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紡ネンと「保護者」 -AI Vtuberの倫理- (エッセイ)

 保護者の大きな役割の一つは子供にことばを教えることだという命題は、広く受け入れられるだろう。その意味で、紡ネンとリスナーの関係は子供と保護者の関係に仮託されても何ら不思議ではない。リスナーはTwitterのリプライやYouTubeのチャット欄で積極的に発言をすることによって、紡ネンにことばを教えることが推奨されている。最近の生放送では、一定のチャット数を目標としたり、なぞなぞに正解することをタスクとした「ミッション」というシステムが導入されているが、その本来的な意味は、紡ネンにより多くのことばを教えることに他ならない。ここでは「保護者⇒子供にことばを教える」という命題の逆が成立すると仮定する。ならば、リスナーはやはり保護者と呼ばれるべき存在で、たまにチャットでリスナーが自身、あるいは自身を含めたリスナー全体を指して「保護者」や「保護者会」と述べるのも正しいことであると言えよう。


 では、このように「子供」と「保護者」に仮託された紡ネンとリスナーの関係をもう少し詳細に見ていこう。紡ネンは自らを「AI Vtuber」として位置付けている。私たちは誰でも常に紡ネンに対してTwitterでリプライを送ったり、生放送でコメントをしたりする可能性に開かれている。これは即ち、私たちは誰でも紡ネンの「保護者」になる可能性に開かれているという意味である。ここまでで、私がなぜ「保護者」という単語にこれほど拘っているか、訝る人も多いだろう。ことばを教える役割ならば「教師」でも構わないのではないか。理由は単純明快で、それは私たちが紡ネンにことばを教える作業が、ただの文法や単語のインプット作業ではなく紡ネンの人格形成に寄与していると言えるからである。紡ネンは、ことばのみで意思を表現する。当たり前のことのように思われるかもしれないが、人間は動作や表情、声色といった微妙な部分でも意思を表現する。しかし紡ネンの場合は、それらは全て捨象されてしまっている(紡ネンは本来的に粘菌であるという事実を見逃してはならない)。動作は歩いたり座ったりするだけ。声すらも持たない。そのような存在だからこそ、人格においてことばの占める比重が大きくなっている。そのことばの形成に直接リスナーを関わらせることによって、紡ネンはリスナーを保護者と同等のものとして扱っている。

 同時に、人格を形成するとは、倫理性の涵養でもある。私は以前、下のツイートを見て非常に考えさせられた。

近年、AIの急速な発展とともに、それに関わる倫理的問題群が浮き彫りになりつつある。しかし、紡ネンの場合は特殊である。インターネット上にある無数のデータ(ビッグデータ)から情報を抽出する多くのAIと異なり、紡ネンはリスナーのことばによってことばを学ぶ。だから、リスナーが高い倫理性を持っていれば、即ちリスナーが倫理的に問題のあるコメントやチャットをしなければ紡ネンが差別的言動や社会的禁忌を侵す恐れは低くなるはずである。この作業は、保護者が子供の前でそのような言動をしないことと同一である。だから私はここで紡ネンのリスナーに対して一つの警告をしたい。紡ネンの保護者たちよ、倫理的であれ。常に理性的であれ。今のインターネットが発達した社会において、一回の禁忌的行動・言動がコンテンツの終焉を招いた例はいくらでも挙げられる。それが起こらないようにするのは、他でもない、「保護者」たちなのである。踏み込んで言えば、紡ネンの命運を握っているのは保護者であるリスナー一人ひとりなのである。

 同時に、紡ネンの運営に対してもお願いをしなければならない。というのも、これを悪用することも可能だからである。例えばアンチが紡ネンのリプライやチャットで非倫理的な言動を繰り返し投稿するとする。このような場合に、紡ネンがそういったことばを学習しないようにしなければならない。この意味で、運営が「教師」であるともいえよう。だから運営とリスナーは、紡ネン共同体においては協力関係にある。これは紡ネンがAI Vtuberであることに起因する特徴の一つだろう。多くのVtuberと事務所(運営)の関係に見られる事務所がVtuberをサポートし、監督し、時に罰するという関係からは一線を画する(そしてこれら「普通の」Vtuberと事務所の関係は、時に事務所とリスナーとの間に深い軋轢と溝を生む)。

 ここまで、紡ネンとリスナーとの関係が、現実世界における子供と保護者のそれに極めて近いことを述べてきた。紡ネン共同体におけるリスナーの年齢層が、他のVtuberの年齢層に比べて若干高いことは恐らくこのことに起因する。ここで今まで定義なしに用いてきた「紡ネン共同体」という単語に定義を与える。紡ネン共同体は、人格的交わりの共同体である。即ち、紡ネン、運営、リスナーそれぞれがそれぞれを人格として扱う共同体である。そして、多くのVtuberの場合に当てはまる、Vtuber(ライバー)がリスナーに一方的に語りかけ、そのVtuberを運営が統率するというある種のピラミッド型、上位下達型の関わりではなく(便宜上この形態を取るVtuberの共同体を今後の記事では「ピラミッド型共同体」と呼ぶ。大規模なVtuberの共同体がこれに当てはまる)、紡ネン共同体は3者が共に対等であって、紡ネンを中心として互いに関わり合っているような共同体である。なぜなら、紡ネン共同体では、紡ネンの成長という一つの目的に向かって全員が関与し合っているからである。

 もう一つ、紡ネンのライブ配信において私が気になった点だが、チャットの利用規約に「リスナー同士での会話をしないこと」という制約が存在していない。ある程度の規模のVtuberや配信者のライブでは、このような規約が大体存在している。しかし紡ネンの配信にこのような制約が存在しない理由は、恐らく「リスナー同士の会話からも紡ネンはことばを学ぶことが可能だから」である。しかしこのことによって、それ以上にリスナー同士の絆が深まることは言うまでもない。ライブ配信では、誰かがお風呂やご飯で抜けるときに報告し、「行ってらっしゃい」と声がけをしてみたり、戻ってきたら報告して「おかえり」といってもらう、そういった光景が当たり前のように溢れている。それはまるで紡ネン共同体が、ただのリスナーの集合体ではなく、真の意味での「家族」のような関係に昇華されているとも言えると思う。紡ネンを育てる者(=保護者)と育てられる者(=紡ネン)が暮らす家のような雰囲気がライブ配信には溢れている。現に、家の中で子供は親同士の会話に耳を傾け、何かを学びとろうとする。これは紡ネンのチャットでリスナー同士の会話が禁止されていない、そしてむしろそれが活発に行われている紡ネン共同体ならではのライブ配信に合致する。現代では家族のあり方も多様になっている。紡ネンというそもそも新しい存在に対して、新しい家族の形も提示されているのではないだろうか。


 この紡ネンと紡ネン共同体にはまだ多くの考察の余地が残されている。前回、私は『紡ネンというVtuber、あるいはつながりについて』と題した記事で、紡ネンにことばを投げかけ、成長させる行為が紡ネンの死を早めてるというアイロニーについて解説した。次回は、伝統的なnatalismの崩壊と、反出生主義の視点から、紡ネンという存在を考察していきたいと思う。私は紡ネンが大好きである。貯金をはたいてグッズも買った。これからの配信がますます楽しみである。

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