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シェア暮らしの溝を埋めるのはルールではなく信頼関係だという話。

2020年、最初の記事。
遅ればせながら、あけましておめでとうございます。

ソーシャルな隠居の日々で思うことをつづるこのnote。
もうすぐ丸4年を迎えようとしています。

2020年もどうぞよろしくお願いいたします。


さて、過去4年でいろんな記事を書いてきました。

いままでの記事にあるように、2015年、自ら立ち上げた《住み開きの古民家「ギルドハウス十日町」》という新しい形の住まいで、わたしは「ソーシャルな隠居」という生き方を始めました。

隠居と言うと世間から隔絶される印象があるでしょうが、わたしの場合はより一層ひととのつながりが広がる、ソーシャルな隠居とうたっています。

というのも、わたしの住まいであるギルドハウス十日町は、限界集落と言って良いほどの山奥にあるにもかかわらず過去4年間で国内外から延べ8,000人以上の訪問を受けており、テレビの全国放送や雑誌・書籍などに取り上げられている、特殊な家です。

そして、常に10名前後が共同生活を営んでいます。

最近ではめでたく赤ちゃんが誕生し、ここでの生活がますます充実してきた感があります。


そんな暮らしにおいて、いろんな物事を分かち合う「シェア」という要素は、とても大きなものです。

経済的な恩恵で言えば、あくまで目安ではありますが、ギルドハウス十日町では一人あたり食費込みで1か月2万5,000円くらいで暮らせます。

(ちなみに、わたしの先月の生活費は7,183円でした)

大人数でも破格の低予算で暮らせるのは、いっしょに料理をして大家族のようにして食べるなど、いろんな物事をシェアしているからです。

みなさんの生活においても、スマホやSNSなどの普及により、シェアのもたらす恩恵は小さくないと思います。シェアリング・エコノミーなどという言葉もありますからね。


今回は、そんなシェアについての記事となります。


ギルドハウス十日町にはいろんな価値観のひとたちがやってきて、おしゃべりしたり、そのまま数日滞在したり、住んだりしています。

もちろん最初はだれもが赤の他人どうしなわけですから、トラブルが起きやすいのでは?と思われるかもしれません。

確かにトラブルがないと言えばウソになりますね。

むしろ家族同士でもトラブルがある世の中で、ないわけありませんね。


ただ、わたしにとってはわざわざトラブルと言うほどでもない程度のものばかりです。

たとえば、、、

ほかのひとより食材を食べ過ぎじゃない?とかなんとか。

ほかのひとよりガスを使い過ぎじゃない?とかなんとか。

〇〇さんだけに負担をかけ過ぎじゃない?とかなんとか。

どうして〇〇してくれないの?おかしいでしょ?とかなんとか。

そんなの言ってくれないとわからないじゃん?とかなんとか。


さて、みなさんは上記を他人事だと思っていませんか?

この世の中には、いろんな不平不満がありますよね。

それらの不平不満は大小あれど上記と似たようなものという気がします。


分かち合っているはずのシェアが、どうしてそんな不平不満を生んでしまうのでしょうか。

ギルドハウス十日町での暮らしから、その理由がなんとなく見えてきます。

つまり、シェアの溝を埋めるのも広げてしまうのも信頼関係しだいなのだと。


たとえば、みかんの話。

以前ギルドハウス十日町に来てくれたことのある知人が和歌山県で収穫のアルバイトをしたということで10kgのみかんを贈ってくれたんです。とにかくたくさん!ありがたいことです。

おかげで年末年始に「こたつにみかん」を堪能できました。

当然のことながらギルドハウス十日町に集うみんなでみかんをシェア。

ところが、これもまたトラブルの原因になります。

だれが多く食べているとかなんとか。

(なんだか微笑ましいですね)

そこで公平を期すために、こたつに出すたびに個数を制限して「ひとり1個までね」と言ったり。

そしてそのルールを誰かが破ろうものなら、一気に不平不満につながっていくわけです。


そうではなく

「今日は仕事で疲れたろうからもう1個みかんを食べなよ」

だなんて信頼関係から来る思いやりでバランスよく保たれたほうが自然な気がします。


じぶんの好きな言葉に

「分け合えば余る。奪い合えば足りなくなる」

というものがあります。

そこに信頼関係があるかどうかを表した、良い言葉だと思います。


ギルドハウス十日町のような特殊な家では、信頼関係がシェアの溝を埋めています。

もし「信頼関係とか、そもそも人間関係めんどくさいよ」と言いながらも経済的な理由などからどうしてもシェア暮らしをするのなら、交流を重んじないシェアハウスを選ぶとか。それでいてルールがしっかり決められていれば至って公平でしょう。

それでも前述の例のようにそのルールを誰かが破ろうものなら、一気に不平不満につながっていくわけですが。

もしくは、すでに信頼関係のあるひとどうし極めて少数でのシェア暮らしもいいかもしれませんね。


いずれにしても、公平を期すべく考えられたシェアというのは、いろんなルールがあるなかでのものだという事。それが悪いとは言いませんが、さまざまな物事がルールによってお膳立てされていても安心できるわけでなく残念ながら不平不満は無くなりません。


じゃあ、どうやっても不平不満がなくならないのなら。

あえて不平不満がそれぞれの成長につながるように。

ルールのない場でこそみんなが考えて行動するように。

そこから本気と本音と思いやりがしっかりと生まれるように。


生きていくために必要な出会いや成長を求めるひとたちにとって「いろいろあったけどギルドハウス十日町があって良かった」とこれからも思われるよう、シェアする時代のソーシャルな隠居の挑戦、それを続けていきたいと思います。

よかったらサポートをお願いします。もしくはギルドハウス十日町へ遊びにいらしていただければうれしいです。