自分の機嫌は自分でとる、ではなく「自分の機嫌は自分でしかとれない」
自分の機嫌は自分でとる。大人に求められる最たる課題であり、それができる人こそが大人だと思う。けれど「自分の機嫌は自分でとる」は、大人にとって最たる難問でもある。
なぜ難問なのかといえば、それは登場するのが自分しかいないからだ。「自分の機嫌は自分でとる」は、もう少しちゃんと書き換えると、「自分の機嫌は自分でしかとれない」になってしまう。
自分の機嫌は自分でしかとれない。
自分の中に眠る諸悪の根源、不満の根源、不機嫌の根源を突き止め、退治しない限りは、ずっと機嫌はとれないままを意味するだろう。
私が好きなFさんの小説「真夜中乙女戦争」にはこんなセリフが出てくる。
自分が不機嫌なときは、相対して他人が上手くいっているように見えてしまう。そしてこぼれた水のようにSNSが浸透した今の社会は、よりそれを感じやすくなってしまった。私含め、きっと多くの人がそうなのかもしれないと思う。
1日の時間関係なくバカ騒ぎしている後輩、「今の職場最高すぎる。人も環境も感謝です」と手のひらを合わせた絵文字を付けて呟く友達、土日に旅行行ける恋人がいる同期、紅茶を飲んで美術館に行って自分を潤す先輩。そういうのが見るともなしにSNSでは流れてくる。あーあ、と思う。あーあ、と呟く。
ううん、違う。違うな。
”見るともなしに”は全然違う。
見たくないならSNSアプリを開かなければいいし、スマホすらも手放せばいい。発信されている情報を自分で遮断すればいい。そして、自分にしかできない自分の機嫌をとればいい。
それでもそうしないのは、お腹が空いたから自分で食事を摂取するのに少し似ている。つまり、より自分を不幸に、より自分を不機嫌にするために、自ら見に行っているのかもしれない。現に私はそうしてしまうときがときどきある。
なんでそんなことをするのかといえば、自分の不幸をもっと不幸であるように演出するためな気がする。幸せと反対にいる自分に光をあてて、幸せな他人を心の中で叩きまくる。
そしてあとは、さっきのセリフの通りだ。心の中で他人を叩いている間は、自分の不幸を見詰めなくて済む。一旦タンスに仕舞って、出ている不幸をぐちゃぐちゃにすればいい。
でも、そうして自分の機嫌は取れたことは一度もない。
一度もないはずなのに、いまだに何度もそうしてしまうのは私が自分の機嫌を自分でとれない子どもだからなのだと思う。
私はまだまだ子供だ。自分の機嫌を自分でとる方法をもう少し見つめ直して、自分を大人に昇格させたいなあ。
”終わりよければすべてよし” になれましたか?もし、そうだったら嬉しいなあ。あなたの1日を彩れたサポートは、私の1日を鮮やかにできるよう、大好きな本に使わせていただければと思います。