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同じ釜の飯を食おう

 誕生日のお祝いと合格祝い。人生には2種類のパーティがあるらしい。前者はその存在を無条件に肯定することを意味し、後者は成果やそのための努力を称賛するのだそう。私の大学の教授が一冊の本の中でそう論じていた。読んだときにはなるほどと思った。たしかに分類しようと思えばそうなるのだろう。でも、自分が友人を集まりに誘うとき、そのパーティとやらはどうも容易には二分できぬような気がするのである。

 例えば、内定祝い。いや、これはすぐに先述の後者に分類されそうなものである。しかし、最近、私の友人が続々と内定を決め、内定祝いでもやるかあーと思っているが、「就活おつかれ!」と乾杯はしても、褒めたいとかそういう気持ちはあんまりない。当然のことだが、内定祝いは自分の全友人に対して開くわけではない。住んでいる地域が違うから日常的には会えない親友に会うための口実であるし、これからも仲良くしたいということを伝えるための手段である。

 それに、お祝いだから財布はいつもより分厚めにしておくつもりだが、それは「今度はお前が連れて行ってくれよ」というメッセージでもある。いくら分おごったから返せなんていう野暮な意味ではない。相手にとって自分が一席設けるに値する人物であるかという問いである。少なくとも1年は間が空くことになるのだから、その間、わたし自身の根源的な不安は持続するし、その結果はひどく重たく私ひとりにのしかかる。

 そういえば、これは日常生活においても当てはまるのだった。ランチに誘ったり、喫茶店に行ったり。それはいつも、自分が一緒に時間を過ごすに値する人物であるかという不安の拭えない問いだった。「メシ食いに行こうや」というたった9音の割には、あまりにも大きすぎる自分の存在意義への懐疑が内包されているのだ。


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