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【短編・書簡体】少なくとも

親愛なるマリーへ

 今ここで本を読もうとして立ち止まり、本屋に行って表紙だけを何冊もダラダラと見つめ、足が疲れたからといってチェーン系列のカフェで休む。結局何もしていないやつがいる。私だ。あるいは、この世界のすべての人である。

 この日も私には予定というものがなかった。本来あるべきはずの「何か」がなかった。「何か」とは、自分がどこにいるのかということを気が付かせてくれるもののことだ。誰と一緒にいるのか、誰が私を尊敬し、私が誰を尊敬しているのか。私が目指しているのは何で、そのための道中にいるのかどうか。これらを教えてくれる、実感させてくれる「何か」である。
 去年の冬に、それは突然訪れた。それまでは、私には「何か」というものが溢れていた。「何か」とは、兎にも角にも考えずともそこにあった。毎年春になると植物園にいって、夏になればカントリーフェスティバルに赴き、秋になったらフリーマーケットを開催して冬には人を選ばずに家でパーティをした。大学の四年間はそういったことでどんどん過ぎていった。

 この春から社会人になった。別段働きたいこともなかったし、人生に目標はなかった。それなりに暮らして、それなりに稼げて、それなりに幸せになれると思っていた。というのも、「何か」を意識しないでいいという環境は、私がすでに幸せを感じているということの何よりもの証拠だったからだ。車の整備士なんて、夢を持っているやつがなる仕事じゃないんだ。

 少なくとも、大学生の間は幸せだった。そして、それは社会人になってもそう変わらないと思っていた。社会人は確かに大変だと思っていたし、責任も違うと思っていた。平凡な生活をしているほとんどの、世界のすべての人が、やっていることだと思っていた。そして、私もその一人になるだけなのだと思っていた。そして、それはしばらくはまちがいではなかった。去年の冬までは。

 カフェでコーヒーを飲みながら休んでいても、私の足は一向に休まらない。この手紙も、実はもう何度も書き直している。今日だけではない。本当は去年の冬から何度も書いては捨てていた。先月に書いたものは封までした。が、投函できなかった。切手を2枚ほど無駄にしたと思う。そんなことを急に言われても困るのは、わかっている。けれどもマリー、聴いてほしい。こんなにも長い前置きをしている理由はすぐにわかるのだから。

 レベッカのことだ。あいつと連絡が取れないと、ずっとずっと私に相談をしてくれていたね。すまない。ずっと連絡を返せずにいた。そして、先日たまたまではあったが、私はあることを知った。君が、もう、「何か」を知ってしまったらしいということだった。

 ずっと、ずっと言わなければと思っていたんだ。でも、私は、できれば知りたくなかったし君も同じなのではないかなとおもっていた。
 先日でちょうど3ヶ月だった。もう、そこには何もなかった。シニックス通りの交差点、そこに船の形をした屋根がある居酒屋があって、その目の前の電柱にはついぞ1ヶ月前までは花束がたくさん置いてあった。私はまた、そこに花を置いた。あの街を離れる一週間前になっていた。
 考えてみてほしい。私のこの数ヶ月のことを。そして許してほしい。私はもう仕事を辞めてしまった。しばらくは地元に帰りゆっくりしようと思う。私がこれからどこに行くかもわからないが、それは問題ないだろう。そもそも私はどこからきたのか、よくわかっていないのだから。ただし、私が今どこにいるのか、ということは「何か」に気がついてはっきりしたんだ。とにかく今を必死で生きないと、文字通り生きていかないといけない。生活をよくしようとか、そういうことはすべて後回しだ。

 君の人生だけは、マリー、どうかよくあってくれ。その道がまだちゃんと続いていることを願っているよ。

 さあ、読みたい本も見つからなかった。時間もきた。もうすぐで出港だ。船に乗る時間だ。地元の天気は大荒れだとニュースが流れているのが気掛かりだ。君の住んでいる街が晴れていることを願うよ。それじゃあね。返信不要。

ヴォイス港前郵便局より
愛を込めて

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