SATONO

私は筋ジストロフィー(ベッカー)の障害当事者だ。 当たり前だが障害当事者一人ひとりに…

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私は筋ジストロフィー(ベッカー)の障害当事者だ。 当たり前だが障害当事者一人ひとりに人生がある。今までの人生を振り返りながら、1人でも多くの方に私自身を知ってもらえたら嬉しい。

最近の記事

進学の壁。

中学3年生で望む学校生活を手に入れた私だったけど、新たな壁が立ちはだかる‼︎ それは、高校進学という壁。 みんなはどうやって高校を決めただろうか?大半はこんな理由で決めたのではないか…家から近い、学費が安い公立高校、自分の学力より少し上のレベル、などなど。 私も特に考えることもなく、多くの同級生と同じように近場の公立高校へ行くつもりだったんだけど… 現実はいっきに私をどん底へと突き落としてきた。公立高校を見学したけど、小中学校と全く異なる環境が待ち受けていたのだ。

    • 当たり前が嬉しかった。

      中学3年生になって、私は朝から帰りまでずっと通常級で過ごすことができるようになった。授業はどうしていたかと言うと… 学年が上がると教室は上の階になるが、3年生はすべてのクラスが1階となった。 体育はレポート提出という形だったが、クラスメイトと同じ場にいることができた。当時の私にとっては十分嬉しかった。 肝心の美術や音楽の授業はというと… 3階までエレベーターであがり、4階にあがるときには先生の登場だ。柔道部の顧問がおぶって連れていってくれたのだ。もちろん先生が来れないこ

      • 届け、この想い。

        悩みに悩んだ中学2年生…あるきっかけで光がみえてきた。 良くも悪くも、嫌だった連絡ノートによって学校での態度が親にばれてしまったのだ!案の定、めちゃ怒られた(笑) 『なんとかしなさいよ』と言われ、さてどうしたものか…直接話す勇気はないしなぁ〜どうしたものか、う〜ん。 そうだ!手紙にしよう! そこに私の素直な気持ちをツラツラと書き出していった。振り返ると当時の特支の先生には、申し訳なさを覚えてしまう。 最初に『あなたのことが嫌いです。』から始まった手紙には、子ども扱いし

        • 私の気持ち。

          特別支援学級にいる自分が嫌で嫌で仕方がなかった中学2年の私、それはなぜか? 大きく3つのことが思い起こされる。 まずは特支の先生から子ども扱いされている…と私は感じていたから。 特支から普通クラスに行くときに『いってらっしゃい』、帰ってきたら『おかえり』と言われていた。いま思えば小さなことだし、普通の会話だが、その時の私の気持ちはこうだ。 『なんで学校の中で言われなきゃいけないの!他の人は言われないのに!』 次に、音楽や美術の授業を普通クラスで受けることができなかったこ

        進学の壁。

          なんで。

          心の鍵がかかり始めた小学校を卒業し、自宅から徒歩3分ほどの中学校に入学した。 今回は最初から特別支援学級に所属することになった。まぁ、車いすユーザーだし、それが普通なんだろうなと特に疑問を持ってはいなかった。そのはずだった… 中学2年生の時だったろうか、思春期真っ最中だった私は心がざわつきはじめた。ある疑問が込み上げてきたのだ。 “なんで分けられる?なんで、みんなと同じクラスで過ごすことができない?” 通級で一緒に過ごしてはいたが、障害者である私と健常者であるクラスメ

          心の鍵が…。

          なんでだろう? 小学2年の時、よく給食の配膳や片付けを積極的に手伝っていた。 カッコつけていたのかもしれない、褒められたかったのかもしれない、もしくはモテたかったのか(笑) でも、やっぱり人の役に立ちたいという想いがあったんだと思う。歩行が苦手でも、自分ができることをしたかったんだと思う。 その後、筋力が衰えて重いものを運ぶことができなくなった。小学3年から教室が2階になったことで、すぐに外に行くことができなくなった。 教室内で一緒に遊んでくれるクラスメイトはいた。消

          心の鍵が…。

          ファーストライド。

          特支に所属してから約2年が経った。 小学5年生となった私は、身体に不具合がでてきていた。階段もしっかり支えてもらわないと難しくなり、次第に転ぶことが多くなってよく足をくじいていた。 そして…その時がきた。ついに手動車いすをつくることになったのだ。 初乗りの車いす、最初の気持ちは『ただただ恥ずかしい』だった。 なぜなら視線が集まるからだ。 学校では車いすユーザーは私だけ。周りからジロジロと見られるのが、とにかく嫌だったことを覚えている。 でも、時が経てばそんな気持ちも

          ファーストライド。

          小3の転機。

          あれは小学3年生のときだ。 教室が2階となって、いつものように階段をヨイショッ、ヨイショッと一段ずつ上がっていた。すると、上から別のクラスの子が下りてきた。 うる覚えだが、道を開けてもらえなかった気がする。そのままぶつかって転げ落ちてしまったのである。ランドセルを背負っていたから助かったぁー。でも、泣いたぁー。 それがきっかけで特別支援クラス(当時は養護学級)に所属することになったのである。 筋ジスは私だけだったが、初めて他の障害者と出会うことになった。知的障害、自閉症

          小3の転機。

          はじめての〇〇

          小学生となり、はじめての集団登校。 ピカピカの1年生🎶というウキウキした気持ちは全くなく、人見知りを発動していた。 はじめての上級生にド緊張…姉が一緒だったので連れていかれて、何とか校舎にたどり着いたことを覚えている。 そんな引っ込み思案な私は、授業でも積極的に手を挙げるような子ではなく、休み時間にはよく本を読んでいた気がする。 特に図鑑が好きだった。恐竜、動物、昆虫、魚など、こんな姿をした生き物がいるなんてと心が踊っていた。イッカクって何⁉︎ まだ歩けてはいたので、外

          はじめての〇〇

          こだわりと失敗。

          とにかく、よく泣く子で甘えん坊だった。 もちろん幼少期は自分の障害について、病院に通院はしていたが意味がよく分かっていない。階段を上がるのは苦手だったけど、身体は成長していくので幼稚園で元気に遊んでいたと思う。 当時、私にはこだわりがあった。 それは干支だ。私は通常であれば丑年生まれなのだが、それがなぜか嫌だった。そう、私がなりたかったのは午年だ‼︎ 一体なんのこだわりだったんだろうか?そのことで姉と喧嘩して、バカにされ、泣かされた記憶がある(笑) ある日、幼稚園帰り

          こだわりと失敗。

          私の個性。

          私は生まれつきの個性がある。 進行性筋ジストロフィー症というものだ。略して『筋ジス』、最近はメディアでも目にする機会は増えているのではないだろうか。 遺伝性があると聞くが、私以外には家族や親戚に誰もいない。私オンリーだ。つまりは突然変異、まさにニュータイプとして産まれたわけだ…と思っている。 簡単に言ってしまえば、染色体の変化のために筋肉をつくることができない。筋肉の原料になるタンパク質が血中に漏れている状態になっている。 バージョンが色々とあって、私はベッカー型で比較

          私の個性。

          私らしさ、みつけた。

          自分の役割ってなんだろうか? それをずーっと考え続けてきたのが私の人生だなと感じている。 この身体で生まれたことに、ふと苦しむことは今でもある。すべてを投げ出したいこともある。でも、この気持ちだけは自分の中に変わらずにある。 『人の役に立ちたい!』 小学生の時、七夕の短冊に書いたことを今でも覚えている。私は自分の手足で直接的に人を支えることはできない。頭が特段良いわけでもなく、革新的なことに取り組んできたわけでもない。 でも、人のために動きたい。 困っている人がいるなら

          私らしさ、みつけた。