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生きること、そして死について

三浦春馬さんの自殺に世間が驚きと悲しみに包まれています。

30歳という若さだったということはもちろん、仕事も好調で死亡の動機になるような兆候がファンや関係者からも見えなかったことが衝撃の大きさを物語っています。

最近、若者の突然の死がニュースになるたび、ネット上で議論や賛否が湧き上がることが多くなっています。死というのは普遍的なものであり、やがて誰にでも訪れます。

私とて例外ではないため、今回は「死生観」について書き綴ることにしました。

※以下に記す中身はあくまで私見です。最後までお付き合いいただきまして、生と死について考えるきっかけになれば幸いです。

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私は現在モノづくりの仕事に携わっていて、YouTuberのプロデュースや動画の企画・編集をする日々である。これまで大病を患うこともなく比較的人生を順調に進めてきているように感じる。日本人の平均寿命(84.1歳)からまだ半分にも満たず、死というものをはるか遠い先の出来事に感じている。

・・・とはいえ明日100%絶対に死なないという保証はない。不慮の事故に巻き込まれる確率がゼロとは言い切れない。

人はみな、リスクだらけの世界で生きている。治安が良い昭和末期の日本で生まれ、両親からの愛情を受けて育ってきた私は、たまたま生命の危険に晒されることなく過ごしてこれただけかもしれない。

もし私がアフリカの砂漠地帯で生まれていたら・・・

もし私が日本の戦国時代に生まれていたら・・・

おそらく別の死生観を持っていただろう。

そもそも「死」とは何か?

私は明日死にたいとは思わない。なぜなら死後の世界を体験した人が「この世」にいないからだ。

いま「この世」と書いたが「あの世」があるかどうかを証明できる人は誰ひとりいない。仮に「あの世」が存在したとしても目では見ることができない、いい香りだけが広がる世界かもしれない。また底なし沼のような一度ハマったら抜け出せない世界かもしれない。

あの世を「来世」と呼ぶ人もいるが、「前世」が何なのか自他ともにわからない。生まれる前の私は何だったのか?もし私が人間の姿になる前に存在していたらハエやら象やら植物だった頃の記憶が頭のどこか片隅に残っていてもおかしくないはずのに、全くもって思い出すことができない。

よく親戚や知人が亡くなったときに「今頃〇〇さんと天国で会っているかな」と話すことがあるが、これはフィクションである。

こんな話は

「あの世=この世と同じ一つの星に存在する世界」

と信じていなければ出てこない。

仮にそういう世界だったとしても、既にあの世へ行っている〇〇さんに会える保証はどこにもない。あの世へスマホを持っていって電話をすれば繋がれるのだろうか?でもやっぱり「あの世」が「この世」と同じような形で存在することにしておかないと故人を偲べないのも事実である。

結局、死後の世界が明らかにされていない以上、死んでも良いことなどない。

生きることについて

現代人の多くは「生きること」が「死ぬこと」の前提になっていない。だから多少苦しくても長生きしたいと思って活動している。しかし生きることが本当に辛くなってしまったとき、死を選択することがある。それが自殺であったり、安楽死であったりする。

自ら命を絶つ人間の心境は大きくわけて2つあると考える。

「死後の世界がどうであれ、この世の自分を終わりにしよう」

または

「あの世が楽しそうだから、この世の自分を終わりにしよう」

いずれにしても死を選ぶ理由が存在する。そして、時には衝撃的な死に方を試みようとする者が後を絶たない。

2019年5月28日の川崎通り魔事件で、容疑者は2人を殺傷、18人を負傷させたあと、自ら首を刺して死亡した。「そんなことしなくても勝手に一人で死ねばいいのに」と思った方々がほぼ全員だが、犯人の心情として、人を殺してから自分も死んだほうが華々しい死に方だと思ったのかもしれない。

不慮の事故や事件で突然死する場合を除き、死ぬことには漠然としたことでもいいから何か理由が必要なのだと思う。海外での自爆テロにしても「神のお告げだ」といって他人を巻き込む。このように動機づけしなければ死ねないくらい、人間は弱い生き物だと感じる。

私は死ぬ理由がないから死んでいないし、そもそも動機づけして死んだところで問題提起にはなりえない。

もし「死」がなかったら

Appleの創業者スティーブ・ジョブズが2005年のスタンフォード大学で行ったスピーチがある。

「Stay hungry. Stay foolish. 」で締められる大変有名なスピーチだが、この中で私が最も心に残ったセリフがある。

「死は、古きを捨て新しきを生む、生物の最高の発明である」

かの天才経営者から言わせれば、死は発明だという。

では、もし「死」という発明がなかったら私たちはどうなっていたのだろうか?

生物が地球上に誕生して以降、外敵を避けるため、すなわち死なないために逃げることを覚え、海から陸へと上がり進化を遂げてきた。最終的に人間が誕生したが、ここでも人間同士の争いが繰り返されてきて、戦場に散る者、誰にも看取られず亡くなる者は少なくない。130年以上前に生きていた人間は、現在一人も漏れなく生涯を閉じている。

もし死が発明されなかったら生命のアップデートがなかったかもしれない。そして私たち人類も存在していなかったかもしれない。または、形を変えて存在していたかもしれない。

世界中の科学者たちが不老長寿、もしくは永遠の生命を求めて研究をしている。私は永遠の生命というのが発明されることには異論を唱えない。しかし、誰もが永遠の生命を手に入れる時代が訪れたら、地球環境が今の比ではないくらい大きく変化してしまうと思われる。だから「死」によって適切なアップデートが促されているに違いない。

先程「生きること」が「死ぬこと」の前提になっていないと書いたが、こう考えてみると誰かの死があって自分は今生きているのだと感じてきた。

死に怯えることなかれ

おそらく私は死の恐怖が迫る出来事があったとしても、生きるほうを選択し続けていくと思う。来世がわからない以上、喜びや幸福を感じることができる今世で過ごしたほうが楽しいに決まっている。

まだ遺書は書かない。しかし老いて遺書を書く日が来るまでの間、私が突然死ぬようなことがあったらこれが遺書代わりになる。自分自身は恐れず怯えずである。私には華々しい死に方はできないので病室のベッドの上で周りへの迷惑を最小限にして死ねたら本望だ。



7月22日で34歳になる。

私を産んでくれた親に感謝をしつつ日々悔いなく生きていきたい。


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KAZE RACER(カゼレーサー)



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