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アートはもっとしどけなく、放縦であってもいいんじゃない? 第8回横浜トリエンナーレ

横浜トリエンナーレは、2011年の第4回から毎回通っている。同時代のアートの動向、もっとざっくばらんに言えばキュレーションの「気分」のようなものを、3年ごとに定点観測できるいい機会なのだ。

第8回となる今年のアーティスティック・ディレクターは、リウ・ディン(劉鼎)とキャロル・インホワ・ルー(盧迎華)の2人で、ともに中国出身。コンセプトの「野草:いま、ここで生きてる」は、魯迅の詩集『野草』(1927年)に由来するという。観る側としては、あまり深く考えず、「野草」から自由にイメージを膨らませばよさそうだ。「生命力」「荒涼」「ゼロ」「増殖」「永遠」「孤独」「無名」……など、思いつくままに挙げてみたけれど、なかなか多義的である。

足を運んだ会場は、横浜美術館、BankART KAIKO、旧第一銀行横浜支店の3か所で、いわゆる標準コース。黄金町などでのオプション・プログラムは断念した。

ここからしばらく、日本初出品となる作品(作家)から、個人的に惹かれたものをご紹介しよう。

まずは、ジョシュ・クライン(1979~/アメリカ)。弁護士と企業の管理職が透明のゴミ袋で捨てられている。AIをはじめとする技術革新によって、知的労働者が失業の危機に直面する資本主義のあり様について、クラインが疑念を抱いているのは間違いない。しかしそれと同時に、従来のエリートたちへの醒めた視線を感じさせ、どこか皮肉めいた余韻を醸している。

ジョシュ・クライン《長年の勤務に感謝(ジョアン/弁護士)》、《総仕上げ(トム/管理職)》

マシュー・ハリス(1991~/オーストラリア)の幅13メートルに及ぶ壁画は、博物館の収蔵庫の棚に並べられた箱だという。その中には、先住民アボリジニの遺品が収められている設定。欧米列強の植民地政策が生み出した諸問題を統合して浮き彫りにするとともに、ハリスが自身のアボリジニのルーツを見つめ直したものでもある。「当事者」としての切実さに身を任せるのではなく、極めて抑制的かつミニマルに表現されているのがいい。

マシュー・ハリス《忘却の彼方へ》

リタ・ジークフリート(1964~/スイス)の絵画。「ふつうの暮らしの一場面のようでいながら、日常から奇妙にずれた雰囲気」というキャプションの通りである。カラーリングは濃いめで暗く、構図はフラットな印象が強い。私はなんとなく、ポール・デルヴォーやマグリット、またはデ・キリコを想起した。ただ、具体的にデペイズマン(=通常はありえない組み合わせ)の手法は使われていないのに違和感があるという謎は、ジークフリートに独自のものだ。

リタ・ジークフリート《突破口》、《隣の家》、《ツィマーリンデ》

ジョナサン・ホロヴィッツ(1966~/アメリカ)は、報道カメラマンが撮った写真素材を大きく引き延ばして掲示した。パンデミックの只中にあった2021年、ワシントンで行われたデモをとらえたショットで、エッセンシャルワーカーとして働く非正規移民を尊重するよう訴えている場面だという。しかしながら、それほどまでに緊迫したドキュメンタリー素材であるはずなのに、なぜかクールかつエモーショナルで、NIKEあたりの挑発的な企業広告にも見えてしまった私は不謹慎なのだろうか。いやそれは、ホロヴィッツの冷徹な戦略の一環ではないかと思えるのだ。彼は、広告の世界で当たり前に確立している手法を逆手にとって、マイノリティを援護しようとしているのではないか。

写真:トム・ウィリアムズ、提供:ジョナサン・ホロヴィッツ
《食品産業従事者がナショナル・モールに集い、パンデミックの間に移民が果たした貢献を訴え、1100万人の非正規移民のためにCOVID-19と市民権の救済を議会に求める。2021年2月17日(水)》

アネタ・グシェコフスカ(1974~/ポーランド)の写真シリーズは、シンディ・シャーマンの影響下にあるようだ。娘とともに写っている母=作家は、シリコン人形に置き換えられている。実の娘をシリコン人形と戯れさせたアーティスト魂に感服(=苦笑)するしかない。さらに飼い犬には仮面を装着し、いつもどおりの行動をさせる。日常と陸続きで異世界の淵が覗いているような不気味さ。しかし、そこはかとないユーモアと表裏一体でもある。

アネタ・グシェコフスカの写真作品

展示全体を通して感じたのは、民衆・市民・有色人種・マイノリティ・弱者の側に立ったリベラルな視線の強さ。世界情勢への憂慮や権力への反発が滲む作品が多い。そういうキュレーションの姿勢は、時代の要請でもあるから当然だろう。しかし、その「善さ」や「正義」というべきものに、ある種の息苦しさを感じたのは正直に告白しておきたい。アートはもっとしどけなく、放縦であってもいいのではないか、と思ってしまうのだ。

現実世界にいかにコミットするか。そこに重きを置くことを否定するものではない。でも、例えば、香港のエクスパー・エクサーや日本の丹羽良徳は、前者は反権力、後者はナンセンスといったスタンスの違いはあれども、ゲリラ的な手法で自己表現してみせていたが、その関連物品である火炎瓶代わりの一升瓶や、道端の水たまりに口を付ける実況映像を見せられても、なかなか気持ちがシンクロできなかった。台湾のユニット「你哥影視社」が、実際に起こった工場のストライキから着想し、ワークショップとして再現したプロジェクトの「遺構」を眼前にしたところで、どこかの学園祭に入り込んだようなチープな造りに足を引っ張られ、追体験の想像力が十分に働かない。

ガラクタやゴミのイメージを強調する作品が散見されるが、それらはもの派やアサンブラージュの系統に属するので、正統な美術史の成果だとは理解できる。しかし私個人は、どこかで、グラマラスな美やキレキレのコンセプトワークに圧倒されたいという保守的な欲望から逃れられない。現代アートだってキレイでもいいじゃない?と。そこはジレンマでもある。

その点、法政大学のDNAを受け継ぎ、反原発運動やリサイクルショップ運営などを通じて、ほとんど極左と言っていいアングラ活動を続けている松本哉は、かっこつけとは真逆の貧乏臭さがいっそ潔く、単純にクスッと笑えるところもいいと思う。「おふざけ」や「にやけ」といった90年代サブカルの破壊力が継続していることに驚いた。4コママンガなんて、今では少々ノスタルジーさえ感じさせるほどシニカルだが、ここまで開き直れば痛快だ。彼と初期に行動をともにした山下陽光のリメイク古着も、人を喰った販売方法に思わず吹き出してしまう。欲しい気持ちを手紙に書いてもらい、その作文で当選者を選んでタダで譲渡し、その代わりに手紙の著作権は山下側に属することにして出版活動に使うんだってさ。おもれーな。

松本哉のグラフィティアート?
山下陽光の「バンドT」ならぬ「バンドCAP」

でもでも、そういうアングラやストリートカルチャーは、アングラやストリートカルチャーのままでいいじゃないか、なんて気持ちもある。なんでトリエンナーレにフィーチャーされるのか。それってファインアート側の収奪なんじゃないの?とかね。

さらに言うなら、松本や山下のような類いの思想は、1970年代はCRASSのようなラディカルなパンク・バンドが、もう少し時代を下って90年代ならレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンやアタリ・ティーンエイジ・ライオットのようなオルタナティヴな連中が、あくまで音楽として昇華していた。まあ彼らは少々シリアスすぎるが、90年代初頭にはガバ・テクノという楽天性に振り切った徒花もあった。今でも、例えばガザ進攻を公然と批判するポップスターやバンドマンは少なくない。やはりポップ・ミュージックはしたたかで強いのだ。松本たちに音楽をやれと言うつもりはないが、どちらのアプローチがより多くの人を駆動するか、という影響力の話をしている。ちなみに、バンドTシャツからの連想で山下が制作した「バンドキャップ」(写真上掲)は、プッシー・ガロアとPILを取り上げていて、そのあたりのニューウェイヴ/オルタナ系バンドへのシンパシーが、少し眩しかった。

ニューヨークの金融街を闊歩するひとりの人物がつまづいては倒れ、また歩き出すのを繰り返すクララ・リデン(1979~/スウェーデン)の映像の元ネタは、キャプションによると、マッシヴ・アタックの“Unfinished Sympathy”(1991)のミュージックビデオだという。金融界への風刺精神が効いていて、興味深い作りなのだが、発想一発の限界というか、ピリッとしつつもちまちましている。ベイリー・ウォルシュが監督した元のミュージックビデオ自体が、曲ともども詩情に溢れた重厚な「アート」であったことにあらためて気付かされた。それを小細工する程度でなにができるのかという疑問が拭いきれない。

クララ・リデン《地に伏して》

今やアートは、ポップ・ミュージック以外にも、映画やゲーム、アニメ、ファッション、スポーツといった多士済々がコンペティター(競争相手)である。現代アートは、偉大な先達と対峙するだけで済まない、本当に難儀な時代を迎えている。しかし、やれることはたくさん残されていて、希望を失ってしまうような状況でもない。今年の横浜トリエンナーレも、それぞれのアーティストの格闘の跡が見て取れた。3年後も楽しみにしている。

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