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エレベーターホテル④

僕たちがテラスを離れて別れた後にホテルは大きな地震で半壊した。

僕は一人でまたパブに顔出したりしていたが喧騒に飽きてきて廊下を散歩している時だった。酔い過ぎたと思ったらガラスの割れる音、壁の軋む音が古い絨毯の匂いを消してゆく。むしろ酔いを冷まさせる。地震が収まる頃には僕は座り込んでいた。大きな揺れのわりに、そして古い建物の割りには僕は無傷のようだ。アレクサンドラといる時に地震が起こっていたら英語で何て言えば良かったのかと無駄なことを僕は考えていた。点滅を続けるようになったランプ風の電灯にノスタルジーを感じる程度には落ち着いており、映画のアクションシーンをポップコーン片手に眺めている状態だった。

修羅場を潜ったことのない人間は持って生まれた感知器が作動しない。猛獣に似たものを見たら、たとえ見間違いでも瞬時に警報が鳴りその場から逃げるように扁桃体は少し大袈裟に出来ている。僕の扁桃体は機能せず本当に危険な目に遭っても警報は鳴らない。だから廊下にアーロンがいても驚かなかった。

「おぉ無事だったか。日本は恐ろしい。香港に帰りたいよ」

「さっきまでの日本へのリスペクトも一緒に倒壊したか」

「香港は火山も地震もないんだ。君たちは慣れているだろうけどね」

動揺しているレオンをこれ以上責め立てるつもりはない。それに僕もこんな地震は初めてだ。彼女は、いや彼女たちは大丈夫だろうか。

「1階に下りた方が良い、階段でな。エレベーターは危険だ」

上の空でダニエルに言うと、彼はエレベーターという言葉に反応した。

「エレベーターで上に上がろう」

「何を言ってる?危険だと言ってるんだ。しかも上に行ってどうする」

「ここから出るんだ」

僕は言っている意味が分かった気がした。そのまま黙ってアーロンに着いて行く。エレベーターはどこにあるのか知らない。走らず歩かず。点滅する電灯。ヒビの入った壁。傾いた廊下で僕は目眩を起こし、現実と空想と憧れと思い出の中を彷徨い始めた。

僕は今どこにいるんだろう。こんなところで何をしているんだろう。遠くで彼女が怪しげに微笑む。アレクサンドラにも見える。僕はどこへ連れて来られたのか。彼女は誰なのか。黒髪が美しく、ピアニストらしいしなやかな指で力強く抱きしめられた感覚は跡が残るほど覚えている。それでもまだ名前を聞いていない。彼女が振り向くとそれはアレクサンドラだった。アレクサンドラは包容力があり僕の全てを受け入れてくれそうな大らかさがある。どちらの女性も僕は詳しくは知らない。セックスをしただけで分かったような気になるのは男の常だが、それがしばしば誤りであることを僕は人生で学んだ。アレクサンドラが言ったように、人は他者を理解することなど一生ないのだろう。見ているのは常に一つの側面でしかない。僕は僕自身を常に一つの側面でしか見ていないし、その側面にはフィルターがかかっている。見たいように見、見せたいように見せている。僕の前を足早に歩くのはアーロンであり、レオンであり、ダニエルでもある。

さっきまであれほどいたパブの客は見当たらない。そういえば地震の瞬間も悲鳴や怒号は聞こえなかった。あれは夢だったのか、今が夢の中なのか。あれからずっと夢の中にいるのか。点滅する電灯。ヒビの入った壁。傾いた廊下。廃墟のようになったパブを通り過ぎながら僕は呟いた。

「みんなもう逃げたのか?」

「彼らには関係ないんだ」

レオンの声はとても現実的で夢から引き戻されるように明瞭だった。

「何が関係ないんだ」

「彼らは…」

言いかけたところでダニエルは立ち止まった。僕たちは端から端まで歩いてきている。エレベーターがない。

「俺はこっち側から歩いて行くから、君はもう一度オポジットから歩いてきてくれ」

「オポジット、反対からか。見落とすことなんてあるのか」

「さっきはなかっただけだ。次はあるかもしれない」

僕もそんな気がした。アーロンは落ち着いているように見えたが、前よりも日本語の訛りがキツくなった。少しくらいは慌てているのだろう。彼の日常会話レベルの日本語の向こうにどんな真意が隠れているか?きっと僕が広東語を話せても彼が日本語ネイティブでも分からないだろう。僕たちは分かり合えない。でも分かり合える部分が、重なる部分が僅かにあればそれで良い。この奇妙なホテルで交差しただけの僕たちはきっとこの瞬間だけ仲間だった。彼にも同じように思われていたら嬉しいが、聞くのは野暮だろう。

「君は落ち着いているな。アジア人は何を考えているか分かりにくいと言われるが、君は特別分かりにくい」

言葉のわりに親しみを込めた声を残して僕たちは二手に別れた。

再び歩き出してまたパブを通り過ぎた。エレベーターはない。点滅する電灯のノスタルジー。傾いた廊下。エレベーターはない。壁にヒビが入っているが地震の前からあったものかもしれない。やがて視界が開けた。テラスに着いたのだ。心なしか空が白んできている。アレクサンドラを抱いた床はそのままだった。彼女が掴んだ欄干も、彼女が見ていた海もそのままだった。星はまだ、僕を見ていた。

テラスからホテルを振り返ってもそれほど被害があるようには見えない。傾いた廊下は?点滅する電灯は?外を見ても避難する人などいない。まだ暗いとはいえ建物の廊下が傾くほどの地震なら外は騒々しくなる筈だ。とにかくまた戻らなくては。別れを告げるように撫でたテラスの手摺は冷たい。歩き出すと廊下の左手にエレベーターがあった。

さっきは絶対になかった。だがそれももうどうでも良い。こういうものなのだ。上へ行くボタンを押してみると何事もなかったようにエレベーターは動いた。レオンが来ない。足音もない。錆びついた鈴の音を鳴らして扉が開く。ダニエルにはまたどこかで会える気がした。しばらく待つことも出来たがまた会えるという確信があった。そう言い聞かせて早く行きたかった。何も起こらない日常へ帰りたくなっていた。縁があればまた会えるさ。そういう言い訳の余地があればそれで良い。

僕は籠に乗り込んで最上階を押したが、エレベーターは下の階へ下り始めた。

エレベーターホテル⑤

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