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Donald Fagen「I.G.Y.」【曲からチャレンジ!⑦】

チャレンジ! 7日目!
曲を聞きながらご覧いただけると幸いです。
(本日はショートショート系です)


首都高下の目立たぬ半地下、扉を押す。
聴こえてくるのは、シャーデー。悪くない。
ほの暗さの奥に目をやれば、軽く頷くマスター。
よかった、私だけ。
「いつもの?」眉が少し上がる。

カウンターの高椅子に腰かけながら
「喉が渇いてるの。ビールで」

ずらりと並ぶ数々のLP。
ハスキーな声に身をゆだねる。


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時は遡り、その日の午後3時過ぎ。

人々の出入りする入口、ドアマンの会釈が深い。
見えたのは、榊夫人。
即座に「1305号室」と浮かぶ。後ろを向き、キーボックスの1305に手を伸ばしたその時、横から別の手が。
一瞬の怯みの後、キーは素早くその手の中に。

優しい笑顔で近づく夫人に
「おかえりなさいませ、榊様。お買い物はいかがでしたか?」
ええ、ありがとう、よかったわ、と夫人。
ちらりと私に視線をくださる。軽くウインク。エレベータへと向かう。

「お前ごときが」
ポマードで固めた髪の男に舌打ちされる。

まただ。
そのいかにもな態度、口調、いいかげんにしてよ、と見えないように唇を噛む。アンタのそのやり方、嫌いなのよ。


出されたビールを一気に飲んで、うつむく。
くそぉ、なんか涙出てきた。

その時、耳に届いたイントロ。
「あ」
顔を上げる。

マスターがニヤリと笑った。

ドナルド・フェイゲン I.G.Y.
私が初めてここに来たときにリクエストした曲。

ありがとう、マスター。


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3年付き合った男にさよならした日に飛び込んだ、この店。

「何にします?」
「ジントニックをお願い」
「音楽は何か?」
「古い曲だけれどある? ドナルド・フェイゲン」

私らしく過ごせなかった日々から、本気で抜け出すために、昔大好きだった曲を選んだ。
誰かに合わせるのはもう終わりにしよう。
そのときを埋め合わせても、いずれその無理は自分を傷つける。

自分に嘘をつくのも終わりにしよう。
ひとつ目の嘘は、ふたつ目の嘘をつくる。
抜けられない嘘ループ。
切ることができるのは、自分だけ。


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「マスター、サンキュ」

「入って来たときでわかりますよ。サオリさん正直だから。
 次いきますか? いつもの」

もう涙は乾いた。

好きで選んだこの道。
私は私の方法を貫く。
きっとお客様には伝わる。伝える。
それでいい。


     ・・・・・

参加7日目です。

20代最後の年、ある伝統あるホテルに、ひと月修行に放り込まれたことがあります。
そのときのフロント業務での一コマです。
昔の格式高いホテルは、フロントの後ろにずらりとキーボックスが並んでいました。お客様の姿が目に入ったら、その方の部屋番号を即座に思い出し、一連の美しい動きでキーを取り差し出す。それが「できる」フロントマンの常識でした。
私は見習いの見習いですから、このストーリーのような思いをするレベルではなかったけれど、周りのベテランフロントマンの方々の厳しい世界を垣間見ることができました。

どんな仕事だって、真剣にこなそうという思いがあったら、色々あります。
でも、乗り越えないと自分を見失う。
頑張れサオリ、と架空の主人公を応援してみました。

今日の写真にも、例の誰かがまた写っていますね(笑)

    ・・・・・ end ・・・・・

タイトル画像:我が家ではゆうさんがマスターです。

いただいたサポートは、次回「ピリカグランプリ」に充当させていただきます。宜しくお願いいたします。