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守るべきものを見誤ると生きづらくなる

心がしんどくなってしまっている方と関わっているときによく感じる事があります。
それが「自分が守るべきものを見誤ってしまって、結果守れなくなってきてしんどくなる」という問題です。
 
 
ある意味心の中での「緊急性と重要性の優先順位」があべこべになってしまうことで起こる事なんじゃないかと思うんですが、しんどい状況に陥ってしまいがちな傾向の時って結構起こる事なんじゃないかと思うんです。
 
 
例えば、「出来るだけ日々平穏に暮らしていきたい」という「状況や状態」を守りたい、と思っているとします。守りたいのはその状況や状態のはずなのに、実際に守っているのは「日々平穏に暮らす」動作というか行為というか、そっちの方を守ろうとしてしまってる、みたいなズレです。
 
 
日々何かに自分が対処を迫られる事なく過ごす事ができた、という動作的な事実を守ることが目的になってしまっていて、つまり視界の端々におそらく見えているであろう問題や課題の種に手をつけず打ち手も講じずに「平穏に過ごしちゃう」わけです。
 
 
「どうにかしなきゃいけないと思ってるんだ」「そのうち考えなきゃね」と言いながら、その実守ろうとしているのは動作として行為としての平穏なので、どうにかする、というイレギュラーに取り組む、問題課題の種をどうするかを考える、何ていう「非平穏」なことには手をつけないんです。
変化を拒む、と言ってもいいかもしれません。
 
 
理性的に考えると、平穏に過ごす事ができる状態をキープするために、問題や課題のタネというのは早めに対処をするか手立てを講じておいて、何かあっても狼狽えないでいいようにさえしておけばその状態は保てるはずなのに、状態ではなく自分の動作としての安定の方を平穏、としてしまって、問題を先送りにしてしまう。手立てを講じない。
 
 
まさか、と思われるかもしれませんが、意外と少なくないような気がするんです。
 
 
重要なのは分かっているけど、緊急ではないが故に今の状況を保持することの方を優先してしまって、その事柄の緊急性がグッと高まってきたら慌ててそこに対処しようとする。んでまた落ち着いたらそのかりそめの安定を保持することが目的化してまた重要なことを見過ごして緊急性が高まったら慌てて対処して…。
 
 
それでも土壇場で対処できる事ばかりだったらいいんですが、そんな難易度のものばかりなわけないじゃないですか。早めに手を打っておかないと取り返しがつかなくなるような問題の種なんてたくさんあります。自分の力じゃ対処しきれないようなことが生まれてきたら途端にパニックですよ。
でも、それを繰り返しているうちに、だんだん緊急性が高まる頻度が増えて来たりすると、ふと気づいたら守りたかったはずの「できるだけ日々を平穏に過ごせる」状態や状況はもうこれっぽっちも守れていません。
 
 
いつも何かに追われていて、でもすぐに手をつけず動作としての平穏を守ろうとするサイクルから抜け出せず早めに手をつけることが出来ない。そうこうしている間に手をつけることさえも追いつかなくなる、みたいな。
 
 
自分が守ろうとしているものが何なのか、というのはきちんと因数分解しておいた方がいいよね、という話です。




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