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【秋田県由利本荘市旅行記+にかほ市】思い出とともに半生を振り返る⑥…天災篇

【前回までのあらすじ】

 由利本荘市にはいい思い出ばかりです。僕には東北の各県で暮らしたという経験がありますが、どこの土地にも苦々しい思い出ばかりが残っていて、それが暮らした土地そのものを恨む原因となっていました。でもこの由利本荘市で大学の同級生だった女性と再会し、交流を深めていく中で、その思いは徐々に和らげられていったのです。
 再会したとき、彼女は高校教師という立派な職についていました。いっぽうの僕はすでに転職を経験していたのです。それは決して前向きな転職ではなく、失敗が原因でした。新たに僕は小売業の店員となったのですが、そんな自分に満足できず、日々悶々としていました。
 しかし子供ができ、順番は逆となったのですが、彼女と結婚するに至りました。ふたりでこの由利本荘市で生活を始め、やがて子供が生まれました。間違いなく、そのときは幸せでした。しかしやむなき事情で引っ越しすることになり、ここでの生活はたった1年で終わってしまいました。
 相変わらず仕事には満足できない状態でしたが、その後13年ほどは無難な日々を過ごしました。
 そんなとき、あの地震が起きたのです。

今回は仁賀保高原・土田牧場からのスタートです

 地震が起きて、店内は見事に崩壊した。単に商品が落ちただけではなく、陳列棚そのものが横転した。天井からの掲示物はすべて落下し、床には至る所に亀裂が生じた。
 でも、たったそれだけのことだ。会社は保険に入っているだろうし、崩れたものは直せばいい。店の従業員も全員無事だったし、客にも被害はなかった。もちろん僕自身にも問題はない。心配なのは、家族のことだった。

 このとき僕は、自宅から遠く離れた隣の市で働いていた。だから「ちょっと自宅の様子を見に帰る」なんてことは現実的にできない。まだ幼い息子(このとき小学生)が、無事でいるかどうかが心配だった。

お休み中の牧羊犬。

 心配だったけど、いつまで経っても停電が復旧せず、電話も通じない。このときになってようやく、事態はかなり深刻な状況なのではないか、とみんなが心配し始めた。その日はさすがに営業を続けることができず、店を閉めて家に帰ることにした。

 まだ3月なので、日が暮れるのは早い。停電しているので街灯もなく、信号機も作動していなかった。そんな中で一時間以上も車を運転して帰るのはものすごく怖かった。

話題が話題なので、なるべく和む画像を……

 どうにか無事に家には着いた。すでに妻は帰宅していて、幸いなことに息子も無事だった。学校は早く終わり、すべての児童を早退させる措置をとったとのことだった。妻も早く仕事を終え、4時頃には家に着いたと言っていた。それまで息子はひとりで留守番をしていたのだ。とても心細かったことだろう。しかしとりあえずは、よかった。

 でも家の中は真っ暗だし、暖房もつかない。冬の寒さの中、三人で一枚の毛布にくるまり、動物のように身を寄せ合って一夜を過ごした。

 翌朝になって、ようやく携帯のワンセグ放送が受信できるようになった。ニュースで津波の映像が繰り返し流れていた。僕たちが本当の意味で事態が深刻であることを理解したのは、実はこのときが初めてだった。

羊は僕が大好きな動物です

「nao君が昔お世話になった人とか、このあたりには多いんじゃないの? 特に岩手の沿岸とか……」
 確かにそうだ。岩手以外にも、宮城や福島にも知り合いはたくさんいる。みんな無事だろうか、という思いはあったけど、当然のことながら確かめることはできなかった。

 地震の次の日……僕は本来休みだったので、昼過ぎまでは家に居た。でも2時くらいに電話が復旧したら、早速会社から電話がかかってきて、出社を命じられた。こんな状況なので本心では休みたかったが、とりあえず出かけることにした。

羊のお尻は触ってみるともふもふでした。息子が小さい頃、ひたすら撫でていた事を思い出します

「営業し続けることは、小売業の使命だ」
 という。停電は解消されていなかったので、店頭で電卓を片手に、手提げ金庫をレジ代わりにして商品を販売した。
 ガスも止まっているので、煮炊き用のカセットコンロや、ボンベなどを求めに客が来る。寒さを凌ぐために電気を使わない反射式ストーブを買いに来る人もかなりいた。懐中電灯やカイロなどもよく売れた。

 自分は、こんなことをしていていいのか……という思いが生じた。おそらく自分が商品を売っている最中にも、あるいは崩れた商品を棚に戻す作業をしている間にも、津波にのまれて溺れ苦しんでいる人はいるに違いない。漂流し続けている人たちもいることだろう。しかもそれは大勢なのだ。
 さらにその中に自分の知り合いがいるかもしれないと思うと、どうしようもないほど心が痛む。いたたまれなさを感じざるを得なかった。

仁賀保高原を抜けて、より鳥海山ろくに近づきます

 地震で店は崩壊し、ほかにもガソリンが手に入らなくなったとか、いろんな面で苦労はした。けど、とても僕は自分のことを被災者とは呼べない。こんなことについては書きたくないというのが本心だ。

 でも言いたいことは多くある。

 だから自分たちの被害状況がどうのこうのというのではなく、このとき感じたことについてだけ、記すことにする。


「絆」という言葉が日本中で流行った。

 電気が復旧し、テレビが映るようになると、被災者を支援しようとする人たちが、大きくこの「絆」という文字を掲げ、何かしらの行動を始めようとしていた。

 浪江の原発が爆発した。考えられない出来事だった。

 津波で亡くなった人たちの状況が、だんだんと明らかになってきた。

 避難誘導の際に問題がなかったか、そんなことが検証されていくようになった。

 その結果、原発の爆発も、避難誘導の問題も、すべて人災だと批判する人たちが現れた。遺族の気持ちはわからないではないけど、津波発生の瞬間に被害の程度を完全に予測できる人がいたとは、正直僕には思えない。

 そこまでして誰かのせいにしなければならないのだろうか、という思いは確かにある。でも、これについては僕も解答が見出せない。僕は遺族じゃないのだから、その気持ちを正確に推し量ることなんてできない。自分の妻や息子が犠牲になったとしたら……その気持ちをどこにぶつければいいのかわからなくなるのは当然だろう。

このさきに大きな滝があります

「絆」が流行った世の中だったが、震災瓦礫を受け入れようとする自治体はなかなか現れなかった。市民団体が活動を始めて、「受け入れ拒否」の行動を示し始めたというニュースを目にしたときは、とてもとてもショックだった。

「絆」っていったいなんだろう。誰か僕にわかるように説明してほしい。

 復興作業を始めようとしても、まずは瓦礫を撤去しなければならず、その撤去先がないことこそが被災地の最大の問題だった。

 あるテレビ局が、このとき東京にいる若いながらも良識を持っていそうな女性に、この問題についてインタビューしていた。

「ほかに私たちができる援助はあると思うから……」

 とその女性は答えていた。

滝の手前は大きな広場になっています。奥に吊り橋が見えますね

 このとき僕がその女性に求める模範解答は次のようなものだった。

「わたし個人ではなにもできませんけど、全国の自治体の方々には被災地に協力してあげて欲しいです」

 でも、実際の答えは違った。その人は言葉にこそしなかったが、本心では受け入れに反対なのだろう。

 結局よその人はよその人なのだ。彼らは自分たちがしたいと思う形だけで援助がしたい、それだけだ。つまりは「いいことをした」と自分を満足させたいだけなのだ。

 被災地になにも役に立たない千羽鶴や、着古して穴の開いた服を送りつけてくる人がいるらしいが、それは自己満足の最たるものだ。でも多くの人々の意識は、それとあまり変わらない。そのときのインタビュー……僕の耳にはそれを象徴するもののように聞こえた。

 そもそも原発事故のあった福島の瓦礫を受け入れてもらいたいと言っているわけではない。受け入れを依頼しているのは、宮城や岩手の震災瓦礫だ。にもかかわらず、それに反対する市民団体の人たちは「放射能で汚染されている」などと言う。彼らは受け入れを表明してくれた自治体が現れたとき、そこに通じる道を封鎖して、妨害さえした。

 いったい「絆」って、なんだ。

 誰か本当に教えてくれ。

 福島の原発にしても、決して東北電力の管轄ではなく、あくまで東京電力の施設だ。つまり福島の原発は、関東……主に東京の人たちのためにある施設だ。僕は特に原発反対の意見を持っているわけではないけど、こんなことになるくらいなら、今後原発は東京湾を埋め立てて建設して欲しい。

 ……そんなことを思う。

清流を見ると心が洗われますが、いろいろなことが思い出されます

 少し状況が落ち着いたとき、岩手の沿岸に様子を見に行った。やはり以前にお世話になった陸前高田や大船渡、釜石の人たちの消息を知ることはできなかった。その事実に悲しい思いをしたことは確かだ。

 でも僕にとってその人たちは、肉親でもなんでもない。こんな言い方をして悪いけど、実際に肉親を失った人たちの悲しみとは、比べようもない。

 僕がその人たちのためにできたことと言えば、ほんの僅かな募金を捧げたことだけだ。だから、「絆」を声高々に叫んでいた人たちを批判する資格など、僕にはない。インタビューに答えた、あの女性とさほど変わらない。

 この時期ほど、自分の無力さを痛感させられたときはない。

さわやかな風景であるからこそ、しんみりとしてしまいます

 あれから10年以上の月日が経った。三陸鉄道は全線開通を果たし、概ね被災地における堤防の嵩上げ工事などは終わろうとしている。

 でも全体的に「復興が遅い」という印象を受ける。人が多く住む大都市と比べると、やっぱり東北という地は切ない。……そんなことを思う。

吊り橋を渡った奥に、滝があります

 震災から10年過ぎたあたりで、コロナが発生した。世の中の人たちは自粛を要請されて、自宅待機を命じられた。

「営業し続けることは、小売業の使命だ」
 という言葉が、また社内に持ち出された。

 教員である妻も、報告書などはリモートで対応していた。でも僕ら小売りを生業としている者にとって、リモートはあり得ない。いつも通り、出社して仕事に励んだ。

 ところが……政府から自粛要請が出ているはずなのに、店は大盛況となった。自宅に留まっている人たちが、暇を持て余して家庭菜園やDIYにいそしむようになった結果らしい。この年、会社は創業以来最高の利益を計上した。
 大きな矛盾を感じざるを得ない。

吊り橋の上から。のどかですね

 地震のときにしても、復旧需要から会社の売り上げはかなり増加した。今回のことも重なると、我々は人の弱みにつけ込んで利益を得ようとする寄生虫のようにも感じられる。だが、落ち着いてよく考えてみると、商売というものの本質はそこだ。ほしいと思う人の欲求につけ込んで……という言い方はよくないが、実際はその通りだろう。地震のときはみんな切羽詰まっていて、コロナのときはあまりに暇を持て余して……という事情だろうが、ボランティア精神が旺盛な人は、その事実に我慢できないに違いない。
 
 実際に会社側はこの時期よく訓示を垂れた。
「営業し続けていることに、お客様はみんな感謝している」
 
 本当にそうだろうか。その割に僕は、客に「ありがとう」などと言われた覚えがない。それどころか彼らは平気で店先にマスクをポイ捨てするし、間違った正義感を持った老人などは、それがお前たちのせいだと言う。なぜ拾わないんだ、と言うのだ。僕としては、どこの誰が捨てたかわからないマスクなんて、危険を冒して拾う勇気を持てない。僕だってその頃はウィルスが怖かったんだ。

吊り橋は大きく、天気もよかったので開放感たっぷりです

 客がそんな意識なのだから、こっちだって対価をもらっても問題ないだろう、下手すれば便乗して値上げしてもいいんじゃないか……そんな気がしてきた。本来なら売る側は奉仕する心を忘れてはならないのだが、特に田舎の老人はそれを当然のこととしてとらえている節がある。

 初対面の婆さんに「お前」呼ばわりされるなんてことは日常茶飯事だ。一度だけ僕は耐えきれずにそのことを咎めたことがある。するとその婆さんは「方言で喋ってなにがいけない」と腹を立てた。結局こちらが謝らなければならなくなった。

 本当の意味で感謝などされない。客は、ただそれが当たり前だと思っているだけだ。

滝が見えてきました

 また地震のときを思い出してしまった。あのとき、たまたま店の周囲から電気が復旧し始めた。その噂をどこから聞きつけたのか、大勢の人たちが店に押し寄せ、携帯電話の充電がしたいからコンセントを貸せ、と言い寄ってきたのだ。
 これも奉仕の一環なのだろう、とは思った。が、それまで人の弱みにつけ込んで対価を得ることに抵抗を感じていた僕の迷いは、それを機にどこかへ吹っ飛んだ。図々しすぎはしないか、お前の家じゃないんだぞ、と言いたくなった。
 それも一人や二人じゃない。結果的に店のコンセントまわりには五十台くらいの携帯電話がずらりと並べられる事態となったのだ。

 おかしくないか。

滝に近づいて……
上から覗いてみました。結構な落差です!

 コロナのときも、結局これと同じだ。お客さんたちは、営業時間を短縮もせず、店が普通に営業していることを当たり前のこととして考えている。けど実際は……来客する人たちが持ち込むウィルスによって、従業員の何人かが感染を余儀なくされたのだ。自粛しろと言われたときは、どうか素直に自粛してほしい。

 とはいえ、自営業の人たちは店を開けられなくなると収入減に直結してしまうので苦労したことは確かだろう。その苦労はよくわかる。でも、夜の街に繰り出す楽しみを無くした、と嘆く人たちの気持ちは……僕にはよくわからない。もともとこっちは夜遅くまで働いている側なので、夜の街で遊ぶ習慣もなかった。店の人間と遊ぼうにも、休みも違えば就業時間も違うので、仲間同士で飲みに行くということもほとんどない。

 そんな生活が続けば、人との付き合い方も忘れてしまう。僕は、大学を卒業して以来、同窓会に出ることもなければ、友人の結婚式に呼ばれたことも一度としてなかった。

滝は三段になっています。上が一の滝。下が二の滝。前の写真の落差が大きい滝が三の滝です

 そんなこんなで五十を過ぎてしまった。ここまできたら、息子には自分のような人生を歩ませたくない、と願うばかりだ。
 
 息子には小学生のときから野球をさせた。足が速くて肩がめっぽう強い、バッティングにはパンチがある三拍子揃った選手だった。シートノックの際にセンターからバックホームする姿には、我が息子ながらいつも感嘆させられた。小学生ながらイチローばりのレーザービーム。誇らしかった。

 彼が高校に進学するときには、自分のように安易な選択をさせないよう説得したものだ。多少のリスクはあったけどしっかりした進学校に入学させ、やはり自分のような道を選ぶことがないよう、理系を選択させた。もともと息子も文系的なものの考え方をする男だったけど、どうにか説得した。

 大学に入学する際は、少しつらい思いをした。万全を期してセンター試験に臨むはずが、当日インフルエンザを発症してしまい、受験さえできなかった。そこでふたりで上野まで出向いて追試を受けることになったのだが、追試は本試験より若干難しいのだという。思うような結果が残せなかった。

なんだかんだいって、僕は滝専門です

 そういうわけで志望していた国立大学には受からなかった。でも私立の大学へ進み、ぜいたくも言わず、下宿屋のような賄い付きの施設で一人暮らしをした。地味だし、女の子を呼べるような部屋でもない。それでも彼は文句を言わず、4年間をそこで過ごした。

 息子は、僕と違ってしっかりした男だ。きっとそうに違いない。

 その彼も卒業し、めでたく就職した。いま彼は、電気施設の設計を仕事としているが、これは僕が望んでもできなかった仕事だ。ぜひ成功してほしいし、うまくいかなくなったときは助けてやりたいとも思う。

滝の下はやはり清流……

「nao君。もう、いいんじゃない?」
「うん……」

 ついにここまで来た。僕は妻の理解を得て、二十七年間勤めた会社を退職することにした。客に対して素直な奉仕ができなくなったという思いが強くなってきたからだが、本当のことをいえば、あと3年くらいは勤めたかったと言うのが、正直なところだ。

 きっかけは販売から施工管理の仕事に回されたことだった。それまでまったくやったことのない仕事だし、店にいながらひとりで切り盛りする仕事なので、教えてくれる人が誰もいなかった。だから悩みが深刻になる前に、思い切って決断した。大丈夫かとみんなからは心配されたが、僕はいま、すごくすっきりした気分だ。いつまで続くかはわからないが……。

空はいい色に晴れ上がっていました

 今後なにをするかはまだ決まっていない。幸いにして少額ながら退職金もいただいた。ゆっくり今後のことは考えたいと思う。

 町おこしとか興味あるんだけど……地元の発展に何か貢献がしたいなあ。今度こそ、利益勘定抜きで。

 幸せになりたい(笑)。

(完)


今回訪れたところ

①タイトル画像:由利本荘市鳥海町内「法体の滝」

②にかほ市仁賀保高原内「土田牧場」

③由利本荘市鳥海町内「法体園地キャンプ場」

④由利本荘市鳥海町内「法体の滝 一の滝・二の滝・三の滝」


 6回に分けてお送りしてきましたこちらのシリーズも、今回をもちまして完結とさせていただきます。まともな旅行記ではありませんでしたが、私としては「由利本荘市」にこういう思いを持っている、と紹介させていただいた次第です。

 史跡や文化に基づいた見どころは、秋田県は全体的に少ないというのが実情です。その一方で自然美は多く残されています。温泉が好きな方は、山奥の秘湯が多い一方で、やはり温泉街は少ないので、その点もご参考になさってください。
 こちらで紹介した鳥海山麓は私が県内でお勧めできる自然観光スポットのひとつです。キャンプなどがしたい方に、自信を持ってお勧めします。

ぜひ、機会がありましたらお立ち寄りください。その際は日照時間が全国一少ない県なので、天気予報をご確認の上、計画をお立てください。

 なお文中震災瓦礫の欄にいくつかリンクを貼らせていただきましたが、どれも興味深い記事ですので、ぜひご参考になさってください。

 最後となりますが、このシリーズのリンクを以下に貼っておきます。

 それではここまでお読みくださいまして、誠にありがとうございます。ご支援頂いた方には、たいへん感謝しております。

 次回の旅行記は「男鹿市」を予定しています(まだやるの?)。引き続きご覧下さいませ。

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