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伝えぬ伝えるは難しい

久しぶりに仕事関係のこと。
昔から、悩むことではあるし、どうするのが一番良いのか迷うことで、苦慮と苦悩のあるところのお話。

何かと言うと、何をどこまで伝えるべきか…果たして、見たまま、感じたまま、理解出来たこと、受け取れた情報をどの範囲まで伝えるべきか否か。

受け取った情報をそのまま、忌憚なく、赤裸々に伝えること自体は難しくない。冷徹に「・・・こう言う事だからですよ」「こんなものが見えました」と、口に出来たならばそれはとても楽なこと。

単なるメッセンジャーでよければ。

けれども、人には心と言うものがある。その心にはキャパシティがあり、同じ意味のある事柄であっても個々によって受け取り方にも差異があり、心が抱く印象というものは様々で…同じ言葉を伝えても、それぞれの心の中に写る景色は決して同じではない。一人ひとり異なる意味を持って、インパクトを与えてもしまう。

また、もちろん言葉の咀嚼力や理解力にも差異があり、精神のオクターブの広さも皆同じではないから、その人なりの価値観にて解釈されてしまい、湾曲されたり、脚色されたり、都合の良い部分だけを取り出されて記憶されてしまうことも多いもの。

そういうリスクというかデメリットも、コミュニケーションにはありがちということで、諦めると言うか、納得づくでこの仕事はするべきでもあると思うが。

その意味でも言葉というのは本当に難しい。

また、私は他人に対して語るとき、文章を書くとき、その言葉はとても優しくない。
友人や周囲の人に対しては、とても辛辣な物言いをしたり、攻撃的で相手を非難批判するような遠慮なしの言い方をするので、そのことでどれほどのトラブルを生み、この言葉の暴力を用いて友人知人を傷つけてきたことか。

そのことの反省もあって、仕事では何かを言う前には慎重に言葉を選ぶように気を付けているつもりだが…これはつもりであって、果たして出来ているのかどうかは解らない。

言葉やコミュニケーションは大事だと…そう言い聞かせつつ、未だに上手く言葉を操れない自分への戒めもあり、「伝える」ことは私にとって自らの欠点を克服すべきトレーニングでもあるのだろう。

なんて、振り返りもしつつ。前置きはさておきにて、本題。

例えば、霊的なこと。
生霊もしくは死霊(亡くなった人)が憑いていますよ…と憑依などの場合、相手に「もしかして」という心持ち、心当たりだとか、多少の事前知識があるならば、それを伝えるのは難しくはないし、呪詛だとか先祖的な因縁だとか霊障などにしても、同じように覚悟を持ってそれを聞きに来た人ならば、話すことも出来るけれど。

そのようなことに対して極端な畏怖を持ち、聞かされたくない、知りたくないと拒絶反応を持っている人の場合は、そのような話はせずに別の言葉を用いて、淡々と処置を行うのが良いと言うもの。何しろ、受け取り方というものが違うから。簡単なものなら、いたずらに怖がらせてて他者や事物に対して先入観を与え、日常生活に支障が出るようにさせるよりも、知らぬうちに対処して、原因から遠ざけさせるように誘導するが無難というもの。

まあ‥でも、憑依とか祟りとかの霊障、いわゆる心霊現象に関して、それが原因で理由と説明をする方が何倍かもマシつて言うか、ことは単純で現象を理解してもらうには楽と言えるかもしれない。
一番説明するのが難しく、当人に理解を求めるのが難しいのは、過去生の出来事からの因果応報的事象、そしてカルマのレッスン(業の刈り取りまたは霊的成長のためのノルマ)だったりするから。

ここがいつも悩むところ。

何故ならば、真実(霊的な事象や過去生の問題が事実であるとは実証出来ることではないけれど)を伝えることが必ずしも当人のためになることでは無いし、かつまたその事実を客観的に受け止められることとは言い難いから。ほとんどの人がそのような情報を聞かされたとしても、そこから「知るべき」ことの意味を見つけられるわけではない。むしろ、曲解して都合よく解釈してしまうか、余計なヒロイズムに酔ってしまうなど、なぜその人生を生きることになったのかという理由や、その人生があるが故に今の人生があるということの意味から目を逸らしがちで、自分が取り組むべき目の前の課題をおざなりにするイイワケにすり替えてしまう。

だから、過去生の情報はあまり伝えるべきではない、知る必要のない情報として、伝えることは二の次にしていたりもする。本当に必要だと…心の傷を癒したり、呪縛から解放する際にしか開示すべき情報では無いと、安易に口を開くことを自制し、押しとどめてはいるが。

して、当人自身のことならば、まだ良いが…毎回、一番頭を悩ませることになるのは、他人との関係性において。
とくに関係性のよろしくない相手とのことならいざ知らず(それが親と子の間であっても)、関係性の濃いパートナー…ことに恋人ならまだしも婚姻関係を結んだ配偶者となると、慎重に言葉を選ぶだけでは済まなくなってくる。

これも当人自身が相手との関係性に悩み、その原因と置き所のない感情の出所や背景について、糸口を求めた結果からの希求であれば、伝えることは無意味でも罪にもならぬことであろうが。

この仕事を始めた時、配偶者に対する慢性的な怒りを募らせているクライアントさん…Aさんと言う方が来訪した。過去を紐解くと、その時代の二人の関係性からその感情の出所や理由を理解することは容易いことであったが、結果的にそれはその人の配偶者に対する怒りにさらに油を注ぐことになってしまった。

またある人…Bさんとするが。Bさんは配偶者に対する、どうにも消化不良を起こす、不明瞭で何とも形容し難い複雑な感情的反応を持っており…やはりそれは過去生での二人の関係性…と言うよりは、当時の相手が行っていたことに対する生理的な嫌悪感と拒否反応から来るものであった。

だが、しかし…前述にもある通り…過去生の情報はあくまで「if…もしも」の世界のことであって、過程の情報にしか過ぎない。それを信じないものにとっては世迷いごとであり、架空の戯言で妄想や空想の産物である。信じるものにのみ、価値のある情報であり、100%真実であるとの確証は得られないし、肯定することも出来ない。聞かされた当人がそれをどのように位置づけるのか、自分の中で価値を持たせるか否かだけのこと。それを真実として、自分の中で物事や他人との関係性を整理し、取捨選択する際において、活用するは個人の勝手で自由だが、他人や周囲にまで自分の見方を押し付けるものでは決してあってはならない。

Bさんは配偶者に対する自らの感情に悩み、当方を訪れたわけであるが。
当方が知りえたことは、当事者とは言え、受け止めるには酷な内容ではあったので、伝えることに躊躇を覚えたものの、当人がぜひ知りたい、その覚悟があるとの言葉を受けて説明した。但し、配偶者に関することは、当人が内在する問題に悩んで、そのような情報について知りたいと切望しない限りには、決して伝えてはならない、このことはBさんの胸にしまっておくべきことであると…そのようにお願いをしたのだけれども。そう約束はして下さったものの…

結局、Bさんは配偶者にそのことを話してしまったわけで…。
結果として、そのような情報を知りたいとは望んでいなかった当人にとっては、とてつもなく不愉快で、かつまたショックなことでもあり、互いの信頼関係に亀裂を生じさせることになってしまったようだ。

嘘も方便とは人の言う。

真実を告げることが必ずしもその人のためにはならないわけで、嘘をついたり、口を閉ざして秘密を守るが如く、沈黙は金なりを貫くことも時には美徳なのであろう。

※もとより過去生として読み解く情報が、いずれも、そして読めるものがいたとしても毎回確実で正しい情報とも保障出来るものなどないが。

以来、当人に関することならまだしも、当人以外のことについて当人に関することであっても伝えるということは果たして正しいことなのかどうかと言うのはいつも悩んでしまうところである。

過去を紐解くことは、単なる自己満足的な謎解きをするがためではなく、当事者の心の重荷を取り除くこと、当人を呪縛する潜在意識の刷り込みと洗脳を解くことと…成仏しきれずにその空間に閉じ込められている、負のエレメンタルを解放することと…そのような価値と意義があることとは思ってはいるけれど。

だがそれが故に、せっかく構築した現在の人間関係を壊したり、やり直すためのチャンスを奪うものであってはならないし、今の人生をサボったり、行動しないことのイイワケや罪を過去や他者に擦り付けるために、利用するための情報に貶めてはいけないのだとも思う。

そういう理由で、知りえたことのすべての情報を…読み取り、見たものそのままを伝えることに関してはどうしてもワンクッション置いてしまうというか、あらゆる躊躇が生れてしまう。

口籠ってしまうと言うか…ようするに、言えないことが多すぎるのである。

人間関係を破綻させたいがために、人との関係性を壊し、縁を切らせるがためにそれをしているわけではないし。もちろん、離れた方がいい関係性であるならば、その選択肢の一つとしての情報開示という見方もあるが。

関係性が夫婦であり、上手くいっている関係であるならば、あえて波風を立てる必要もないだろう。

言えないこと、伝えられないこと、今はまだ話せないこと…
そんなことがありすぎるし、たくさんたくさんある。
個人的に言いたいような気もするし、言ってはならないような気もするし、言っていいのか何処まで言うべきなのか、いつも迷うところではある。

言えないことの代わりに何を伝えるべきなのか、どのように気づきを誘導すべきか…遠回しな言い方について、いつもあれこれ上手い言い方、代わりの説明はないものかと思いまどってしまう。

この仕事はそんなことばかりだ。

もちろん、躊躇なく、ズバッと言えてしまう人もいる。それは互いの信頼関係がきちんと出来上がっているクライアントさんに限ってのこと。

正直が良いのか。誠実であるべきか。

だがしかし、誰かを傷つけないためには、あえて無能を装い、失望されたり、幻滅される方がよっぽどマシだろう。プライドも評価も、そんなものは糞くらえで。

真実が必ずしも人を救う訳ではないのだから。

だが、本当にそれが正しいことなのか。よかれと思っての余計なお節介にしか過ぎぬのか… 相手がそれを本気にしようがなかろうが、ショックで信じがたい情報も、奈落の底に突き落とすような冷たく、残酷な言葉も過去の自分の所業も、見たまま、感じたまま、聞いたまま、ありのままに…伝えて提示して、突き付けるのが親切と言うものなのか。それが金額分のサービスであるのか否か…どうするべきが良いことなのか、相手のためになることなのか…

それは未だに解らない。

きっとそれは、この仕事に死ぬまで取り組んだとしても、永遠に答えの見つかることのない課題でもあるだろう。

何が本当に相手のためになることなのか。どうするべきなのか。どうするべきであったのか…ずっと反問するべきことなのだ。

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