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Vtuber批判原則

どうしても言い分を通そうと思って一つ事だけ言っていれば、必ず勝つに決まっているのだ。 −ゲーテ

序章

 私たちは正義によって欺瞞された炎上を正義と考えてはいないだろうか。自己責任論的に、「本人が炎上の原因を作ったのだから、炎上した責任は本人に帰属する」と考えることは論理的に正しいことのように思えるが、その背後で正義という名の暴力を盾に倫理と規範が失われてはいないだろうか。

 私たちは今インターネットに生きている中で再び規範に立ち戻る必要がある。それは決してひとをむやみに制限するための規則ではなく、ほんとうの正義の崩壊を防ぐための規範である。本稿では特に「Vtuber」の炎上について取り上げるが、ここで述べる内容はそれ以外を対象としてもおおかた当てはまるであろうものである。それはインターネットに生きていくうちに見失われかけた理性の一片で、自己に不断に訴えかけられているものの、それを感受する能力が衰えたがために存在しないかのようにされているものである。私は今、「Vtuber」について書く、と述べたが、そのためにはまず「Vtuber」とはどのような存在であるのか、そしてそれが私たちとどのようにつながっているのかについて考察せざるをえない。それは「批判原則」という主題から逸れた議論のように思えるが、本題における立脚点のようなものであるから、省くわけにはいかない(前提などどうでもいい、という者は章「批判原則」だけでも読んでほしい)。

 ところで、本稿を取り上げて、「お気持ち表明」や「擁護」と非難する者がいるかもしれない。前者について私は否定するつもりはない。そもそもこのような形式の文章はすべて避け難く「お気持ち表明」の形式を取るのである。むろん、論理的な形式を取るような文章は書くつもりだが、逆に、「お気持ち表明」ではない主張はどのようなものか彼らに問いたい。しかし、「擁護」と言われることは心外である。なぜなら、本稿の目的は批判における一般的な規範の確立であって、誰か特定の人物の騒動について、その是非について云々言うものではないからである。「擁護」と言って本稿を非難する人物は、きっと私が本稿で問題とする批判の仕方をしている人物だろうと私は考えざるをえない。ひとは身に覚えのあることを批判されるとあとさきを考えずに否定したがる生きものだから。


バーチャルな存在論

 Vtuberはアニメやゲームと同じ、いわゆる「コンテンツ産業」や「オタク文化」の一つと見なされているが、(コンテンツとしての)Vtuberはアニメと何が違うのだろうか。普通に考えられることとして、Vtuberの背後にはひとが存在するということが挙げられる。

 いずれ別稿で書くつもりだが、私のアニメについての哲学はいわゆる「キャラクター」を作者から独立した存在としてみなすが、それと比べてもVtuberは独立の強度が強い。つまり、私たちはVtuberを私たちと同次元に存在し、相互につながることができるということが自明である存在として捉える。つまり責任を負いうる主体であることが理解されており(私はこのことについては異議を挟まない)、このことが炎上の根底にある。

 ここまで述べた中で私たち、いわゆる「オタク」とVtuber(配信者の意)との関係性において特筆すべき事項がある。それは「相互につながることができる」と述べた部分についてである。それは裏から語れば一方的ではないということで、さらに言葉を変えれば、呼びかけに対する応答が相互に可能だということである。アニメにおいては批判は(全体あるいは総合としての)作品そのものに向けられる(私のアニメについての哲学ではこれを不正とみなすが)。しかしVtuberに関しては、本人そのものに批判が向けられるはずである。後者は、一般人あるいは(芸能人などの)有名人における炎上の体系を持っている。つまり私たちはVtuber文化をコンテンツ産業の一部としてみなしつつ、それに対して批判を行うときには一般人に対してとる態度を用いる。ここに認識と行動との隔絶が生じているようだが、しかしこれは相互につながった関係性から導出される方式であり、誤っていない。私たちとVtuberは相互に対話可能な存在であるから、本人に批判を伝えようとするのである。むしろ、このつながりを理解しない者(それはVtuber文化に通じていない者か私たちとVtuberとの関係性についてなど考察したことのない者だろう)は、この存在の前提を無視した批判を行い、これこそが問題とされる批判であるのである。


争いとレトリック

 本稿執筆開始の数日前に起こった(そしてそれが本稿執筆の契機となった)あるVtuberの炎上騒動では(この騒動に限らないが)、「糾弾者」対「擁護者」の図式が存在したように思われた。ここでこの対決の図式の具体を見てみたい。

 一応言っておくが、ここでの「糾弾者」と「擁護者」という名付けは、それぞれをもう片方から見たときにされるであろう名付けである。だから、「自分たちはそのような主張をしているが、糾弾者もしくは擁護者ではない」と私に言う必要はない。

 糾弾者は自分たちは純粋にVtuberの過ちを責めていると考える。一方擁護者は、糾弾者の非難はその実Vtuberの共同体全体の非難に跳躍しており、誤っているという主張をする。これに対して糾弾者は、知らない人からすれば個は全体に還元されうる存在で、自分たちがそのような主張に結びつくのは当然であり、擁護者は論点のすり替えを行なっている、と述べている。もちろん、これ以外の主張もあったが、どちらの側においても取るに足らない主張であったり、完全に論点を見誤っているものと思われたので省略する。リンクを貼るのはどうかとも思うが、下にいわゆる「伸びた」ツイートでそれぞれの主張を大まかに述べている者たちのツイートを掲載する(Twitter利用規約によれば「ユーザーは、当社や他の利用者に対し、ご自身のツイートを世界中で閲覧可能とすることを承認することになります」とあるので、ここで私が以下のツイートを引用することは規約上認められているが、掲載を取り止めて欲しい方は一声かけていただきたい)。また以下には言葉の悪いというか、読んでいてどうしようもなく悲しくなるツイートもあるので、それを避けたい方は次章「不正」まで飛ばしてほしい。本章の以下には当該ツイートの掲載しかない。

糾弾者の主張の例

擁護者の主張の例


不正

注)以下で述べる文は特別な言及がない限り、上で引用した個々のツイートに対するものではなく、あくまで「糾弾者」と「擁護者」のそれぞれの全体としての主張に対して述べるものである。

 このようにみてみると、第一の議論は「Vtuber個人における炎上を用いてVtuber全体を非難することは正しいか」のように思われる。まずはこれについて語る必要があろう。率直に言おう。答えは否、個人の炎上を用いて全体を云々することは明らかな不正である。

 前章で述べたことをもう一度思い出してほしい。私たちは、Vtuberと私たちでは「呼びかけに対する応答が相互に可能だ」ということについて了承した。そうであるならば、主張は応答可能な他者に対して語りかけるべきで、それを全体に還元することは許されない。これに関連して、レヴィナスは「全体化と概観を宿命的にまぬがれえない思考に抗して、全体性を断ち切る空所が維持されうるのは、カテゴリーに対して抵抗する〈他者〉の面前[原文では「面前」に傍点が打たれている]で思考が展開される場合だけである」と述べている。レヴィナスによれば〈他〉は自己と無限に隔てられており、〈同〉に還元されえない存在で、その全体化あるいはカテゴリー化は許されない行為である。そのような無限のかなたにある〈他者〉を全体性に組み込むことが、第二次世界大戦を引き起こした要因であり、差別 discriminationの引き金となる。

 その意味で、以下のツイートは非常に的を得ている。このツイートで言及されている二つの命題はただの「真理の逆」では語り切れないほどの大きな隔たりを含んでいる。


批判原則

 では、上記で私が述べた考えに従って、何か間違ったことをしたVtubeにはそのひと個人に対してならば無制限にその罪を責めることができるのであろうか? もちろん否。その批判に対して一定の制限というか規範を用いなければ、それが不幸をもたらすことは誰の目にも明らかだろう(しかし、この一見自明に避けられるべきことを嬉々として行う者がいるという事実は特筆に値する)。

 まず第一に、「批判には目的がなければならない」。糾弾者は、そもそもなぜ自分たちはこれらを炎上させようとしているのかについて不断に自己に問い続けなければならない。例えば、Vtuberの過ちによって誰かが傷ついたから? では炎上させることでそのひとは傷ついたことから癒えるのだろうか。同じ過ちを繰り返させないようにするため? ではしつこく何度も新着ツイートをわざわざ訪ねて問題を再提起する必要はあるのだろうか? これらついての答えは人それぞれだろうからここで私の意見を述べることはしない。ただし、批判の理由が「炎上したら面白そうだから」や「よく分からないが有名人を叩いたら楽しそうだから」になっては決していけない。何かをするとき、その理由の中心に他者の幸福を願うことが最適であることは一般に認められるだろう。自己中心的に批判をすることは、それはもはや批判ではない。暴言とでも呼ばれるべきものである。

 思うにVtuberの、そして有名人の炎上に際して発せられる批判──ではなく暴言──の多くの根底には上の後者、「面白そう」や「楽しそう」というあるべき姿から外れた理由があると思う。そして彼らの言い分は決まって、「そのVtuberは悪いことをしたのだから私が責めることは正しい」なのである。これは正義を盾にとって、批判を装った暴言を正当化し、自己満足を得る口実になるものである。だから、炎上に際してみられる(そしてくだんのVtuberの炎上案件に際してもみられた)暴言の多くは、本章で述べている批判のあるべき姿から逸脱している。私たちは批判をする前に、まず最初に、それは必要で合目的的な批判かを考えなくてはならない。

 第二に、「批判は正当でなければならない」。詭弁を用いて批判と偽ることはもちろん、不必要な批判は前で述べたとおり避けられなければならない。また、たんに「○○はクズ」と断定している命題はその論理の隙間が埋まっておらず、正当な批判とはいえない。なぜそう言い切れるのか。誰が何をして、何が問題で、それがどのような影響をもたらすからクズなのか。少なくとも理由が説明されていると他者から認められる程度には語らなくてはいけない。

 第三に、「批判によってひとを傷つけてはいけない」。そもそも批判とは反定立である。そしてその意義は弁証法的に高次のものを生み出すための原動力となることにある。だから、批判によって誰かが傷つくことはあってはならない。その誰かとは、批判を受けた本人、批判を受ける者の周囲、そして第三者までを含む。批判される本人を、ただ批判されるべき存在としてみなしてはいけない。そのようにみなしたとき、批判によって批判される本人は傷つくだろう。常に批判は内省を促すものでなくてはならない。批判は批判の先を見据えてなされるべきものである。


自問と倫理

 ある創作サイトにおける、サイト利用の原則が私がここまでで述べてきた批判原則のまとめとなる箴言であったので、ここに記載する。

Don't be a dick.
(嫌なヤツにならない)                        引用元

 我々は批判をするときに、その批判(と思っているもの)によって自分が「嫌なヤツ」だと思われないか、問う必要がある。それが私が述べてきた批判原則を確認する最適な方法であると思うのである。

 私は今のインターネット文化に「許しの文化」がないことは極めて興味深いことだと思っている。つまり、何か過ちを犯した者を、インターネット共同体の善さを高めようと正しい方向に導こうとし、反省を受け入れ、そのひとを暖かく抱擁するような優しさが失われていると感じる。過ちを犯した人を徹底的に糾弾し、それを是とする風潮は、心の貧しさの一面ではないだろうか。私は、インターネット共同体の中の理性を信じる。それがまだわずかでも残っているということを。その理性と倫理の片鱗を優しく育てていくこと、そのことが批判原則を広く確立する手段であり、逆に、批判原則を心がけることでその片鱗が育っていくのではないだろうか。

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