見出し画像

選ばせるという事。


春夏秋冬の記事から、過去に触れるような記事を書いていなかった気がする。
前回から時系列は飛ぶが、読んでくれると嬉しい。
あと長いよ。

今回綴りたいのは、「選ばされる事」について。

生きていれば、少なからず「好き」な食べ物や「嫌い」な食べ物が出来ると思う。

私の好物と言えば納豆だが、デザートで私の好きな物はなんだろう、と先程考えた時分からなくなった。


シュークリーム。パンケーキ。エクレア。プリン。

幾らでも浮かぶのにそれが"いつから"なのかが分からない。
そもそも、私が好きなものなのか?

子供の頃から「普通」への拘りが強く、好きと嫌いがなければいけないと思い込んでいた。

なぜなら、みんなそうしているから。
みんな好きなもの、嫌いなもの、得意な教科、嫌いな教科、好きな人…嫌いな人…。
それが普通だと思っていた。普通はいい子だから。
いい子なら親が褒めてくれるから。正確に答えなければ。

上記の通り、私は昔から好きか嫌いか、で答えないといけないと思い込んでいた。 

何かを選ばないと罰せられると思っていた。
だから、「何が好き?」はいちばん困る質問だった。 
ケーキ屋に連れていかれ、どれが好き?と聞かれても私は分からない。食べた事が無いものに、好きも嫌いも無い。
名前からも見た目からも味の想像が出来ない。 

日本に来て小学校に上がる頃からは裕福とはいえない生活だった。
ちゃんと貧乏だった。思えば元父の大麻代や賭け麻雀での借金のせいだが、服もロクに買えないし、食事も取れず、電車賃も無いから野方から高田馬場まで(5kmくらいだが)母と2人で歩いて往復したりした。
ずっとお腹が空いていたから食品サンプルをみてお腹を鳴らすような子供だった。 

まともなデザートなんかは"美味しそうにも見えない"状態だった。本物に見えない。

だが、要らないと言えば可愛げがないと叱られるだろう。
 
だから、1番安くて発音のしやすいミルクレープを選んでいた。
暴露すると私はミルクレープが好きじゃない。胸焼けをおこす。 
ついでにクリーム系のケーキ全般が得意じゃない。甘すぎる。
タルトも好きではない。 
子供がおおよそ喜ぶものは好きではなかった。

当時の私が好きなものと言えば、あんぱんと納豆、餅と蕎麦だ。

それしかまともに味を覚えているものが無いと言えば嘘になるが、本当にこれで充分だった。

少なくとも小学三年生までは、その程度しか"美味しいもの"を知らなかった。

小学生といえば給食だが、私が最初に居た小学校はメシマズで有名だった。
何が出されてるかも分からないまま飢えないために食べていたから食事という感覚も無い。

そんな状態で食べ物の味がよく分からなくなったのは小学一年生の 5月の事だ。ゴールデンウィークがあけた後の給食。 

牛乳と魚がどうしても食べられず、嘔吐してしまうからと食育指導士に呼び出され、口を開けなさいと言われ、舌を掴まれた。
私の舌をみて、黒髪が綺麗な美人。みんなの人気者の優しい食育指導士の人は言った。

『ああやっぱり。マリーンちゃんは病気なのよ。牛乳も魚も食べれないなんて普通じゃない。病気のべろだ。頭がおかしいんだ。』

あの時の衝撃、光景は鮮明に思い出せる。給食終わりの昼過ぎ。
廊下にあったかい光が差し込んで、白く光ってるようにも見えた。
その中で、大好きだったその人に吐かれた毒が纏わりついて、その人の顔がぐちゃぐちゃに見えて、私は何度も何度も廊下で
「頭がおかしくてごめんなさい」と言わされたのだ。

それから暫く、何を食べても土塊のように感じて、感動が無くなった。飢えたくないから食べる。吐く。お腹が空く。同級生や上級生に暴力を受けて、鍵を開けて、家に帰る。宿題をする。寝る。起きる。学校へ行く。

時折、元父が働いていた寿司屋に行くと、大将に納豆巻をご馳走してもらっていた。
  
無知な私は例え食事に味が無くなっても、母と父が居ればそれで良かった。それが幸せだと思っていた。

小学二年生の春に母が私を置いて失踪するまでは。
確かに、喧嘩のたえない2人だった。  

でも、父は母が私を折檻しようとすると唯一止めてくれる人だった。愛してくれていたと思う。ヤク中だけれど。
私が母の体型を子供ながらに配慮のない事をいって泣かせたら、俺の愛する人を傷つけたらだめだ、と叱れる。
本当に愛だけはある人だった。借金塗れだけど。

そんな不器用ながらも家族をしていたある日。
ふしぎ遊戯のアニメを母とみていて、母が「お父さんにするならどんな人がいい?」と聞いてきた事がある。 
また選択を迫られて、困った。
私は翼宿が推しだったが、ここは、と思い母の推しの星宿みたいな人、と答えた。

その翌日、母は家を出た。
私は大泣きした。パニックになった。
1週間経っても帰ってこない母に、父は激昂した。
私に手を上げなかったあの人が怒鳴りつけるようになり、叩くようになった。酒が入ると、ディープキスをしてきたり、体を触ってくるようになった。

そして、10日目以降、父も帰ってこなくなった。

その後、5ヶ月間。二人は私を家に放棄した。

私は私を責めた。責め続けた。私のせいでお母さんは居なくなったんだと。学校での虐めはエスカレートしていった。石を投げられ、蹴られ、木の棒で叩かれ、汚れた池に突き落とされ、ホースで水をかけられ、それでも独り。独りで生きていくしかなかった。

※エスカレートした、と書いたが私は入学してすぐ6年生の男子に通学路途中の踏切でランドセルを線路に投げ込まれ、遮断機が降りた踏切内に押されて、電車に轢かれかけている。一秒遅ければこの身体はバラバラになって惨たらしく死んでいた。
あのけたたましいブレーキ音と目の前の大きな車輪。
カンカンとなる警告音は私の根深いPTSDになり、電車に乗るとパニックを起こす要因になっている。


助けを求めても見て見ぬふりをする大人。給食は給食費未納で止まり、近くのコンビニの廃棄を貰って、近所のおばあさんに時々銭湯に連れていってもらう生活。

ライフラインは止まり、油にゴキブリが浮いているような家。
汚れた服でみすぼらしく学校へいった。
同級生の親がヒソヒソと噂をしていたのにも気が付いてた。
 
それでも私は信じていたのだ。
母と父は戻ってくる。

それが裏切られ、解離が悪化した。
私の幼少期、解離する"音"があった。

パキン と何かが割れる音が頭で響くのだ。

通学路から外れた道路に止まっていた車が通学中に何故か気になり覗いたら、知らない女性と眠っている父を見つけた時にパキン。
家に戻って毛布を取ってきて車の窓から入れてかけてあげるという奇行をしている。

母にいまの父親の元に目隠しをされた状態で、道が分からないようにして連れていかれた時にパキン。

遠足のお弁当を作ってくれると約束したのに、母が帰ってこなかった時にパキン。
弁当無しで行った。

私を虐める筆頭のWに「お前捨てられたんだろ」「みんな言ってる、捨てられっ子のマリーンって」と言われてパキン。

そこからの記憶の保持が著しく難しくなった。

知っている事は、虐めっ子の自転車を盗んで乗り捨てたり、雨の中笑いながらマグカップで水を集めていたり、夜のコンビニの前で体育座りをしていたり、夜の公園で1人でブランコをブツブツと呟きながら漕いでいたらしい事を口伝で聞いた。

いずれも私にその記憶は無い。

5ヶ月間、母を掠めとった男のせいで、私は酷い目にあったのだとそう思った。
惨めで、苦しくて、ひもじい思いをして、虐められ、誰にも頼れず、悲しくてそんな思いをした元凶が今の父だ。
そう思った瞬間に、大きくパキンと鳴ったのを覚えている。

初めは、あの男も優しくしてくれようとしていた。 26歳の優男だ。

彼と出会い、両親の離婚の話がトントン拍子に進んで行った。
と言うより、黒人差別主義の父方の祖母に強行された。
離婚届にサインしろと、迫られた。
そう言えばあのババアにも殴られたことがあったな。
 

流石に、二度と会えないと察していた。私は大泣きしながら父と抱き合った。父はごめんな、愛してると何度も繰り返した。

そして、二人は離婚。私と母と今の父と1ルームに住む事になった。二人は殆ど家を空けていて、私は取り残されていることが多かった。

そして小学3年生の秋頃。

今の父親(当時は母の彼氏という立場)に「好きな教科は?」と聞かれ、国語、と答えた。

「嫌いな教科は?」と聞かれ、困ってしまったのを覚えている。特に無かったから。

全ての教科は90点以下を取った事は無かったし、勉強以外にやる事も無かったから、嫌いな教科だなんて考えた事が無かった。

だから、咄嗟に目の前にある算数のドリルを見て 算数、と答えたのだ。高校の数学模試で全国一位を取ったプライドが傷付いたのか、今ではもう分からないが、大学を卒業して得意な仕事で上手くやってる若人。気に入らなかったのだろう。
その日を境に彼から酷い暴力を受ける事になると分かっていたら、初めから嫌いな教科は無いと言っていただろう。

そして、彼から暴力を毎日振るわれるようになり、4年生にもなろうと言う頃に、引っ越すことになった。 

私は渋った。父の事が抜けなくて。
そんな時母は私に怒鳴った。  

「私とウッシーどっちが大事なの!選べ!選べないなら捨てる!」と

私は、震える声で「おかあさん、」と答えた。


良い子供であろうとした。
子供らしい子供であろうとした。
親が望む選択をする事で愛されようとした。

私は、ケーキが嫌いだ。
でも、エクレアが好きな理由は今でも分からない。

いつかどっかで、正解だった答えだったんだろうなと、過去を振り返りながら思った。
選ばせるという事。
子供が抱えきれない責任を押し付けるという事。
まともな環境で育たないと選択肢が子供を苦しめる事もあるという事。
「正解を選ばなければ」と強迫的になるという事もある。

そんなお噺。



支えてくれようとして頂ける事に深い感謝を。