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【偉人小話】世界を変えた臆病な大学教授【超短編】

16世紀初め、カトリック教会の贖宥状(免罪符)の販売に端を発した宗教改革

※贖宥状(免罪符)とは?
罪のゆるしが得られた印として、カトリック教会が発行する証明書。
とくに16世紀初め、サン=ピエトロ大聖堂の建築費を捻出する為に、ドイツでさかんに販売された。

その立役者こそマルティン=ルターである。

〔Martin Luther(1483〜1546年)〕

ヴィッテンベルク大学の神学教授であったルターは、カトリック教会の発行する贖宥状(免罪符)に疑問を抱いていた。

「お金で罪がゆるされることはない。魂の救済は信仰によってのみ果たされる」という考えを持っていたからだ。

故に、彼は贖宥状(免罪符)販売を批判した九十五カ条の論題という文書を発表する。

この文書はドイツ中に広まり、大きな反響を呼んだ。

ちなみに、彼はこの文書を発表する際、誰が書いたか分からぬように教会の門扉に貼った。

書いた者が分かってしまうと、間違いなく糾弾されると知っていたからだ。

まあ、文字や文章の癖からすぐにルターが書いたものだと人々にはバレてしまったのだが。

ルターの考えは諸侯や、多くの市民・農民に支持された。

やがてルターの考えを支持する一派が出来上がり、彼らは反教皇・反皇帝の立場をとる。

これを見過ごせない時の神聖ローマ皇帝(ドイツ皇帝)カール5世がルターを議会に呼び出す。

そこでルターに所説の取り消しを強要したのだ。

ルターは自分を支持してくれる諸侯らと共に議会へ向かった。

しかし、彼は不安でたまらなかった。

自身の考えを曲げることは出来ないが、それを口にすれば殺されるのではないか、という不安でいっぱいだったのだ。

故に、1人になることを嫌がった。

無力なルター1人では、何処であろうと殺される危険性があったからだ。

どうしても一人で入らねばならない部屋がある時は、外に待つ諸侯らに音を立ててもらい近くにいることを教えてもらわねばならない程であった。

こうして、ルターは怯えながらも皇帝に自分の考えを曲げないことを伝えた。

結果、ルターは帝国を追放されることになり、ルターを支持する諸侯・ザクセン選帝侯フリードリヒのもとで匿われることとなった。

後に、ルターの起こした宗教改革は社会変革を目指す激しい宗教戦争へと発展し、キリスト教世界を二分した。

また、ルターを支持した一派、ルター派はプロテスタントの一つとして今尚全世界に約8000万人の信徒を抱えている。

臆病ながらも信念を貫いた大学教授の行いは、世界を変え、今尚我々の世界に息づいてる。

(終わり)

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