【実話】大学で好成績を取って大学院に行ったがいじめとかで中退し鬱病で仕事も出来ずニートで毎日地獄のような日々を送っている話


はい タイトル通りです
こういうの書くのに慣れてないので,読みにくい文章かもしれないですがご容赦ください

自分の家庭はたぶん平均値 中央値くらいの普通の家庭
父親と母親がいて,姉がいて,弟に自分がいる 4人家族

父親はサラリーマン 母親は自分が小学生までは専業主婦 
中学生からはパートしてくれてました.

公立小学校→公立中学校で受験とかはしたことない
東京の郊外らへんに子どもの頃からずっと住んでます.

小学校、中学校は正直に言うと落ちこぼれ
学力は下の中くらい 得意な科目はなかったし,自分から進んで勉強したことはなかったです.
勉強というよりは友達と遊んだり,ゲームしたり,ドッジボールしたりとインドア派ではあったものの,普通の小学生をしていたと思います.

中学校では合唱部をやってたけど,そこでもいじめがあって一度辛い思いをしてました.部活動しかしてなかった自分は部活をやめた途端,アイデンティティを消失.クラスで孤立して,誰からも声をかけられない.こちらから声を掛けても無視される.
そんな地獄のような中学を逃げるように卒業

偏差値48くらいの普通科高校(公立)に入学(後から先生から聞いた話だと下から数えて4番目の成績で入学していたらしい 怖すぎる)
入った高校の当時の進学状況はMARCHが1~2人.日東駒専が10人くらい.近くの大学に行く人40人くらい.
全体の40%くらいが大学.40%くらいが専門学校.20%が就職.
もちろんですが早稲田以上 国立大学なんかは一切いないような状況でした.


入学したとき,中学3年生の時にいじめられていたのもあって斜に構えてたのか,中二病を拗らせていたのか,どっちなのかはわからないですが1つ大きな事を決断していました.
「俺は一流大学に行く」
と.
今考えるとめちゃくちゃ恥ずかしいですが,親にも確かにこう言ってました.
今まで落ちこぼれだったのに,何を思っていたか目標だけはめちゃめちゃ高かったんですよね.
とは言ったものの,今まで落ちこぼれだった男が一流大学に行こうとするなんて普通に考えたら無謀です.勉強を今までしてこなかったんだから中学の知識はほぼないようなものだし,そもそも勉強をどうやっていいのかがわからない.

ここで2つの大きな出会いがあります.
1つ目は生徒を名門大学に数多く送り出した実績のある英語の先生が1年生の担任だったこと.
2つ目は数学との出会い

1つ目はさすが公立 めちゃめちゃ有能な先生から無能な先生までごちゃまぜのごった煮が職員室.教育現場は多種多様な教育観を持った先生がいて,それなのに日々トラブルが発生しています.まさに地獄でしょう.
そんな中,素晴らしい先生に会えたのは幸運でした.
更に英語は文系理系どちらに進むにしても必須.本当に幸運でした.

2つ目は数学.
「いや、中学校でも数学あったじゃんw」
と思われそうですが,自分の中では中学数学と高校数学では全然違ったんです.
中学の数学は具体的な数学
高校の数学は抽象的な数学


多くの人はたぶんこの抽象的な数学に耐えられなくなってリタイアしていくのかもしれないが,自分からしたらこれがとにかく楽しかったです.
問題が解けるだけでもちろん楽しかったし,興味がありすぎて大学の内容にまで手を伸ばしてたりしてました.

1と2の連立方程式を解くと,1つの解が出てきます
数学と英語で受験できる私立大学.
抽象的な数学がやりたかったため,理学部の数学科.
調べればすぐわかる大学です


今まで落ちこぼれだった自分には複数教科やらなければならない国立大学は高校3年間では厳しい.これを高校1年の段階で決意しました.


といっても,言うは易く行うは難し.
偏差値48の高校では一人勉強してるだけで変な目で見られます.


勉強できる環境ではないのです.それでも職員室の前にある自習机に毎日陣取り,わからなかったらすぐに先生に聞く.
これを毎日繰り返しやってました.


案の定友達はできず,それでも「大学に行く」という一つの希望を持って勉強してました.高校生活をすべて勉強に費やしたといっても過言ではないでしょう.


クラス写真からハブられたりいろいろなエピソードはありましたが,それでも大学というものに強い希望を持っていました.大学に行くということが心の支えになっていました.

高校2年生になると,クラス替えがあります.
ちなみに学年では英語と数学のみですが上位を常にとるくらいには成長していました.といってもたかが偏差値48の高校の上位.目標の大学には当然のように届きません.


勉強だけをして,結果を出してると周りの評価が変わってきます.それとも周りも今後の進路を考え始めていたのか.
自分に数学や英語を教えてほしいと言ってくれるクラスメイトがいたんですね.


更に,一緒に放課後残って勉強したり,朝早く来て勉強したりと,よいライバルが出来ました.
時にはテストの点で1,2点勝っただけで一喜一憂したり,負けてこの世の終わりのように落ち込んだり,とにかく楽しかったです.


時には夢を語りました.大学数学はこんなにも面白くて奥深いのに,高校数学ではただの計算.もしくはただの受験の道具に成り下がっている.日本の数学教育はこうこうこういうところがよくない.
みたいな,明らかに高校生が考えるべき内容ではない事までその時考えていました.(ここらへんに教職,高校の数学教員になろうと考えていました.)

その時の担任の先生は1年の時とは違う先生でしたが,その先生が言うには自分のおかげでクラスが勉強する方向に向かっていったそうです(ほんまかいな)

高校3年生になると受験も近くなります.
数学Ⅲを履修する人数が10人程度みたいな,明らかに理系で進学することを想定してないだろ みたいな驚きはありましたが,それでも数学はより好きになり,大学数学への憧れは強くなりました.

大学進学のみをアイデンティティにしていたため,センター直前から私立本番にかけて,ストレスで髪の毛の半分以上が白髪になったりと廃人になりかけましたが,無事合格.

そこからは人生(23年とちょい生きてきた中)で一番楽しかったと思う.
自分の好きな数学は出来るし,教職をとって教員免許もとれる.
ただ,理系で教職を取るとまあ地獄ですよね.休みがない.


それでも大好きだから毎日大学に行けた.本当に楽しかった.
毎日大学に行って,勉強して,予習して,復習したら,もう1日が終わり.
親にはバイトしないの?と言われますが,
「学生の本分は学業!」とかなんとか言ってバイトをせずに大学生活を謳歌します.
普通の人が想像する大学生活とはおそらく全く違う意味です.
サークルには入らず,バイトもせず,大学の講義を一番前の座席で聞く.
すぐに教授に分からない所を聞く.楽しかったなぁ・・・

大学生の時にも数学教育のここがよくない.こうしたらよい.
そんなことをずっと考えていました.
それを実証するために研究したい…
つまり大学院へ進むことを決意します.

こういう大学生をしていたので4年での平均GPAが3.80
つまりほとんどが最高評価S(オールSだと4.00)という今見てもチートみたいな成績を残します(これでも主席じゃなかったので上には上がいると思いました)

元は理学部数学科のため,教育系の研究をするには外部に出た方がよい.
更に高校教員になりたい.ということから教職大学院というものがあったので目指すことに.
こういう成績をしていたため,幸運にも大学推薦で某国立大学の院に進みます.たくさんの大学教授に面接の練習だったり研究テーマの相談をしていただきました.大学の教授って自分も全容はわかってないですが,クソ忙しいはずです.そんな中,自分のために時間を割いてくださった先生に今でも感謝しています.

大学を卒業して大学院に進みます.
4年間通い慣れた大学を離れて,国立大学の院へ
教育系の院なので今までの大学と勝手が違うことにとにかく驚きます.
数学科だったら当然のことは完全に通用しないし,教育の院だからなのかよく知らないですけど,
「生徒(子ども)の前で同じ事言えるの?」みたいいちゃもんを付けられて怒られます.(いや生徒目の前にいないやんけ)
大学院で出来ると思って期待していたアカデミックな議論
これはまぁ出来なかったですね

教職大学院っていうのに進んだので,教職大学院を簡単に説明すると専門職大学院って言って,要は教員を養成する大学院.教員にもなれて,研究も出来る.両方のうま味がある.そんな風に思ってました.
蓋を開けてみたら,研究者としてのマインドを持った学生はほとんどおらず,就職失敗したから院に来た人や,まだ遊びたいうんぬんかんぬん.
大学教授も研究よりかは実際の現場に入る実習に重きを置いている.
研究の指導は二の次.といった状況だった.

それでも「学会発表をせずに何が大学院生だ」と思っていたので小さな論文を書き,小さな学会発表をしました.(コロナ禍だったのでリモート発表)
その時は院で一番楽しかったと思う.
同い年ですごい自分が見てもよくわからん研究をしている人を見るととにかくエネルギーを貰えた.質問して議論するだけでモチベーションが上がった.
自分が発表して,質問されて,ボコボコにされて,でも褒められて.
とにかく嬉しかった.
自分の研究テーマに興味を持ってもらえたのが嬉しかった.

教職大学院が研究より実習に重きを置いているため,研究に重きを置いている自分は実習で浮きます.まあ当然です.普通科高校に実習に行っていたのですが,自分一人でした.誰かに相談できれば本当にどれだけよかったか.

これは国が悪いのですが,実習生受け入れにあたって,学校に対して補助金等の一切の援助は存在しません.現場の先生からしたらただでさえ忙しいのに余計なお荷物が増えたようなものです.
実習生は基本的に邪魔な存在でしょう.更に,研究に重きを置いてる変な奴が来たらそれは邪魔です.
しかし,対人関係の深刻な不足から,その距離感が自分には全く掴めませんでした.助けてくれる同期の実習生もゼロ.

それでも,自分には才能があって,逆境を打ち破ってきた経験がある.
そんな勘違いをしていたため,
「俺を活用しない学校側は無能」,「研究をすることは未来の日本教育を絶対に良くする」
などと言った虚勢を張り,こちらから完全に譲歩しようと態度を見せることはありませんでした.
実習担当の先生との関係は最悪になり,それは学年の先生にと伝わり,
中学生の時のような光景を再び味わいます.

道は違えど,大学の時の同期は院で成果を残しています.
自分は,やりたかった研究も十分に行えず,先生になりたかったはずなのに実習先では地獄のような日々を送っている.

助けてくれる人はいない.
22歳の大人が涙を流しながら,院の教授にどうにかしてほしい.
実習校を変えたい.
もう行きたくない.そんな風に言った.

教授には,
「これが将来に絶対生きる」
「不登校の生徒の気持ちがわかる先生になれる」

と言われた.

何回も泣いた.

そんな日々を過ごしていたらついに体に出てきます.

実習の日の朝.
吐き気,頭痛,腹痛,
もうこの世の体調不良がすべて体に出てくるような辛さがありました.

それ以降,実習には行けなくなりました.

大学院と実習校の関係は対等ではなく,実習させていただくという立場.
実習校の高校のが上です.

実習校を変えることは出来ず,実習の単位は合計20単位
2年間丸ごとある.

やりたかった研究は出来ない.
先生になりたかったけれど,なれなかった.

結局なにも出来なかった.

それでもその当時は研究の闘志は燃え尽きておらず,

「大学院をやめて違う大学院に入りなおそう」
「そのためにお金が必要」
「繋ぎで教員をやって金を稼ごう」

と思いました.

それでもこの大学院1年で経験した辛い出来事は心に刻み込まれていました.

大学院を辞め,教員として仕事をしようとしてもPTSDって言うんですかね.
辛かった時のことを思い出して,何もできなくなってしまいました.

結局,こんな調子なので仕事をやる前に辞めます.
そしてうつ病になり,大学院も中退し,今の自分には何も残ってません.

数少ない自分の事を心配してくれている人からのLINEもすべて無視してしまっています.

大学からの推薦で行った手前,自分を推薦してくれた大学教授には本当に申し訳ない気持ちで押しつぶされそうです.

今じゃ虚勢を張っていたあの頃の闘志や夢すらも何も思えなくなってしまっています.

親の念願だった国立に入学した時はとにかく喜んでくれたのに,こんな結果になって本当に死にそうな気持ち.

もうこれからどうしたらいいんだろう・・・.

自分がなりたかったのは「先生」じゃなくて,「数学教員」だったんだな

学校にいい思い出なんて1つもないし,こんな俺が学校に行ったらそれは場違いなんだよなぁ


親からは教員じゃなくてもいいからバイトでもいいから働け みたいなのを毎日感じます.
もうなにもやる気が起きない.
生きるのすら辛い
寝たら辛い夢しか見ない.
寝るのが怖い.

16歳くらいからずっと教員になることを夢見ていた自分はもう何が向いてるとか何もわからない
23歳にして自分が何者なのかが全く分からない.

エリクソンの発達段階説で言えば青年期(12~18歳くらい)のアイデンティ
ティの確立とアイデンティティの混乱を23歳にしている.

そんなことを考えるとまた辛くなる…

初めての投稿でたぶんクッソ読み辛い文章だったと思います.
まさかここまで読んだ人はいないと思いますが,万が一いたらありがとうございました.



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