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エレベーターホテル③

なぜか僕の身体は驚いた時ほど反応を示さないと書いた気がするがあれは嘘だ。

僕はアレクサンドラの腰に手を回し「ちょっと失礼」と気取ったまでは良かった。しかしその後の不格好さはここには書くつもりはない。何を必死になっているのかと周りの客は思ったに違いない。僕は彼女を追いかけた。まだ名前を聞いていない。

パブの奥には何があるのか知らない。知らないし興味もない。君だけに興味がある。いやこれも嘘だ。僕は自分に嘘をつく。自分に対して本当のことは言わない。本当の気持ちは押し込めるように教育されている。暗い気持ちに反比例して廊下は明るい。明るすぎる。ここにはいない方が良い。スポットライトを当てられてしまう。

誰にも見つからない場所へ行こう。言い訳を探しに。罪悪感を忘れに。人は何かが欠落している。円グラフが歪な人間ばかりで社会は成り立っている。普通の人なんて存在しない。僕が悪いわけじゃあない。いや悪いかもしれないが言い訳の余地があれば充分だ。

意外とここが2階だと気付いたのは、テラスで彼女を見つけた時だった。彼女の両手を乗せた欄干の向こうは真っ黒な海が広がる。白いブラウスから彼女の身体が透けて見えた、気がした。黒髪が綺麗だった。かろうじて外が海だと分かるのはいくつかの星が海を照らしているせいだ。彼らが僕たちをじっと見ているせいだ。僕たちがどういう間柄なのか見定めようとしている。何も言わない二人の間に何かがあったのは星の瞬きよりもはっきりしていた。一度関係を持った男女は沈黙に耐えられる。しかし彼女は口を開いた。

「さっきまで綺麗な海だったのに、日々のルーティーンをこなしてたらもう何も見えない」

「そうやってあれよあれよという間に死んでいくんだろうな」

「ノミって自分の身長の100倍ジャンプ出来るんだって」

「らしいね」

「でも瓶に入れられて蓋をされるとノミはそこまでしかジャンプ出来ない。3日経って瓶から出されても、ノミは蓋の高さまでしかジャンプ出来なくなってるんだってよ」

「諦めが早くないか」

「私たちも諦めが早いよ」

「僕も諦めてる」

彼女の日本語に訛りはない。日本で生まれ育ったのだろう。日本人だと思うがそれはどうでも良い。生い立ちを聞くよりも僕が知りたいのは今の彼女だ。なぜ君に興味があるのか。このホテルは何なのか。あのエレベーターは何なのか。テラスの向こうは本当に海なのか。そして君は、僕のものなのか。全て彼女の口から聞きたかった。

しかし彼女は立ち去った。振り返って笑みを浮かべたまま立ち去った。彼女に触れようとした手は行き先を失くして夜風に触れる。夏の終わりの潮風に慰められても僕は癒されない。急に広くなったテラス。黒い海。彼女の存在が消えた余白に、いつの間にか波音が入ってきていた。そこに残った沈黙は僕と彼女のものだ。僕はそのまま何も見えない海を見つめた。目を凝らせば答えがそこにあるかのように。あの海の底に彼女の声が眠っているかのように。きっとそこに彼女がいるに違いなかった。それでも僕は彼女を追いかけない。風の音、波の音。後ろを振り返ったのは急にアレクサンドラが声をかけてきたからだ。

「タイミングは自分ではずらせないの」

彼女は僕のことを全て知っているような、それでいて包み込むような柔らかい声で言った。

「知り合いがいたと思ってね。でも、こんなところに知っている人などいないんだ」

「『知ってる人』なんてこの世にいない。他人を知ることなんて無理よ」

「少なくとも僕はまだ君のことはよく知らないな」

「私はあなたのことが少し分かる気がする」

そう言いながら彼女はハグしてきた。

「イタリア式の挨拶よ」

両頬にキスをしてきたがイタリアでもこんな状況でするキスは挨拶ではないのは分かっている。まるで久しぶりに会ったかのような温度感だった。しばらく彼女は離れなかった。

罪悪感を期待が上回るタイミングに人は何を決断するだろう。理性的であることで人生は主体的に生きられる。感情に左右されることは悪であると僕たちは教育されている。でも例えそれが悪だったとして、僕にどんな関係があるというのか。

スポットライトの当たらないテラスで、僅かな星の光からも隠れるようにして僕たちは唇を重ねた。これだからアルコールは嫌いだ。そういうことだ。

余白に流れ込んでいた波の音はアレクサンドラの裸体が揺れる度に少しずつ消えてゆく。握りしめた欄干の向こうに彼女は何を見ているのだろう。その先は真っ暗闇だ。僕は彼女のことを思い出していた。彼女もアレクサンドラも違うキャラクターをした同じ人間かもしれなかった。

夜空の下で僕たちは沈黙した。波音がそれをかき消してゆく。僕たちは消されないように、芽生えた友情を守るように沈黙した。微かな光を浴びて、彼女の身体は汗ばんでいた。アレクサンドラは見透かすような目をしている。僕は目を逸らす。ふいに彼女は僕にキスをした。

全て分かっているのだろう。違う女性を追いかけている途中の男のことを。それでもこの瞬間の気持ちは嘘じゃないことを。僕の言っていることは伝わっていないのかもしれない。僕たちは拙い英語、つまりお互い外国語で話している。僕が聞き取れなかった彼女の言葉は脳が勝手に作り変えてしまう。アレクサンドラも、僕のボキャブラリーで埋められなかった空欄を書き換えてしまったのだろう。彼女は一体何を言っていたのだろう。僕は何て返したら良かったのだろう。日本語でも埋められない空欄がある。言語は関係なかった。僕に足りないのは語学力ではなかった。

「『知ってる人』なんてこの世にいない。他人を知ることなんて無理よ」

もう一度アレクサンドラは言った。

「君のことは少しは分かったつもりだよ」

散らばった僕たちの洋服はきっと砂で汚れてしまっただろう。汚すためにわざわざ白いワンピースを着てきたのかもしれない。僕のスーツは元々綺麗じゃあない。少し砂を払ってみたが、アレクサンドラがその手を握った。優しさと艶かしさで、彼女の身体は美しく煌めいた。


エレベーターホテル④

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