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「國泰旅社」(マレーシア・ペナン)

バンコク・ファランボーン駅から夜行列車でタイ南部のハートヤイへ。ハートヤイからミニバンでタイ・マレーシア国境を越え半日かけてたどり着いたペナン島は、雨の中ひっそりと静まり返っていた。ガイドブックに安宿街として紹介されていたジョージタウンのチュリア通りは、傷んだ中国語の看板と薄汚れたタウンハウスが連なる煤けた中国人街だった。

小さな旅行代理店の前でミニバンを降りると、大柄なタミル人がゆっくりと近づいてきた。タイのツーリストビザ申請のためにパスポートを預け、近くに手頃な中級ホテルがないか尋ねるとタミル人は頷き、またがったバイクの後ろに乗るように促した。降り続く雨の中チュリア通りを離れ、なだらかな坂を上るとそこに白い建物が現れた。それが「キャセイホテル」だった。

ホテルに一歩足を踏み入れると、シンメトリーな空間の中央に位置するアールデコ調のレセプションと古めかしい丸時計が目に入った。流暢なイギリス英語を話す小柄な中国人から鍵を受け取り奥に進むと、レセプションの後ろには4本の細い柱に囲まれた中庭があった。その中庭にはどっしりした石の円卓が置かれており、その表面は音もなく降りしきる雨で濡れていた。見上げると建物の中庭部分には丸い穴が開いており、その上にはどんよりとした鉛色の空が広がっていた。木の階段を上がり、綺麗に磨かれた板張りの床を軋ませ鍵に書かれた番号の部屋に向かった。

ベッドのマットレスやバスルームの水回りは年季が入っていたものの、部屋は広い共有スペース同様、清潔に保たれていた。大きな窓を開け、雨の音に耳を傾けてみた。猥雑で活気のある大都市バンコクと比べると、ジョージタウンはあまりにも静かで寂れており、時間の流れから取り残されているような印象を受けた。

キャセイホテルは、多くの歴史ある古い建物がそうであるように、昔の記憶や思い出が蜘蛛の巣のように部屋の隅や天井に張り付いていた。ビザ発行を待つ2日間、時間潰しにジョージタウンを当てもなく彷徨い歩いた。そして、コムターの近くにあるネットカフェでキャセイホテルについて少し調べてみると残片的ではあるものの、興味深い情報を入手することができた。

20世紀初頭、福建人の富豪によって建てられた邸宅は、博打で作った借金の抵当として手放され、1950年代にキャセイホテルとして営業を開始するまでのあいだ、阿片窟、売春宿、そして第二次世界大戦中には日本軍の行政官庁として使われたという。秘密結社のスパイや麻薬中毒者、チャイナドレス姿の売春婦など暗い過去と秘密を持った人物が交錯した場所だと考えると、このホテルに多くの亡霊が住みついていたとしてもおかしくない。あるホテルレビューには、部屋のバスルームで虚ろな目をした阿片中毒者の霊を目撃したとまで書かれていた。

キャセイホテルをチェックアウトしてペナン島を離れた日は快晴だった。ペナン橋を渡る途中で振り返ってみると、緑豊かな「東洋の真珠」と呼ばれる島がそこにはあった。

その後、ペナン島は日本人定年者のロングステイ先として有名になり、高層マンションも増えたという。キャセイホテルが脳裏をよぎることは年数回あるかないかだったが、それは望郷の念にかられる 想いに近いものがあった。ベトナム人売春婦が部屋で客を取っているとの噂を耳にした数年後、キャセイホテルは閉業した。白い建物は取り壊されることなく、シンガポール資本のホテルグループによって高級ブティックホテルとして生まれ変わった。改装され、旅社の面影が完全に消え去った今もキャセイホテルの亡霊たちは相変わらずそこに留まっていることだろう。時間が止まった部屋の中で淀む空気や埃のように。

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