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エレベーターホテル②

1階で降りると夜になっていた。
外はインディゴブルーに塗り替えられ、廊下は嘘のように明るい。レトロなランプ風の電灯が光のカーテンとなって窓の向こうに潜む小さな星を隠していた。夜の帳が下りるのをすんでのところで止めているのは、ホテルのどこかで聞こえる喧騒だった。

声の方へ歩いてみるとそこにあったのはブリティッシュパブだ。店内は立ち飲み客で賑わっている。一瞬、客の視線が僕を貫く。全員が僕を認識したように思えた。新しい客は珍しいのか。いくつかの丸テーブルを囲んで立ち話をしているのは多くが外国人で、半分はアジア系だった。

そういえば彼女の名前を聞いていないな。
そんなことを思いながらカウンターでハイネケンを頼んでみた。

「あまりお薦めしませんけどねぇ」

バーテンダーはタキシードを着ている。ちらちらとこちらを盗み見ているこの男は、エレベーターのことを言っていたあの男の仲間か。お薦めしないのはハイネケンなのか、エレベーターに乗ったことに対してなのか。それとも僕みたいな者が来る店じゃあないと牽制しているつもりか。普段の僕なら気になる筈だが彼女のお陰で今日は違う。そんなことはどうでも良かった。

「あの席が空いてるよ」

訛った英語で声をかけられた。多分そういうことを言ったと思う。サンキュー。こちらも日本語訛りでその若い男に返し、空いているテーブル席へ進んだ。椅子があるのに皆んな立っているのか。

「君はここ初めてだろ?」

先ほどの若い男が付いてきていた。今度は訛った日本語だ。日本人ではないらしい。

「どうして分かる?」
「見ない顔だ」
「君は毎日来ているの?」
「ほとんど」

何を生業としていたらそんな生活が出来るんだ。生地の良さそうな薄手のジャケットの下にはアイロン掛けされた白シャツが見える。サイズ感からして恐らく両方ビスポークだろう。彼はアーロンとかなんとか名乗り、香港から仕事で来たそうだ。レオンと言ったかもしれない。彼はいかに日本がエキサイティングでソフィスティケートされた国なのかということを熱弁していた。ダニエルだった可能性もあるがとにかく欧米の名前を名乗っていたのは確かだ。つまり僕は彼に興味がなかった。グローバルに活躍する彼に嫉妬して、僕は自分のシャッターを閉めたのかもしれない。彼の輝かしい経歴を聞いた分だけ僕の陰が濃くなってゆく気がした。

アーロンはハンサムで社会的にも成功していて、それでも気さくで人懐っこい三十代の男だ。僕の仕事を聞いてきたが曖昧に答えておいた。男同士の関係は染み付いた競争心がその育みを阻害する。男は子供の頃から常に競争にさらされ、辛い気持ちを我慢すればするほど良い子と褒められる。押し込めた感情はなかったものにされ、代わりに社会の競争の中へ立ち向かう闘争心を見つけ出さなければならない。女性は悲しみに共感すれば良い子と褒められる。自ずと自分の感情にも敏感になってゆくだろう。僕は自分の感情には鈍感だった。

アーロンないしレオンの声はいつしか周りの雑音に混じり、僕は彼女のことを思った。あれは今日のことだったのか、昨日のことだったのか。彼女はセックスの楽しみ方を知っている人だった。時折いたずらな笑顔を見せ、好きなだけ声を上げ、僕が果てた後は穏やかな笑みを浮かべた。表情はくるくると変わった。どれだけ恋をしてきたのだろう。どんな家庭で育ったのだろう。どんな人生を送って、どれだけ絶望してきたのだろう。

ダニエルは僕のことを何故か気に入ったようだった。アップルマティーニが美味しいからと一杯奢ってくれた。今思えばアーロンは怪しい人間だったかもしれないが気にならなかった。どうでも良かった。もう一度彼女に会いたかった。酔い始めた僕はアジアにおいての日本の地理的な重要性について熱く語っていた。シーレーンは戦争の時代でもそうでない時代でも重要であると、どこかで聞き齧った知識を専門家のように朗々と語った。

こういうところがアルコールの嫌いなところだ。舵の取れない自分を眺めているのは決して気持ちの良いものではない。いや、果たしてそうだろうか。セックスは自分をコントロールしているのだろうか。

「来てしまったんですね」

喧騒とは別トラックで収録されたようにハッキリと聞こえた。振り返ると覇気のない初老の男がいた。あのタキシードの男だ。つまり今日、昨日かもしれないが、エレベーターに乗るなと言った男だ。

「乗らない方が良かったんですが」

何が言いたい?あんたもあれに乗ってここへ来たんじゃあないのか?僕は一体どこへ連れて来られたのだ?

レオンは慰めるような目で言う。

「もう少し後で来ても良かったんだよ」

「なんの話だ?」

ダニエルはアップルマティーニを飲み干した。それ以上何も話してくれない。通りすがりの美しい白人の女性が代わりに言った。

「人にはタイミングがある」

そう言ったと思う。どこかの訛りの入った英語だった。

「アレクサンドラ。イタリアから来たの」

彼女はfrom Italy. を誇らしげに発音した。言われてみればfromを巻き舌で言うところはイタリア風に聞こえる。美しいアレクサンドラもアップルマティーニを飲んでいると後で知った。日本人女性は足を見せるが、どうして欧米ではこうも胸を見せるのだろう。彼女は僕の視線に気付いているが、向こうも僕を同じ目で見ていた。茶色がかったロングヘアー。よく似合った控えめな白いワンピースドレス。思慮深い瞳。その瞳に僕の安いスーツが映っても、瞳の色は変わらなかった。

次第にアーロンに対してよりもアレクサンドラに話す頻度が増えてゆく。レオンに悪いなと思いながら、自分をコントロール出来なくなっている。そういうことにした。これだからアルコールは嫌いだ。そういうことだ。

「日本は食事は美味しいけれど、パスタが違うの」
「美味しいところもあるよ」
「本場を食べてみて。違うから」
「でも味には好みがある。食事はパーソナルでセンシティブで…」

彼女は続きを待った。

「…セクシャルなものだ」

アレクサンドラと目が合う回数が増える。周りの景色はブラーがかかり始める。喧騒は消える。全てを包み込むような瞳に吸い寄せられる。そして僕が彼女の腕に、ほんの僅かにそっと触れたその時に、見覚えのある女性がパブの奥へと消えて行くのが見えた。


エレベーターホテル③

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