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エレベーターホテル⑤

扉が開くと瓦礫の山が目に入った。土埃の匂いで甦る懐かしさと眼前に広がるダークグレー。

洞窟のように暗いがどこかから光が当たってコンクリートの塊やテーブルがかつての生活を不気味に浮かび上がらせる。自分の足音しか聞こえない。
僕の鼓動は早くなった。早くなったと感じた。緊張していると認識した。久しぶりに感情を自分で捕まえたような気がする。いつもはただ通り過ぎて行ってしまう。僕はいつも目の前をよく見ていない。その先ばかりを見ていて足元の小石に躓く。そしてある筈のない正解を探すのに忙しい。自分がどう感じているのかに着目しない。どう感じるのが正解かを探している。

ここは地下なのか地上なのか。もしかしたら誰かが助けを求めてきそうだから遠くを見ながら歩いた。生きる本能に向き合えるほど僕は覚悟ある人間じゃあないし、彼女(たち)に会いたい。現実を見ないためにある筈のない目的を拵えた。取ってつけたように彼女たちのことを思い出すと僕は少し気が楽になった。どこかに被災者がいても大切な目的のために盲目的になっている。そういう言い訳の余地があれば充分だ。

ここは地震で倒壊したというよりももともと朽ち果てていた地下道のようにも見える。戦前のものか。瓦礫を僅かに照らしていたのは奥に見える光だった。地上かもしれない。その光を何かが横切る。人影が動いた、気がした。ピアノの音色が鳴った、気がした。一度は手にしたその黒髪。その埃を落としながら彼女は僕に近づく。

「こんなところで何してるの?」

「ちょうど今それを言おうとしたんだ。君もエレベーターで来たのか?」

彼女はそれには答えず、友達のように日常のどうでも良い話を続けた。あの日と同じように。あれは昨日のことなのか、もっとずっと前の出来事だったのか。それともあんなことはそもそもなかったのか。僕はこの人のことを本当に抱いたのだろうか。ありありと覚えていた筈の記憶は思い出となり、現実との境目が見えなくなった。いや、きっと僕は初めから境目など見えていないんだ。

ピアニストだから手を怪我するわけにはいかないとかなんとか、そういう彼女のどうでもいい話すら僕は楽しく聞いた。こんな状況でも彼女は綺麗だ。

「じゃあ、私は行くから」

「そっちは外なんだろ?僕も行くに決まってるじゃないか」

急に心細くなった僕に返事もせずに彼女は歩き出した。僕は黙って着いて行く。瓦礫を照らす光はトンネルの出口のように丸く白くなっていた。外はよく見えないが空のようにも見える。地上ではないのかもしれない。ここは何階なんだ。君は一体誰なんだ。せめて名前を聞こうと彼女に追いついた時、トンネルの出口の向こう、眼前に広がるのは崖だった。ホテルがあった場所はこんな崖の上ではない。でもそれで良い。辻褄合わせはもう沢山だ。整合性を保つために僕たちは無駄な労力を使い過ぎる。僕たちは変わってゆくんだ。今の僕が、君と会う前と違うように。 

「これじゃあ出られないね」

そう声を掛けた瞬間もう一度地震が起きた。足元の床が抜ける感覚。丸かった筈の空の輪郭が崩れるのを見た。大きな音がした後は不思議と何も聞こえなかった。危機に際し全てがスローモーションに見えるというのは本当だ。人間の脳がその能力を限界まで引き上げる。走馬灯も本当だった。脳が記憶を総動員して対応策を講じる。でもそれは脳が勝手にやっていることであって、僕にはどうでも良いことだった。彼女と僕は地面ごと落下してゆく。彼女の汚れたシャツの上から二の腕を掴む。彼女を助けようとしたわけじゃあない。最後にもう一度触れたかったからだ。しかし彼女に触れても感触は他人のようだった。いや、僕たちは他人だ。ずっと前から、ずっとこの先も。遠のいて行くのは彼女との距離だけではない。抱きしめようとしたが僕たちは離れてゆく。これが最後になる気がした。彼女にとってそれは別に構わないことなのかもしれない。やがて、彼女は見えなくなった。


エレベーターホテル⑥

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