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AKIRAの対極の作品を見つけたかもしれない話

『AKIRA』に埋もれて生きていたい、清田です。

まさかのAKIRA連投いっちゃいます。というかそもそも、あの文字数で語りつくせる訳もありませんでした。という事で、後半戦突入。


前回は社会背景など、作品を取り巻く環境を中心的に書いていきました。まだ読まれてない方はこちらから。

今回はもう少し内容について、主に作品世界とキャラクター設定を読み解いていこうと思います。これでやっとAKIRAの表面を薄く触れると思うので、その上で対極の作品は何なのか、を少し考えていきます。


初めて見る恐ろしすぎる世界

AKIRAの映像はどのシーン、どのカットを切り取ってもそれがAKIRAだとすぐに分かるものが多いです。なぜか。世界観の統一が徹底しているからです。

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(気に入ってる画像なので、前回と同じものです。)

前回も書きましたが、AKIRAは近未来の東京を舞台にしている、SFディストピア作品です。第三次世界大戦の影響で崩壊した日本の闇を切り取って描いており、その緊迫感や暴力性が観客に恐怖を与えます。

ここで大事なのが、その観客が「誰」なのかを考える事です。

東京を舞台にする以上、東京都民は当然恐ろしいに決まってます。投影されているのは未来の自分たちなので。ただし、これ実は東京じゃなくても成立する話ではあります。

例えばニューヨークで同じことが起こっても恐ろしいですし、中国の山奥だとしても同様に恐怖を感じるはずです。未来の街並みなんてどう変化するか誰にも分からないので、あんな街が実際にどこかに誕生する可能性はある訳です。さらに第三次世界大戦後という設定は当然日本だけでなく世界中の人を巻き込むものなので、本当に誰がAKIRAの世界に住むことになるか分からない。

いわゆる「ここではないどこか」ではなく、「ここかもしれない世界」ということです。

前回書いた通り、当然バブル期の日本ならではの説得力もあったとは思います。ただしこれは当時の影響力を考えた時の話であって、今からAKIRAを見る人にとってはおそらく関係のない話です。後からファンになっている人からすればあのSF世界がどこであろうと、どうでもいい話です。実際僕もバブルなんて意識して見たわけではないです。


こんなにも恐怖しかない世界、誰も見たことがない。


AKIRAは色々と設定がぶっ飛んでます。戦争を体験して壊れているのにオリンピックなんて誘致して、その上超能力者を育成しててなんて、そりゃあ見たことがないです。通常、ここまで飛びすぎてる物語って観客からの共感を得られずに終わるケースが多い気がします。では何故AKIRAは世界観の設定で突き放した観客を取り込むことに成功したのでしょうか。次章に繋がります。

ステレオタイプ通りの登場人物たち

割とこれに尽きるのではないかと思っています。作品世界が飛んでる反面、登場人物はよく言えば共感しやすく、悪く言えば没個性に見えます。少し賢ぶって言うと、ステレオタイプ通りで、それぞれの役職の象徴として存在していると言えます。

例えば、暴れてる超能力者は恐ろしい存在ですよね?それ以上の設定を組み込む必要があまり無いんです。よって気味の悪さを演出する為に、老人化した子供の姿を取るのは割と分かりやすく、シンプルな思考だと言えます。未知の能力に対して人々は抗う術を持たないので、周りの人物が分かりやすく慌てふためいているのもシンプルです。とはいえですよ...

それに対峙する軍(政府)がクソすぎやしないですか?

軍の人間は基本的に何も出来ずに慌てている、ダサい大人として描かれています。弱い、しょぼい、国を任せられない、みたいなイメージ。ただこれもある意味定番の描き方です。作家性を伴うものに政権批判は割と付き物です。「政府はクソ」みたいな考えって多少政治に興味がある人なら誰しもが一度は考えたことがあるはずです。AKIRAに出てくる軍人が分かりやすく大柄で声が大きい男性、という点もシンプルですよね。更にその政府批判をしている反政府ゲリラも...


もちろん定番。あんな政府だったら批判ぐらいするし、反政府的な輩が過激なテロ行為に出るのも理解できます。要は行動も人物設計も納得できる人物がめちゃくちゃ多いことが分かります。これが一番顕著なのが科学者だと感じていて、軍に付いているのに鉄雄・アキラを研究対象として残したがっています。見た目もアインシュタインみたいだし。

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そしてここまで触れてこなかったのですが、もちろん金田と鉄雄もベタベタのベタです。少し抜けてて無謀だけど、仲間思いの主人公なんて既視感満載じゃないですか??ジャンプ系の主人公とかまさにこのタイプが多いと感じてます。ルフィもそうです。「若者はこうでないと!」みたいな設定なのかもしれません。

一方の鉄雄もめちゃくちゃ理解出来る設定です。イケてる人の横に居続けた結果、憧れすぎてこじらす事は“あるある”です。金田がルフィなら鉄雄はウソップでしょうか。


つまりは、作品世界が現実離れしすぎている分、なるべく共感しやすいキャラ設定にして観客と作品を繋いでいるという事です。

料理人がよく新しい料理を考える際「食材か調理法、どちらかに慣れていないと新しい料理は受け入れられない」みたいな事を言っているのと同じ原理だと思います。では、作品世界をズラしたのがAKIRAなら、キャラクターだけをズラした作品を考えると対極が見えてきそうです。

AKIRAの真逆とか、私には難しすぎて、すぐには決められないけど...

まどマギじゃないですか?(即答)

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『魔法少女まどか☆マギカ』(以降:まどマギ)は2011年に放送されていたアニメです。概要は以下の通り。

願いを叶えた代償として「魔法少女」となり、人類の敵と戦うことになった少女たちに降りかかる過酷な運命を、優れた魔法少女となれる可能性を持ちながらも傍観者として関わることになった中学生・鹿目まどかを中心に描く。いわゆる魔法少女ものというよりも魔法少女をモチーフにしたダーク・ファンタジーとしての作風が色濃い。
2015年に読売新聞主催で行われたここ10年の日本の作品のポップカルチャーNo.1を決める「SUGOI JAPAN Award」ではグランプリを[16]、 2011年には第15回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門で大賞を、2012年には第11回東京アニメアワードテレビ部門優秀作品賞を受賞した。


長くなりましたが、まあスゴいアニメな訳です。舞台は少しだけ未来の日本なのですが、正直ほとんど今の日本と変わらない場所だと考えてください。日常系アニメが流行っていた時代の作品なので、作品世界はその他作品とほぼほぼ変わりません。

まどマギがAKIRAの逆と言える所以は、その平凡な設定で暴れるキャラクター達がまあ現実離れしている点です。

まず魔法少女ってファンタジーで一つ飛んでます。でもこれってその手の作品の中ではよくある設定かもしれません。まどマギがスゴイのは、概要にもあるようにダーク・ファンタジーと言われるジャンルにいる点だと思います。なんというか『ハリーポッターシリーズ』とかに比較的近いような恐ろしさが魔法少女キャラを利用して演出されています。

まどマギはただの萌えアニメと一線を画すそのキャラクターの秀逸さとそれらに起きる血生臭いストーリー展開でファンを獲得していった、と、考えるとAKIRAと逆にいる理由が見えてきます。


「作品世界」と「登場人物」の関係性

上記の2作品を考察していると、やはりどちらに重きを置くべきかを考えるに至ります。どちらかの比重を重くすれば流行る、的な思考はこの記事の流れ的に正解な気もします。ただし、AKIRAとまどマギは時代背景も違えば対象の相手も全く違うという点を留意する必要があります。これは前回の記事で主に書いているので今回はあまり触れませんでしたが、やはり大切なところです。

「男性が主人公で男性的な物語」のAKIRAと「女性が主人公で女性的な物語」のまどマギはここでもやはり対象的な作品であり、ファン層が異なってきます。また、80年代と10年代では社会状況や生活様式があまりにも変化しているので、(結論部分で言うのもアレですが) 公平な比較はかなり難しそうです。その時々の時代感や対象、プラットフォーム、製作者のネームバリューなど作品の売れ方には多くの要因が関わってくるので、そこの読み違いを減らす努力が最重要となります。

まずい、結局 “5W1H”に戻ってくる、というベタベタなオチになってしまいそうです。まあAKIRAとまどマギを比べる数奇な記事の分、簡潔なオチでバランスが取れましたかね?


これでようやく大好きなAKIRAの表面を触りきった気がしてます。内定者の掟を破ってまで、二編に渡った考察となったのでひとまず満足しています。皆さんお付き合いいただきありがとうございました。

というか後編なのにイヤに長くなってしまいました、申し訳ございません。この熱量なのでまた書くやもしれません。その時はまた。

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