「ソロ充」という言葉に秘められた思いとは?
「ソロ充」という言葉があります。
若年層を中心に、割と頻繁にSNS上で使用されています。男女問わず使用されていることも特徴です。
意味は、一人で楽しむことができる人のこと。ソロ(一人)が充実しているさま。友人を誘うのが面倒、人といると気を使う、相手のペースに合わせるのがしんどい、などというタイプの人に多い。自由気ままに過ごすことができ、あくまで本人は楽しんでいる…人または状態を指します。
「ソロ充」の元になった言葉はご存知「リア充」です。この言葉の起源は、2006年2ちゃんねるで使われたのが最初とされ、2007年頃からはツイッター上でも広まり、一般に流布したのが2010年というのが定説となっています。
同様に、「ソロ充」と関連する「ぼっち」という言葉。こちらも起源は、2ちゃんねるの大学生板「大学で友達がいなくてひとりぼっち」スレが最初と言われています。正確な誕生時期は不明ですが、おそらく2007年以降だと思います。学校(主に大学)で友人を持たない、一人ぼっちの学生のことを指すため、大学・高校などの学生の間から流行りはじめました。
一方、「ぼっち」と同様の意味で「おひとりさま」という言葉がありますが、これの起源はかなり古く、まだネットがそれほど普及していなかった1999年に岩下久美子さんというジャーナリストが使ったのが最初。書籍化もされ、その後3回のブームがあり、「ひとりカラオケ」や「ひとり焼肉」などとマスコミにも取り上げられました。途中観月ありさ主演のドラマ「おひとりさま」も生まれるなど、言葉として定着したことはご存知の通りです。ただ、「おひとりさま」はどちらかというと女性限定の言葉として使われ、男には使われませんでした。
では、「ソロ充」という言葉はいつから使われはじめたんでしょうか。
こちらも正確な起源は不明ですが、元になった「リア充」が流布されたのが2010年頃であること、Yahoo知恵袋上で「ソロ充」という言葉が最初に出てきたのが2012年ですから、2010~2012年の間だろうと推測できます。同時に「キョロ充」という言葉も使われ出しました。
つまり、発生順としては「リア充」→「ぼっち」→「ソロ充」「キョロ充」。ちなみに、もともと「ソロ充」「キョロ充」は「ぼっち」の派性と位置付けられています。「ぼっち族ソロ充科」みたいなもんでしょうか。ぼっちだけど充実している「ソロ充」と、ぼっちのくせにリア充ぶってる「キョロ充」。よって、もともとの「ぼっち」と区別するために、「ソロ充」「キョロ充」ではない「ぼっち」は「真性ぼっち」という言葉で表されたりもしました。但し、この区分けは客観的なものであって、本来本人たちが望んだ区分けとは若干食い違っています。
以下にそのお話をします。
まず、そもそも、なぜ「ソロ充」という言葉を生みだし、使用する必要があったんでしょうか?
それは、「ぼっち」と言われたくないからです。
「ぼっち」「ソロ充」も一人でいる時間が多かったり、一人で活動することが多いという状態では同じです。しかし、どちらかというと「ぼっち」という言葉の中には、ディスり要素が含まれています。もともと、友達のいない自分を自虐的に評した言葉なので、周りには誤解されて伝わることがあります。曰く「本心とは裏腹にひとりであることに追いやられ、本当はみんなとわいわい楽しみたいんでしよ?それができないんだよね?そして、そんな自分の性格やコミュ力のなさを恨み、劣等感を抱いているんでしょ?」と思われます。
「本当は友達がほしいんだろ?」という決めつけ的な誤解があることで、そこにいじめの動機も生まれます。
「遊んでやるからよ」と言ってちょかいを出される。「ほっといてくれ」と言われればさらにエスカレートする。そういう人たちから逃れようと、トイレで一人ご飯を食べれば、わざわざついて来て「便所飯」とからかわれ、あげくの果てに上から水までぶっかけられる。文句を言わなくなったら、文句を言いだすまでどんどんその行動が過激化する。先生に見つかっても、「いや、遊んでるだけです」と涼しい顔で言ってのける。
よくある学校でのいじめの風景です。
これの切ないところは、最初は本当に親切心で、「友達のいないあの子の友達になってあげよう」と思ってはじめた行為だった場合もあるということ。でも、される側が本当に心から「ほっといてくれ」と思っていたら、ありがた迷惑です。そういう気持ちが行動として出ると、「なに、あいつ。こっちが親切で言ってあげてんのにさ」と今度は一転して、黒い心が湧きあがってしまうもんです。
人は自分と違うものを許容できない。
多様性を認めようとか、なんだかんだ言っても、悲しいかな、人間の本質というものはそういうものです。自分たちと違う考え方や行動をする人間を異分子化し、異分子を異分子として可視化することによって、「自分たちは一緒だよね」という仲間意識を強くする。そのために異分子は異分子のままで存在していなければならない。敵がいることで、仲間は仲間として強固な絆を確認できることと同じです。
敵にされてしまった「ぼっち」はもうどうしようもない。いじめの格好の餌食とされてしまいます。
やられる側としてはたまったものではないでしょう。「ぼっち」の何が悪いのか。俺は、私は、一人でいることが好きなんだから、放っておいてくれと叫びたいし、実際に叫んだことでしょう。しかし、それでは相手は理解してくれない。自分たちの身を守るためには、記号が必要でした。それにもっとも都合よかったのが「ソロ充」という言葉だったんじゃないでしょうか。
「仲間になりたいんだろ?」という大義名分を相手に与えるからいじめられる。だったら、最初から「仲間になるつもりもない」と表明しなければならない。それが「ソロ充」。一人でいることが幸せなんだから、構わないで。そういう突き放したレッテルを自分自身に貼れる錦の御旗だったんです。
最初のうちは「本当はさびしいくせに…」とか「強がってる」とか言っていた周りの連中も、本人が本当に「ソロ」を楽しんでいるとわかると、ちょっかいを出すことの言い訳が失われます。そういう効用もありました。
最初は、ネットの中でごく一部の間で使われていた言葉だったでしょう。同じ悩みを持つネット同士のつながりの中で共感も得られたかもしれません。ただ、仮にそういう記号としての言葉だったとしても、世間に認知されていなければ、リアルの世界では「なに言ってんだ、おめえ」の一言で片づけられてしまう。
ところが、この「ソロ充」という言葉を、一躍世間に広めた人がいます。それが、タレントの中川翔子さん。
2014年6月29日のしょこたん、破局経て「毎日ソロ充」という記事で彼女が使用し、それが記事のタイトルとして使用されました。
中川は「私も強くならなきゃ」と固く決意。破局を経て「最近、“ぼっち”っていう言葉を“ソロ活動”って言い換えると強くなれた気がする」と明かし「毎日“ソロ充”してます」と笑わせた。
40万人以上ものツイッターフォロワーがいる中川さん。この記事以降、「ソロ充」という言葉が広く市民権を得ました。一部の若者やネットの間だけの言葉が、まずマスコミ界隈の人間に知れ渡ります。メディア上で使用されるようにもなります。すると、次第に普通のおじさんおばさんにも広まっていきます。
ですから、「ソロ充」という言葉を使用する本人の意識としては、「ぼっち」の充実版が「ソロ充」であるということではないんいです。むしろ、「リア充」のソロ版が「ソロ充」であるという認識ですし、そういうふうに思ってもらいたいはずです。それにより、「一人でいるけど、ぼっちじゃないぞ」という意思表示となったことは間違いないでしょう。
つまり、「ソロ充」を使う側の人間の心の中にも、「ぼっち」というものに対する差別意識が内包されているんです。
ところで、「ソロ充」が容認された裏で、今度は別の対象が敵視されるようになりました。それが「キョロ充」です。
そのお話はまた別の機会に。→続きはこちら