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傷は癒やすもの、そして、活かすもの

自分のことを、いい人間だと思いますか。
自分のことを、真面目な人間だと思いますか。
自分のことは、普通な人間だと思いますか。

もしも誰かに聞かれたら、大概の人はどれか一つには、「まぁ、そうです」って答えるんじゃないかと思います。

じゃあ、「自分のいいところはどこですか」。

この質問に、本気で、自信を持って堂々と答えられる人は、何人くらいいるんだろうか、と。

わたしは自分のことを、いい人間だとも真面目だとも普通だとも思えなかった。
悪い人間だとか、不真面目だとか、ユニークだと思ってたわけでもない。
地に足がついてないような、なんと答えたらいいか、本当に分からなかった。
自分は、なんなんだろうかと、空っぽで、面白みもなくて、関わる人に合わせて、演じて。

そういうことでしか、自分に価値がないと思っていたし、自分って何なんだろうか、なんで、みんなそんなに自信を持てるのか、自分を許せるのか、少しも分からなかった。

親たちに、少しも自分を見てもらえなかったことによる、「無数の傷」を抱えていて、血塗れで痛いのに、気付かずにいた。

気付いたら親を恨み、罵倒し、殴り、殺してしまうかもしれないから。

傷に気付かないふりをしたまま、それでもなんとか社会人になり、働いてきた。

そして、今。
働けている、生活に困らない程度に稼げている。
いわゆる、普通の人間ぽく、真面目な人間ぽく、会社に勤め、仕事をこなして、生きている。

一般的な大人になったわたしは、いい人間なのか。
幸せなのか。いいところは見つかって、自信を持って答えられるのか。心は満ちているのか。

答えはNOだ。

心が震えることもない。
誰かを守ることもない。
誰かを幸せにすることもない。

むしろ、わたしの見ないふりをした「傷」は、今も残り続けている。
親につけられた傷は、わたしが親に「つけさせた傷」だ。
親を受け止め、受け入れ、信じたからこそ「ついた傷」だ。

傷つけられたと、被害者だと逃げ続けていたら、その傷は「誇り」にも「勲章」にも、「活きた経験」にも、ならない。

これまでは、傷をそのままにして、信頼できる人、愛情を注いでくれる人に甘ったれて、「可哀想に思ってもらうこと」「慰めてもらうこと」「受け止めてもらうこと」に使うという、とても自分勝手な使い方をしていた。

治してしまえば、癒やしてしまえば、もう、甘ったれることはできない。

だけど、立ち上がって、傷を治した経験を、傷を負った経験を、未来に、子どもたちに役立てることができる。

「傷を引き受けた」時から、そうしたいと、そうすべきだと、本当はわかっていたはず。

今、「傷を負っている人たち」も、人の役に立てる「幸せ」を、本当は知っているはず。

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