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人には人の乳酸菌

 多様性は種の保存に役立った。とすれば、私たちが多様性を称揚するのは、人類という種の保存のためということになるだろうか。他人が、あるいは自分が淘汰されても人類は生き延びる。このことに意味を見出しうる人間は今どれくらいいるのだろう。ウイルスは常に変異を繰り返す。そして生き残った「強い」ウイルスが世界中に蔓延する。まさに昨今のコロナウイルスの様子と重なる。しかし、現実はそうなってはいない。現代人が多様性を考えるとき、それはむしろ個の保存のためと言ってよいかもしれない。

 だとすれば、現代の人類における多様性とは倒錯である。個の保存は、個が消滅したとき、その意味の全喪失に遭遇する。新たな個が生まれ、またそれと同時に別の個が死ぬ。これが永遠に繰り返されるだけである。ここに「持続可能性」はない。

 「個別最適化」「私には私の勝ち方がある」「多様性」とか、誰も言い返せないような論理が社会に広く浸透しつつある。たしかに重要に違いないが、分かりやすい論理を分かりやすい言葉で広めることの無遠慮さは知らなければならない。ド正論だらけの社会には、逃げ場がない。私たちは他人の思いがけない苦労話や壮絶な過去を耳にすると、その人へのまなざしががらりと変わる。これまで見てきた表面上の彼の人柄と過去が結びつくのだ。このときようやく、人としての懐の深さを推し量ることができるのだ。つまり、一度人生のレールから外れること、あるいは一時撤退した経験が、言い換えれば、逃げ場があったからこそ彼は成長を遂げ、魅力的な人物となり得たのであった。

 かつては、町を歩いていると急に声をかけてきて悪気もなく人生論を語りだす老人が通学路のあたりをうろついていた。今は、「知らない人=悪い人」ということになっている。物騒な世の中、仕方ないことではある。年老いた彼にとっては話し相手がいない寂しさを紛らわしたいだけだったと思われる。しかし、彼の人生論は、無数に話しかけたうちのわずか一握りの子どもの頭の片隅に記憶されることによって「持続可能」になり得たのであるし、その子の人生は他者としての老人の価値観から再びまなざされ、個の中にこそ「多様性」を獲得し得たのであった。多様性はなにも自分の外側にばかりあるのではない。


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多様性を考える

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