ここだけの秘密基地

脅かすような言葉を、眺めた。

『このような不正が科学界の最高レベルでおこなわれているのであれば、知名度の低い学術誌では、はるかに多くの不正が目立たないようにおこなわれているのだろう。』


それを面白がる大人がたくさん居るんだよな…この国は…。ノートになにか書けるかな。
技術者や研究者は、
だから、静かに密やかにしてるのだ
ということを。
私の大切なゴッホのように。

それはじっと静かにしていないと、失われてしまう砂の塊のようなものでできてる。

精神の数式、…みたいなものだ。
最後の文章に、一つ。逆の視点から見ていた気持ちを伝えたい。

たくさんの研究者が居て、誰も彼も、世界がひっくり返る視点を持っている。
私は少なくともひとり知っている。けれど彼は『ものすごくたくさん知っているんだ』って言うだろう。なんでか、って、
彼は大学の教授だったから。

そして彼は負けず嫌いだったので、若者たちに比べた自分の研究の進行具合をものすごく気にしていたし、
間違っても『若い研究者がたくさん居るよ』なんてことは私に対しても
口にしたことなかったけど。

ただ、私は身内を売る気はないのでこれ自体がすべて、虚言だと思ってもらって構わない。なぜなら身内を売る気はない私は、多少なり嘘を交えてここに記すことにした。

これも、詭弁みたいなものだよね。

それでも、稀に見るふんわりとした喜望峰を自分の中に一つ見つけてしまったから、少し幸せだったんだ。
この国が少しでも明るくなるように、言葉を選びたい。人の言葉に絶望を見ると、私は相反するもう一つの方向に気付くんだろうな。

単純な脳みそでいけない…。

これは、数式には落とし込めない物語。

職場で彼女について触れられた事がある。

『あんな人になっちゃいけないよ…きみ。』
と言う。
小保方さんって私に似てるのかな…と思ってしまったりした。読んでみて納得。偽証って詭弁みたいなものだよ。 

この国はそもそもそういうの面白がる大人が、
実際たくさん居るんだ。
彼らと会話するたびに、
そこに私は居る。

例えば私はずっと…宝石というものがあまりにも、…まぁ、好きじゃなかった。というか、好きだけれど、好きだと言いたくなかった。
人がこぞって好むもの、の一つ。

味気ない、誰も彼もが味わってきたなにか。
きれいなのは当たり前だ、とぶすくれた。
うがった者の味方だろうか、斜に構えた考えだろうか。ある時、とある人の描く宝石が好きになった。
漫画の中で、
宮沢賢治の如く(宝石というより)石に
魅了されている石の博士。
その話を読んだあとから、私は宝石にまつわる概念を変えていった。

何故か素直に聴こえた。理由は定かでもない。ただ、読むうちに思い出したのは、石そのものを最初に見た時の、楽しい気持ちを自分でじっと大切にすることそのものの大変さと、幸せ。
小さい頃に、幼稚園までの道すがら、じっと石を眺めた時分の心。

最近、考えて
綴じこんだ言葉もある。

きっかけは、ある人の
『些細な、いつも気にしてない言葉が射さる』という言葉だった。

考えた言葉が人にぶつかってしまうんだな
と気付いた時、距離をとることにした。

居場所の違いや、仕事が大変だと言いたいことや、言いたくないことや、見栄を張りたいことや、その時に、

『遊んでて疲れたぁ。』という友人の環を目の前に、口を閉ざした自分の姿。
『仕事仲間なんで!』という友人の環を目の前にした私の心。寂しかったのだ。

(…遊びは、仕事じゃ、ないよ。)

同じことを、悩んだことがあったといった職場の後輩から、『その時、私は悲しくなった気持ちを考えないように考えないようにしまったの』と声が返ってきた。
『居場所が問題なんだよ』『そうなんだよね』

彼女も言ったことだった。私が言ったのは、
『私はろくに仕事なんてしていない気がするんだ』。彼女は返した。『同じこと考えてます』。

私が前に彼女の前で零した時に、『その通りなんだよね』、という話になった事。
僕らは、
届かない事がすごく腹立たしかったり、
言葉の壁際に自分は横たわってそのコンクリートの冷たさだけをしみじみと味わう。

(この石はとても綺麗なのに)と思いつつ、言葉でできたその意志をためつすがめつ眺めている。 

投げつけるにはあまりにも惜しい。
もう、残念でしかなかった。
愛情を持てど、そこに居るのは鏡。愛していたのに、と響く言葉の虚しさを嘆くと『うるさい』と喚く何者か。お金の亡者のように映っているのだろう、その目の奥の私の悲しい姿を、癒せるのは同じ世界を見る者同士かな、という話になってしまった。

つまり、ここは世界の割れ目です。


それでも、
考えの発見、って楽しいと思う。
自分の考えは誰かと同じかも知れないとか、そういうこと。
石とはそこに宿るもの。投げずに、
眺めていられるもの。

一度、巨大な岩を描いた事があって(過去の栄光なので光る言葉とも思えないのだけど)…あれは、段ボールに
1度輪郭をボロボロにしたあたりに黄色の絵の具で縁取りをして、まるで孫悟空が生まれた岩を描くような気分で筆をとった。私は孫悟空。…そんな気持ちで、画塾の先生には興味深がられ、けれど私の中にあったのは、
虚無のような、平坦な、
達成感のような、晴れやかさ、
疲労のような、虚脱状態と、
透明で優しい、光の中の講評の時間だった。

描ききった時はなんとなくの達成感があり、そしてその作品がもはや、誰にもなんにもならないことへの晴れやかな気分を噛み締めた。

それまで私は、ずいぶん長く、自分を悪人だと思ってしまったりしていたからだ。そしてその心は、今もちんまりここにある。

大嫌いな恋だった。ごめんなさい。大嫌いなんて嘘だよ。…そして、もう聞かないでしょう。

意味もないでしょう。いづぞや言ったように。『そのフェイズにはもう居ない』のでしょ。泣き叫びながら言った大嫌いの一言は、虚言でしかなかった。
私、言うタイミングをいくつも逃してあげてきた。
『直接言わないと意味ないよ』と君はいった。


一切言ってないよ。

一切言ってないよ。まだまだ言いたいことや、言えていないことはたくさんある。メモ帳がびっくりするくらい真っ黒なんだ。一切、

言ってない。
『支離滅裂にしか感じなかった』
ということは、
理路整然としたあの時の君のような、
私に対しての軽蔑を
込めることには、
うまいこと失敗したんですよね?

それとも欠片の端々で、あなたを殺してしまったでしょうか。
あんなに強い産声をあげたのに?

そして二度と、

言うべきとき、などは、ないのだろう。愛するとは、君の中ではそういうものだったのだろうから。


これらのすべてが、ポエムです。
音楽に載せづらい節なので、
まだ曲の歌詞にはなっていませんが…。
見届けてくれた人へ。
あなたにとってこの文が、
無駄な労力とならなかったことを願います。
私は少なくともこの数年で、
女性恐怖症から少しばかり、回復しつつあるように思う。

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