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「キョロ」は決して恥ずかしくない。

「ソロ充という言葉に秘められた思い」という記事の続編です。前回は「ソロ充」という言葉が生まれた背景などについて書きました。

「ソロ充」が認められるようになると、今度は同じ「ぼっち」の派性だった「キョロ充」が標的となりました。要するに、本当は「ぼっち」族のくせに、リア充ぶって調子こいてる奴等という扱いです。

とはいえ、「ソロ充」と「真性ぼっち」以外のほとんどは「キョロ充」だったわけで(本人は「リア充」だと思っている)、その後の「キョロ充」族の右往左往ぶりは可哀想でもありました。

実は、スクールカーストをもっとも気にしているのは「キョロ充」だけです。「ソロ充」も「ぼっち」もそんなものには無頓着。

ましてや、本当の「リア充」は自分のことを「リア充」とは呼ばないし、そういう意識もない。彼らは「ぼっち」「キョロ充」という棲み分けにも興味ありません。自分に自信があるので、友達と一緒にいないと不安になるということもない。そういう意味では、「リア充」は時に「ソロ充」にもなれる。

「ソロ充」は「リア充」に含まれる。「ソロ充」以外の「リア充」とは、友達同士でわいわい楽しく過ごしたり、恋人と共に時間を過ごす人たちだとすると、「トモ充(共充)」と言っていいかもしれません。

図にすると以下のようになります。

片や「キョロ充」は人一倍他人の目を気にするため、一人でぽつんとおかれてしまう状況を何より恐れます。見掛け上友達がたくさんいる状態にしておきたいので。

だから、もともとの便所飯を「キョロ充」の方が活用するようになりました。なぜなら、一人で学食でランチをしている様を他の誰かに見られてしまうと「あいつ、キョロ充じゃね」と思われてしまうリスクがあるからです。

ですが、皮肉なことに、「キョロ充」という言葉を使用すること自体が、ほかならぬ「キョロ充」である証になります。「あいつキョロ充だからさ」という台詞を吐いた時点で、そいつ自身がキョロ充であるということです。つまり、「キョロ充」を「キョロ充」認定し、叩くのは他ならぬ「キョロ充」なんです。

そういう意味では、覚悟を持って「ソロ充」にもなりきれないし、実質「トモ充」ほどの自信や余裕もない人間が、必死に「真性ぼっち」と他人に認定されないようにあがいている状態。それが「キョロ充」の正体です。あくまで他人の目が基準です。

だとすると、「キョロ」に「充」がつくべきなのかという疑問があります。「キョロ」は決してその状態が充実しているわけではなく、むしろ非リア充に位置づけられます。理屈上は。

最近では、この「キョロ」こそが最底辺みたいな評価で、嫌われ者扱いの論評も多いようですが、それこそかつて「ぼっち」をいじめた異分子敵視の対象違いにすぎません。

くだらないことです。

日本人は国際的に見て「幸福感」や「自尊感情」が低い民族です。平成25年度 我が国と諸外国の若者の意識に関する調査にもそれが見られます。詳しい結果はリンク先を見て頂くとして、なぜ日本の青年は自尊感情が低いのか?

北海道大学大学院教育学研究院准教授加藤弘通氏の考察を以下引用します。

アメリカやイギリス,フランスといった国の青年の「自分への満足感」の高さは「自分はどうであるか?」といった対自的な自己認識の要因によるものであるのに対し,日本の青年の「自分への満足感」の低さは,対自的な要因のみならず,「自分は他者にとってどうであるか?」「自分にとって他者はどうであるか?」といった対他的な自己認識の要因によっても影響を受けているということが考えられる。

つまり、日本人はそもそも他者との関係性において自分を位置づける性質が他国の民族と比べて高い。他人の目を意識するわけです。

加藤氏の考察でもっと面白いのは、「自尊感情」と「自己有用感」との相関だ。他国で両者の相関はあまりないが、日本人は違う。つまり、日本人の自尊感情の低さは、「他者にとって役立っているという自己有用感」と関係している。俺はみんなの役に立っていることが何より大事なのが日本人。いいかえると、「俺はみんなの役に立っているんだろうか?」という不安感が彼ら自身の自己満足度をさげている要因なのだ。

それって「キョロ」そのもの。

つまり、日本人はもともと「キョロ」性質なんです。


学生の段階では、ほとんどの人が「キョロ」だし、それでいいんです。というより、「キョロ」であるべきでしょう。10代のうちから、「俺はこうだ」などと達観したり、悟る必要もありません。他人の目を気にするなと言っても、それが日本人の特性なんだからしょうがない。いい齢したおっさんだって気にするんです。

こう書くとちょい待て。と以下のような批判もあるでしょうね。

友達と空気も読まずに「ウェイwww」したりとか、ハロウィンとかパリピでバカ騒ぎしてるじゃないか。あいつらが「みんなの役に立っていることを気にしているのか?」と。「役に立つどころか人の迷惑顧みずじゃないか」と。

彼らが気にするの視線は、あくまで仲間うちの視線だけだし、仲間うちの役に立つかどうか。それ以外は景色でしかありません。だから彼らの中では何の矛盾もないのです。

キョロは恥ずかしくない。日本人は大体キョロだ。

とはいえ、学生のうちはまだしも、社会に出てからは「自立」が必要です。自立とは「ソロでも生きられる力」ですし、「ソロでも不安にならない心の力」です。「ソロ充」も「トモ充」もその力を持っています。「トモ充」の彼らは、友達がちゃんと心の中に存在していると意識しているからこそ、たとえ一人で放っておかれても不安にならないわけです。物理的に友達に囲まれていることだけが重要ではない。大事なのは心の持ち方です。

友達に囲まれて楽しそうな日常を送っている客観的事実を「リア充」と言うのではない。どういう状態にあっても「心が充実している人」を「リア充」というのです。

だから、誰かが常に回りにいて、彼らの承認がなければ自分が存在しえない状態は依存ですし、アイデンティティの喪失でしょう…と言いたいところですが、完全なる自立なんてものはあり得ない。アイデンティティとは他者との関係性の中で意識されるものですから。

その件については、「本当の自分なんてどこにもいない」という話の中で後日書きます。


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