の回らない私を、どうか守ってくれ」


 蘭は、韓信のこの言葉を聞き、嬉しそうに微笑んだ。

 軍服を着て戦場に臨んだ蘭であったが、井陘の戦いにおいて、韓信は蘭に戦地に立つことを禁じ、後方の非戦闘員の護衛を命じた。

 女である自分に人を殺させないという韓信の心遣いであることはわかるが、やはり重要な局面で力になれないことを蘭は残念に思うのである。なんとか韓信にとって必要な人間でありたい、と思い続けた彼女の願いが叶った瞬間であった。


 かくして韓信は張耳を趙王に立てることを酈食其を通じて上奏し、漢王はこれを認めた。蘭は政略的な眼力を証明することとなったのである。


 新たに趙王となった張耳と韓信は、趙の地方平定を目的に各地を巡り歩き、旧趙軍の兵士を駆り集めては、漢王のもとに送り届けた。

 時にはその途中で介入してきた楚軍とも遭遇する。そこで小規模な戦闘を繰り返しながら、国内の安定に務めるのである。

 李左車の策に従い、しばらくは大規模な戦略行動を避けて兵を休息させようとしていた韓信であったが、実際には本格的な休養などはとらせようもなかった。


 韓信は、疲労した兵を率いて趙の政治的混乱を収拾しようと画策してはいるものの、そもそも混乱を生じさせた原因が自分にあるような気がして、心やすらかではいられない。とりわけ民衆に思いを馳せれば、なぜ自分がわざわざこの国を攻略しなければならなかったのか疑問に感じる。

 それは軍人としての自分自身の存在意義を疑うことであった。

 そして、彼にできることは非常に少ない。韓信は軍卒たちに、決して民衆との間にもめ事を起こさないよう指示を与えることしかできなかった。

「城邑で民衆と悶着を起こした者には厳罰を持って対処する。……仮に問題が生じた場合は、諸君の内なる良心の声に耳を傾けろ。征服者である我々に対する民衆の風当たりは強いかもしれないが、諸君が自制し、度量を示すことによってそれは解決されていくに違いない。決して武器を持たぬ相手にそれを向けてはならぬ。……このことを忘れるな」

 しかし韓信はこの指示を道徳的な正しさを意識して出したわけではなかった。

 彼は、基本的に他人の運命などを顧みることがなかった。自分さえしっかりしていれば逆境は乗り越えられ、乗り越えられない者には、それ相応の原因があるものだ、と考えていたのである。滅びるべき者は、滅びるのだという冷めた態度で人に接するのが常であった。

――天下を救うためではない。自分が生き延びるためだ。

 征服地の民衆の支持を得ることができなければ、自分を待っているのは破滅である。それに気付いた韓信が出したこの指示は、民衆のためを思ってのものではなく、人気取りをして自分が生き延びるためのものであった。

 そのためか、この訓令は肝心なところで徹底さを欠いた。


 人の良心というものは、個人によって尺度が違うものである。韓信はそのことに気付かず、それによって大きな計算違いを犯した。


 首都の邯鄲の城内は度重なる戦闘により荒廃してはいたが、それでも豪邸に住み、多数の使用人を使い、権勢を振るった生活を送っている者が市井の中にもある程度存在する。

 その大半は秦の統治下における軍功地主の子孫で、分家を繰り返しながらも財力を損なわず、いまに至っても没落せずにいるのであった。

 その中で董(とう)氏という名家の一族が、ある夜ひとり残らず惨殺された。使用人も含めて二十三名という人数が、誰にも気付かれず、一夜のうちに死に尽くしたのである。明らかに殺人行為に習熟した者の仕業であった。

 韓信のもとにその知らせが届けられたその日の夜には、同じように姜(きょう)氏の一族が皆殺しにあった。総勢三十一名、逃げ延びた者はまったくいない。


 遺体には、大きな損傷がなかった。あるのは頭部または胸部に貫通した小さな穴だけで、調査の結果、至近距離から鏃のない弓矢で射抜かれた傷だと推測された。

――狙いが正確だ。隣家の者に気付かれもせず、何人も一夜のうちに殺すとは、相当な腕だ……。軍の者の仕業に違いない。いや、軍の中にもこれほど正確な射撃の技術を持っている者は少ない。ということは……。

 韓信は不審の念を抱きつつも、ひそかに城内の名家に兵を回し、三日三晩、ほぼ交替もさせずに護衛させた。

「邯鄲の富豪に個人的な怨恨を持つ者の犯行だろうか。それにしてもわからないことが多い……襲われた董・姜両家は混乱があって多少荒れてはいたが、失われた財物はないそうだ……」

 韓信は蒯通を相手に話しながら、不覚にも居眠りをしてしまった。

「将軍、横になってお休みになられた方が……。将軍に体調を崩されては元も子もありません」

「いや……すまぬ。しかし眠くて横になるのも体調を崩して横になるのも、与える影響は同じだ。どちらにしても私が不在となることに変わりがない。やはり、起きていることにしよう」

 韓信は眠い目をこすりながら、そう言って姿勢を正した。

「今日あたり、犯人の手がかりがつかめそうな気がするのだ。これは単なる勘なのだが……犯人がただの物盗りではなく、邯鄲の富豪に恨みを持つ者であれば、たとえ我々が護衛していても目的を達しようとするだろう。犯人が我が軍内にいるとすれば、我々が趙国内に駐屯している間だけがその機会だからな」

 蘭が話の輪に加わった。

「やはり将軍は……犯人は我が軍の中にいると、お思いですか?」

 韓信がそれに答える前に、蒯通が答えた。

「魏蘭どの、当然ではないか。一度に二十人も三十人も殺せる者が市民の中にいるものか。しかも犯人は証拠隠滅のために矢を回収しているが、そのために貫通した矢が抜きやすいよう、わざわざ鏃のない矢を使用しているのだ。弓矢に精通している者にしかわからない知恵だと言えよう」

 蘭は悲しげな顔をして、それに答えた。

「では……犯人が軍の者である以上、断罪するのは将軍のお役目、ということになりますね。なんだかとても……いやな予感がします」

 韓信も同調した。

「気は進まないが、事情がどうあろうと死罪を言い渡すしかあるまい。もちろん、見つかればの話だが」


 蒯通は韓信が戦場以外で人を殺すことにためらっていることに気付き、故事を引き合いに出して話を進めた。

「小耳にはさんだのですが、いま大梁周辺で楚軍の後背を襲いつづけている彭越という将軍がおります。彼は挙兵するにあたって、地元の青年たちから首領となるよう要請されましたが、一度はそれを断ったのだそうです」

 韓信も蘭もなんの話かよくわからなかった。蒯通の話はいつも回りくどく、理解しにくい。

「で?」

「彭越は再三青年たちから要請されたので、渋々挙兵を決めたのですが、その割には青年たちに緊張感が足りず、自分に対する服従心も足りないと感じた。そこで彭越は決起の集合時刻に遅れた者をその場で即刻斬り殺し、軍神への生け贄としたのだそうです。それ以降若者たちは彭越を恐れ、軍律が定まった、と聞いております」

「ふむ……」

「また孫武(そんぶ・春秋時代に呉国で活躍した兵家の権威。「孫子」の著者)は主君の呉王に兵法を説く際、宮中の婦人一八〇名を仮想の兵士に見立て、ふたつの隊にわけて説明したといいます。そのとき孫武は呉王の側室である寵姫二人をそれぞれの隊長に任じましたが、孫武が号令をしても女どもは笑うばかりでいうことをよく聞きませんでした。そこで彼は呉王が制止するのも無視し、隊長である寵姫二人を斬り捨てたのです。以降、婦人たちは号令に粛然として従った、といいます」

「その話なら、知っている。蒯先生は私になにを言いたいのか」

「お分かりでしょう。兵や民衆を従えるには、口で命令しても徹底するものではありません。恐怖心を植え付けることが必要なのです。おそれながら将軍にはそれが足りないように私には思えます。断固とした決断が必要ですぞ」

「……わかっている」


 そしてその日の午後には、犯人が捕らえられたという知らせが韓信の元に届いた。顔をふせ、両脇を軍吏に抱えられて引きずられながら、一人の男が韓信の前に姿を現した。


 韓信は半ば想像していたことではあったが、それが間違いであることを祈り続けていた。

 しかし、軍吏が髪の毛を引っ張って犯人の顔を上げさせたとき、自分の祈りが通じなかったことを、自覚せざるを得なかった。

 それは韓信が最も信頼していた男の中のひとりだったのである。


「……カムジン……!」


 物心がついた年ごろには、彼は馬の背に跨がっていた。

 当時の馬には鞍(くら)はあるが鐙(あぶみ)はなく、幼い彼はよく落馬したものである。

 それでも彼は言葉を覚えるより先に馬の扱いを完全に習得し、まともに手綱を握らなくても自在に扱えるまでに至った。

 さほど血のにじむような努力をした、という意識はない。ただ、楼煩人としての血がそれを可能にさせるのである。


 楼煩なら楼煩らしく、北の地で狩猟や牧畜をして暮らしていれば幸せだったことだろう。しかし中原のみならず、長城より北の地にも野心は存在する。匈奴と月氏の争いに端を発した争乱で、楼煩は匈奴に併合され、その多くの者は中原に逃れた。

 楼煩人は趙の北のはずれに居住地を与えられ、そこで静かに昔ながらの狩猟生活を送ろうとしたが、そこには獲物となる獣の数が少なかった。よって彼らは遊牧民族ならではの騎射の技術を生かし、それを軍事に転用して生計を立てようとした。

 かくして諸国間に散らばった楼煩の成人男子たちは、確たる民族的目的も持たず、楼煩人同士相撃つこととなったのである。

 多くの者が戦死し、彼の父親もどうやら戦死したようだった。彼の母親は生活のための収入を得ようと、彼を邯鄲の富豪に売った。


 少年期に親元を離れた彼にとって、母国という概念は存在しなかった。というのは、彼は習得不充分のうちに楼煩の居住地を離れたために、母国語もろくに喋れなかったからである。

 そして邯鄲にきてからも、周囲の人間がなにを言っているのか、ほとんど理解できなかった。


 自分はいったいどこの何者だという思念は常に彼に付いて回る。しかしそれさえも頭の中ではっきり考えることは不可能で、あるのは漠然とした言葉にできない不満だけであった。

 思いや感情を言葉で表せない彼にとって、話が通じる相手は馬しかいない。彼は、自分が馬の生まれ損ないではないかと考えるようになった。


 奴隷の売買は春秋時代の末には禁止され、以後後漢の代になるまで復活しない。しかしこれは社会制度として奴隷制をとらなくなった、というだけであり、個人で奴隷を所有する風習はこの時代にも依然として残っていた。

 カムジンは明らかにその中の一人で、もっぱら馬の世話をして少年時代を過ごした。


 彼が調教すれば、どんな駄馬でも駿馬と育った。

 奴隷主はそれを喜び、馬を買い集めては彼に調教させ、商品として市場に出し、多額の利益を得た。

 奴隷主はそれに満足すると、今度は彼自身を商品として他の富豪に売り渡した。馬を見事に育て上げる能力のあった彼は、商品として高く売れたのである。

 そういったことが二度、三度と繰り返された。


 しかし、どこに行ってもまともに人語を操れない彼は、人と馴染めなかった。そのため彼を買った富豪たちは彼を蔑み、同じ奴隷仲間でさえも彼を自分たち以下とみなしたのである。


「私……馬と話せば……心が和みます……けど、それを求めているわけでは……ありません。馬などよりも……人と話がしたい……でも、人は誰も……私を人として……見てくれませんでした」

 カムジンは観念しているのか、たどたどしい言葉遣いながら、淡々とした態度で話した。


「馬語しか話せない男か。しかし現在の君はそうではない。少なくとも私は君を人として信用していた」

 韓信は自分で意識したのであろうか、過去形でカムジンに対して話した。


 しかしそのような言葉の機微はカムジンにとって理解できないことであった。

「その通りです……将軍は、私を……人にしてくださいました。……でもそれが間違いだったのかもしれません……人としての意識が……自分の中で……明確になっていくにつれて……私は……過去の屈辱を……晴らしたいと……思うようになったのです」


 そういうこともあるものか、と韓信は思う。

 しかし韓信は卑賤の身であったことはあるが、奴隷として扱われた経験はない。本当の意味でカムジンの立場が理解できたかどうかは自分でも怪しい。

「カムジン、覚えているか……。私は良心に従え、と言った。そこで聞く。君が復讐しようとする時、君の良心は何を告げたのか?」


 カムジンは答えを迷わなかった。

「私は……紛れもない人であります……それを理解できない者は……人ではない……馬鹿です。馬鹿は死なねば治らない……殺さなければまた馬鹿なことを……しでかします。私の良心は……彼ら馬鹿者どもを……殺すことを是と告げました」

「後悔はないか」

「……ございません……」


 韓信はため息をつきながら、それでも意を決して言った。

「カムジン、君に死罪を命じ渡す……。君が人でなく、馬や牛であったなら、私は今回のことを単なる事故として処理し、君を助命するだろう。しかし、君の言う通り、君は紛れもなく人だ。人である以上、罪は免れない」


 背後にいた蘭は、我慢できずに叫んだ。

「将軍! ご慈悲を……お願いです」


 しかし当のカムジンはそれを受け入れ、深く頭を垂れた。覚悟のうえでの行為だった、ということなのだろう。


「いや、蘭よ……罪人とはいえ、罪を罰せられることは人としての証である。私は彼を最後まで人として扱いたい……カムジン、人として死ね……。君と私の仲だ。私が自ら君の首を刎ねよう」

 韓信は剣を抜き、カムジンに歩み寄った。だが、その手が震えるのを抑えようがなく、歩を進めるごとに決心が鈍る。


「……言い残すことはないか」

 本当は自分の方が言いたいことは多い。

 しかし、言い出せばきりがなかった。


「将軍、いままでありがとうございました。将軍は私を人にしてくださったばかりか、一人前の男にしてもくださいました。そして一人前の男のまま、死ぬ機会を与えてくださったのです」

 それはカムジンが初めてつかえることなく明確に放った言葉であった。きっと最後の言葉としてあらかじめ準備しておいたに違いなかった。


「……すまない、カムジン」


 なぜ自分が謝罪の言葉を口にしたのかは、よくわからない。しかしそれ以外に彼にかけてやる言葉は見つからなかった。


 韓信は自らの手で剣を振り下ろし、カムジンの首を斬りおとした。

 若き勇者はゆかりの趙の地で、その一生を終えたのである。

 蘭はそれを見て、泣き崩れた。

 韓信は事を終え放心したが、やがてこの出来事を忘れないようにと木簡に書を記した。


――かつて奴隷にして、現在は漢の勇猛たる武人咖模津、十二月、罪を犯して斬首される。その死に対する態度はいさぎよく、それは彼が奴隷などではなく、紛れもない武人であることの証であった。


 最後の文字は手が震え、うまく筆を運べなかった。

 それは韓信が自分の行為を後悔しているからか、折しも降り始めた雪のため、寒さに手が凍えたからなのかは、よくわからなかった。


 これが紀元前二〇四年十二月のことである。


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