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#3. 転落 【虹の彼方に】

 彼女との「出逢い」そして後にやってくる「別れ」も、それはボクの人生を大きく左右するものだった。

所謂世間でいう「底辺」と呼ばれるような生活を送っていたボクにとって彼女は、一筋の「希望」の光であり、汚れたボクを優しく導いてくれた大切なひとだ。

彼女がいかにボクを掬い上げてくれたかを語る上で、ほとんど人に語った事のないボクの闇の部分、「クズ人間」たる過去にも触れなくてはいけないと思っている。

ここに記すことで贖罪になるとは思っていないのだけれど・・・複雑な気持ちをご理解いただけたら有り難いと思う。

そしてここから先は、ボクだけの話で少々長くお目汚しをするかも知れないけど、どうかご容赦いただきたい。


 ボクは大阪府の南部にある郊外の片田舎で生まれ育った。

地元の中学校に通い、地元の高校に通い、たいして何かに情熱を燃やすこともなく、ただただ周囲に流されるがままに、虚勢を張っただけの青春時代を過ごした。

自分でいうのもアレだが、本当に何の取り柄もなくつまらないコンプレックスに塗れた人間だった。

ただ幸いにも友達や仲間には恵まれていたと思っている。

これまで幾度となく友達や仲間には助けられてきた。


 父親が小さな町工場を営んでいたので、高校を卒業したらその後を継いでみようかなどと、自分勝手に漠然と考えていた。

しかし父親からは、いきなり家業を継ぐことは許されず「どこかで修行をしてこい」的なことをやんわりと言われた。

大学へ進学するという発想はなかった。

当時「大学はやる事が見つからない若者が遊びに行くところ」みたいな風潮がボクの周囲では強かったが、その考え方を当時のボクはとても嫌悪していた。

今思えばそれは単純に勉強をしたくないが為の言い訳に過ぎなかったのかも知れない。

高卒での就職を希望したが、それはそれで周囲に猛反発された。

ならば家業を継ぐ為にと、大阪市内にある工業系の専門学校へ通わせてもらって、機械や図面の基礎知識を学ぶことにした。

専門学校の授業ではドラフターを使っての図面の引き方や、パソコンを使ってCADの基本操作を学べたりそれなりに楽しかった。

逆に理数系の勉強が苦手だったボクにとっては、物理学や数学、各種力学などの座学はとても苦痛だった。

二年間通ってどうにかギリギリ卒業はできたものの、ちょうどその頃はバブル崩壊後の不景気真っ只中だった。

 第二次ベビーブームで出生したボク達の世代は人数がとても多く、社会に出る頃にはたちまち「就職難」という壁にぶち当たることになる。

父親の小さな工場も不景気で経営は厳しく、ボクを雇うような余裕も当然なかった。

就職先も定まらずにバイトしてはフラフラ遊んでいるボクを見兼ねて、父親の友人が経営する内装屋への就職を頼んでくれた。

そちらの会社へは不景気にも関わらず、快く入社させていただけた。

社長さんからは、「多少しんどい事もあるだろうけど、職人として様々な経験を積みつつ、社会の荒波に揉まれて勉強していきなさい。」という言葉をいただいた。


 少し話は脱線するが、いろいろな職人の世界を経験した今、ふと感じるのは職人の世界というのはある種、究極の内弁慶の集団であるように思う。

新しいモノや人材には否定から入る習性があるのだ。

それは職人として、たとえ非効率であったとしても、これまで自身が研鑽を重ねてやってきた事を正当化させたいが為の、一種の防衛本能のようなものだとボクは思う。

これはどの業界であったとしても、職人といわれる集団はとかく新しく開発された道具や素材をまず拒んだり、新しく入ってきた人材をまず拒みがちなのだ。

拒むことで、慣れ親しんだ自分のやり方が正解なのだと言わんばかりに、必要以上に誇示してマウントを取ろうとする。

新しい道具や素材について今さら新たに覚えたくない、新人に自分たちのやってきた技術を簡単に真似できるわけがない、そうやってマウントを取る事で自分たちの「立場」を守ってきたのだ。

若い職人がなかなか定着しなかったり、育たなかったりするのは、そこに原因があるのではないかと思ったりもする。

もちろん圧倒的な経験によって受け継がれた技術は素晴らしいものであるし、それ自体を決して否定している訳ではない。

少し逸れてしまったので、話を戻そう。


 内装屋に入社して最初うちは、コネ入社の中途採用だったという事もあり、先輩職人からそれなりのイビリや嫌がらせがあった。

ボクの場合は良い意味でも悪い意味でも、強面の見た目に反して、じつは温厚で従順だったりするギャップがウケたのか、先輩達と打ち解けるのに思ってたより時間はかからなかった。

見習いの職人として働き始めてから数年すると、阪神淡路大震災が起こった。

自分自身や家族は大きな被災はしなかったものの、復興の際にはそれなりに過酷な労働を経験した。

あちこちで道路が寸断され規制されていたため、道具や材料を積んだ車での移動に異常なくらい時間がかかり、当時の睡眠時間はほとんど無かった。

加えて食事も救援物資として制限されていたので、どこに行っても食料が手に入らなくて、ほとんど何も食べれなくて水だけでお腹を満たす日が何日も続いた。

若さのおかげか、その過酷な経験を耐え抜いて仕事をこなしたという自信が、メンタル・フィジカル共にかなり強くしてくれたように思う。

同時に職人の世界特有の、世間の常識と少しズレた妙な厳しさと妙な甘さにすっかり馴染んでしまっている自分がいた。

拘束時間が長く過酷だった分、手取りとしては同世代より比較的良い賃金をもらっていた。

しかし過酷な労働の反動だったのか、周囲に流されるがまま、いつの間にか身の丈に合わない遊びを覚えた。

そしてその過酷の代償を取り戻すかの如く、湯水のように散財してしまっていた。

倒れるほど働いては、毎日朝方まで遊んで、また仕事に行くといった生活が続いた。

ギャンブルに一喜一憂しては、女性を抱いて快楽に溺れ、虚勢を張っては無駄に金をばら撒き続けた。

そういった派手な生活を一度経験してしまうと、今度はそこから自力では抜け出せなくなってしまう。

やがて身の丈に合わない分の帳尻合わせは、いつでも返せるだろうという軽い気持ちから借金をして補うようになっていた。

世の中のカラクリをまったく理解していなかったボクは、見事に欲望の渦に飲み込まれ、あれよあれよという間に多重債務者となり、絵に描いたように転げ落ちていった。

同時にどこか冷静に客観視する自分もいて不思議な気分だった。

「ああ、どうせオレの人生なんてこんなものだ。」

知った風な事を自分勝手に思っては、現実から目を背け、堕落した生活を改善しようともしなかった。

利息を借金で補い出すと、もうどうしようもなかった。

それでも夜遊びとギャンブルと快楽からは逃れられずに溺れ続けた。

まるで自分が望んでいるかのように、狂ったように破滅に向かってどんどん加速していた。

その頃には気が付けば戻れそうもないところまで転落していたし、もう後ろを振り返る勇気も無かった。


 内装屋の職人になって5年が経った頃、父親の腰のヘルニアが悪化したため、そろそろ戻ってきて工場を手伝ってくれないかという打診があった。

しかしその頃にはすでに「親父の工場を継ごう」という、いつか持っていたはずの熱い情熱もすっかり冷めてしまっていた。

内装の職人の世界にすっかり染まっていたこともあり、やる気もそれほどなかったのだが「身内だから仕方ないな」というような中途半端な考えのまま実家に戻ることにした。


 抱えてしまった多額の借金のことは、当然親には言えないまま職人を辞めて、実家の工場の仕事を手伝うようになった。

いざ実際に父親と一緒に働いてみると、互いの親子関係からくる甘えや、今まで職人の世界でやってきた仕事へ感覚や価値観のギャップ、お互いのくだらないプライドが邪魔をして、ほとんど毎日喧嘩する日が続いた。

状況はどんどん悪くなり、やがて喧嘩するのも面倒になって、とうとうお互い口を利かなくなってしまった。

そういう険悪な期間が5年ほど続いたが、そんな状態で仕事がうまくいくわけもなく、いよいよ経営も悪化し、結局工場を畳んで解散することになってしまった。

工場は閉めて跡形も無くなり、自分の欲望と快楽で作った借金は膨れるばかりだった。

 当時のボクはかなり荒れていて、いよいよこれはアウトローな稼ぎに手を染めないとダメだなと思いはじめ、その為の準備を密かに始めていた。

そんなタイミングを見計らったかのように、高校時代の友達が、ある日ボクに声をかけてきてくれた。


 彼の家業は建築関係の仕事をしていたのだが、病気によって早くに父親を亡くしてしまい、不本意のまま若くして社長という重責を背負っていた。

先代を慕っていた古参の従業員や職人達との軋轢に辟易していて、どうにか一緒に会社を盛り上げてくれないかという誘いだった。

 建築業界とはいえ、以前ボクがやっていた内装の世界とは全く違う業種だった。

しかも高校の友達同士で一緒の職場に働くことや、主従関係の状態でうまくやっていけるのかとても悩んだ。

だけど自身の借金もあるし、とにかく収入が欲しかったので、結局就職をお願いする事にした。

 とにかく借金で首が回らなかったボクは、彼と彼の母親に嘘をつき、入社してしばらくしてからまとまったお金を借りて、それを借金の返済に充てた。

ボクは本当に最低だった。

ちょうど30になる歳だった。

 初めての業種だったし、覚えることもたくさんあったのだが、とにかく人の嫌がるような事は率先してやり、仕事は本当に一生懸命に覚えようと努力した。

社長の指示には絶対にNOと言わないと自分自身にルールを設け、休日出勤だろうが早朝出勤だろうが深夜残業だろうが構わずにとにかく言われるがままに働いた。

入社して一週間で役職を与えられた。

それが良かったのか悪かったのか、役職手当があるので時間外手当はつかなくなった。

拘束時間はかなり長かったが、とにかく社長を支えるためにと早朝から深夜まで必死に食らいついて頑張った。

しかしその頑張りとは裏腹に、周囲の目はかなり冷ややかで厳しいものがあった。

古参の従業員達の言い分はこうだ。

「若い二代目ボンボン社長の友達がいきなり入社して、すぐに役職扱いになりやがった。」

「不景気で自分たちの給料は減らされているにも関わらず、この野郎は給料もきっと優遇されているに違いない。」

最初はそんな憶測で妬まれたり疎ましく思われていたのをヒシヒシと肌で感じていた。

実際にボクに対して直接わかりやすい嫌がらせをしてきたり、暴言を吐く人も少なくはなかった。

とにかく事あるごとに、ある時は徹底的に責められ、ある時は徹底的に無視され、だけど陰湿な嫌がらせには絶対に負けまいと反骨精神で耐え続けた。

一生懸命に心を無にして身体を張り、泥を啜ってでも社長と会社の為だけに頑張ろうという気持ちで働いた。

 不器用なりにそんなやり方をしていたら、一部の人達とほんの少しだけ距離が縮まり始めた。

それが少しずつだが、波紋のように広がっていったように思う。

それからボクはチャンスとばかりに調子に乗ってどんどん親睦を深めようとしていった。

やがて仕事はしつつも、ほとんど毎日のように仕事関係の人間と夜遊びをすることで、彼らとの「脆い信頼関係のようなもの」を築いていった。

そしてそういう生活に慣れてくると、結局また周囲に流されてしまい、気が付けばボクは再び同じ過ちを繰り返してしまっていた。

少し減っていたはずの借金がみるみるうちに、再び膨れていってしまった。

ボクは正真正銘の「クズ人間」になった。


 夜の街で酒を呑んでいると店のスタッフに必ず名前を聞かれる。

いろいろ不都合も感じていたので、ボクは本名を名乗るのがとても嫌だった。

今思えば、深層心理の中で「クズ人間」に成り下がっていく自分からの現実逃避だったのかも知れない。

そしてある店でいつものように名前を聞かれた時、ノリで「じゃあジョニーって呼んでください」と冗談で適当に名乗った。

純日本人だし、ブサイクなオッサンが何を言っているのか?

客観的にもホントにそう思う。

しかし不思議なことに、それを推し通していたらいつの間にか、どこに行っても違和感なく「ジョニー」の名が浸透していった。

そしてボクのプライベートでのあだ名は「ジョニー」に定着していった。


 話は戻って、そんなある時、会社に借りていたお金の返済が滞り始めた。

そして抱えていた膨大な借金と会社についていた嘘がバレてしまい、ボクは社長の母親の勧めで借金の任意整理をした。

それでも多大な迷惑をかけたそんなボクをクビにせず、また共に働こうと言ってくれた社長には本当に心から感謝している。

社長は影でボクに気を遣い続けてくれ、素行の悪かったボクのことをいつも庇い守ってくれていた。

ボクはボクで、仕事に関しては自分なりに精一杯できる限りのことを不器用ながらもやっていたつもりだったが、社長の期待に応えるような目立った成果をあげることはできなかった。

そしていつの間にか欲望と快楽に狂い落ちてゆく途中で、ボクは世間一般の常識的な意識がたくさん欠落してしまっていたのかも知れない。

親切にしていただいた社長と彼の母親に対して、大きく礼節を欠いていたこと、そして不義理を働いてしまったことを、本当に今でも大変申し訳なく思っていて、合わせる顔が無い。

 自分の責任で物事を考えようとせず、その場の雰囲気に流されてばかりの、同じ過ちを何度も繰り返すバカな転落人生に、ボクはすっかり何もかもを諦めていた。

 その会社で紆余曲折ありながらも働き続けて十三年目の冬、ボクはやっと自分の人生を左右する運命の彼女と出逢うことになる。


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