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自然好きによる、この社会の見え方。

何とも大袈裟なタイトルを付けてしまった。自然好き代表みたいな書き方になっているけど、別に代表のつもりはありません。とはいえ、自然好きの一定数の人には理解してもらえるかも、そんな社会の捉え方について。

自然発想と新型コロナ

年始から一気に加速したコロナウイルスの波。1週間前には想像できなかった、1ヶ月前には想像できなかった、そんな状況が日々更新されてきました。緊急事態宣言で皆がstay homeするようになって、ようやく今、緊急事態宣言解除で日常を少しずつ取り戻しつつあるような、でも早速第2波が来ている気配も・・。きっとこの記事を1ヶ月後や3ヶ月後に読むと、また全然感覚が違うのでしょう。それくらい社会の流れや変化の目まぐるしさが、通常の2〜3倍速くらいになっている気がします。ただでさえ変化激しい現代、この数ヶ月は人生やたら生き急いでしまっているような。それほどの急激な変化を目の当たりにしている、2020年初夏。

以前「すべてはここから。」という記事でも書いていますが、私は環境や自然を軸に学生時代も社会人も生きてきました。大げさにいえば私の大元は「自然」にあります。考え方や感覚は、自然発想というか、自然由来といいますか・・例えば、森の中にいると気持ちがいいを通り越して、一体化してしまい、大きく息を吸い込めば溶け込んでしまうような感覚を覚えます。街路樹が道路計画などで一晩で切られてしまうと自分の胴が切られたかのような喪失感を覚えます。概念としての「環境問題」や「自然保護」への関心とは別に、自分自身が自然の一部であることによる、自分事の意識が人より多めです。

一般的に、自然と人間というように分けて考えることも多くありますね。西洋の思想では自然とは厳しいもので対峙すべきものという考えがあるので、自ずと自然と人間という対比になるのでしょう。一方、日本では八百万の神であったり、山を信仰したりすることからも、対峙するものではないのでしょう。

そうとはいえ、日本で生まれ暮らす人の中にもいろいろな人がいるので、私のような感覚がある人ない人、切り拓かれた山肌にソーラーパネルが敷き詰められているのを見ると痛みを感じる人感じない人、それぞれです。ただ少なくとも自然を見て、心動かされ、一体化しがちな人は一定数います。ま、そういう人が自然に関わる仕事をしていたりする訳です。

大学時代に「地球環境」と名の付く学科で、植物生態学を専攻していたので、自然の捉え方は一般とは一線を画している可能性は大です。さらに環境教育なんぞに関わったことから、ますます自然発想には磨きがかかっている人物だという自覚はあります。

新型コロナウイルスが蔓延し、「ウイルスに打ち勝つ!」みたいな標語はよく目にしました。もちろん医療関係者の方が仰る、この台詞の意味は分かります。一方で、個人的にウイルスに勝つという発想自体、馴染まないのが正直なところです。ウイルスも自然だから。対峙する相手ではないから。ちなみにワクチンを否定する立場とかでは全くありません。そういうことでなく、思想としてウイルスと戦うというのはピンと来ないのです(PCのウイルスは嫌です)。

基本的に昔からこの地球上でずっと人間もウイルスも共存していて、時に急激にウイルスと人間が接近してしまい、人間が苦しめられることは過去にも多々あった訳です。いま環境破壊が進んで、かつてなら人が接点を持つはずの無かったウイルスと接近してしまい、今回広まったという話も聞きます。グローバル化でこれだけ人が行き来するようになったことが拡大させているというのも、きっと間違いないでしょう。

私の古巣、日本野鳥の会で「野鳥も人も地球のなかま」というキャッチフレーズが使われていました。もじるなら「ウイルスも人も地球のなかま」。仲間というと仲良さそうなので、そのあたりちょっと微妙でしょうか。。

まとめると、自然と戦うこと自体がピンと来ないウイルスも人も自然ウイルスと戦うこと自体にピンと来ない。以上、三段論法(笑)

自然発想とSDGs

ここ数年、SDGsが大流行です。これまでもESDやMDGsなど指標があったものの、SDGsは別格の広がりを見せています。認知度はまだまだと言われますが、それでも大企業の方々の中ではこのワードを知らないと言えない雰囲気ですらあります。CSR部門が取り入れていたり、マーケティング戦略に位置づけたり、それに対し個人的にはいろいろ思いますが、それでもビジネス界隈がSDGsを無視できないでいることは、大事な一歩だと思います。

それでもやはり、本当にその根っこにある自然や地域や個人の痛みにどれだけ目を向けられた上で、SDGsが大事と言っているのだろう・・と思うのも本音です。CSRもそうでした。社会貢献でイメージアップといった簡単な話ではなく、CSRは経営そのもの、経営戦略として据えるもの、そういった発想は今もなお、決してメインストリームではないように思います。

私自身もローカルとか地域課題などには元々関心や接点があったわけではありません。それでも自然や環境という関心事から派生して、現在たどり着きました。都会育ちでローカルというものを肌感覚では全く理解できず、重要性も分かっていなかった数年前に比べると、いまでは随分理解が進みました。つまり、後付けでもその感覚は育つものだと思うのです。

どんなに環境問題、自然保護と大きな話をしたところで、壊されていく自然やそこに関わる人との接点無しには、どこまでも雲を掴むようなものです。地域課題なども、課題を概念として理解しているところからもう一歩踏み込んで、そこで暮らす人との接点無しには、課題の理解自体、上滑りします。

なにより、それらはどれもこれも関わり合っているんです。何かを解決したら完了とはいかず、こちらを立てればあちらが立たず、です。リニアに事が進むというのは幻想。だからといって諦めてはいけないのですが。絡み合って関わり合って、そのバランスの中で生きているのが私たちという理解が大切だと思っています。まさに生態系。生態学専攻がこんなところにも活きています。

外来種も憎めない

ちょっとマニアックな話ですが。自然が好きだったり詳しかったりすると、外来種に厳しめだったりします。アメリカザリガニ、子どもの頃クラスの男子が棒の先にスルメを付けて釣ったりしていました。羨ましかったけど、当時は男子の遊びという位置づけだったので遠慮してしまった思い出・・そのアメリカザリガニはいまでは、外来種として見つけたら殺してしまうという環境系関係者がいます。冒頭の写真の花も外来種。ナガミヒナゲシは、公園などで良く目にします。実は私、この花の色がとても好きです。外来種とはいえ、その植物自体に罪はないし、かわいいし、悩ましい。

外来種は在来種の生息域を脅かすのでNGなのですが、そもそも古くから生息しているものを在来種と呼ぶものの、古くとはいつからを指すのでしょうか。セイヨウタンポポを見て、外来種だと目の敵にする人もあまり居ないように思います。江戸時代に持ち込まれた生物は外来種といって駆逐されるべきなのでしょうか。外来種という概念は、一つの命の前に、どのように位置づけられるべきか、悩むところです。

要は、そんな簡単じゃない、そういうことです。社会が生態ネットワークのごとく絡み合う際も、きっとそうなのだと思っています。

長々と書きましたが、自然をベースとした発想をしがちな私が、どのようにこの社会を見ているかの一端を書いてみました。

なんとなく分かっていただけるのか、はたまた何言ってるのかわかりませんと言われてしまうのか、わかりませんが(笑)

3,000字、お付き合いいただきありがとうございました!

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(2019年に行ったイエローストーン国立公園。ガツンと地球を感じ、改めて自分自身が自然をベースに考える人間だと再認識)


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