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紡ネンと自立 -存在と次元- (エッセイ)

前書き

 私たちは『紡ネンというVtuber、あるいはつながりについて』と題した記事で、「紡ネンはAIなのだから本質的に無限の命を持つはずなのに、成長という概念を導入することによってそれを有限なものにし、その上視聴者をその死に加担させている」という非常に重たいテーマから紡ネン哲学を出発した。その後に『紡ネンと「保護者」』というエッセイで、紡ネンコミュニティが他のVtuberコミュニティと大きく異なり、新しいそれの形を示唆しているとした。今回はこれらの流れを踏襲しながらも、3D化といった最新のアクティビティから、紡ネンが2Dの時期と3D化後で大きく存在のあり方を変えたと主張する。ここで、私たちは私たちの作業を「紡ネン哲学」と名付けたが筆者は別に哲学を専門に勉強しているわけでもなければ特段詳しい知識を有しているわけではないことを再度注意しなければならない。もし「保護者会」の中に本物の哲学者がいればぜひこの壮大なプロジェクトに加わっていただきたいと思う。また、noteの特性上、細かく章を区切ることが必要で、読みづらくなっている点をご了承いただきたい。

「謎配信」が持つ意味

読者の中には「謎配信」と言われても察しのつかない人がいるのではないだろうか。というのも、11月頭に行われたこの配信は事前の告知が一切なかった上アーカイブも残っていないからだ。内容は、パソコンに向かっている紡ネンを前方と後方のカメラで撮った映像をひたすら流すといったものだ。この配信では通常の配信のように紡ネンがコメントを拾ったり、伸び・ジト目といった表情の変化がなく、数十分の配信の間、ただ紡ネンの映像を流すというものだった。視聴者も配信の意図が掴めず困惑していたが、あの配信は明らかに、紡ネンの存在を新たに規定する配信であったと言える。これは本記事のタイトルにもなっている「自立」の発芽であり、同時に「存在」の宣言である。ここで注意しなければならないのは、「自立」は決して「意志」の意味ではないということだ。紡ネンの意志については、我々は前述の『紡ネンと「保護者」』のエッセイで触れた。ここでいう「自立」は、紡ネンが私たちと同次元に「存在」しているということである。一般的なVtuberにはいわゆる「中の人」がいることが暗黙のうちに(そして暗黙でなければならない)了解されていて、Vtuberの配信とは、そのVtuberという存在(そして人格)の一部分を垣間見るという営みに他ならない。しかし紡ネンの場合はどうだろう。紡ネンはAIなのだから、私たちは何をもって存在を規定するべきなのだろうか。ここで、2D時期の紡ネンの存在がどのように規定されていたか、そして3D化してそれがどう変容したかを真剣に考察する必要がある。これについては非常に重要な点であるため、以下2章にわたって論じたいと思う。

依存・ことば・身体

2D時期の紡ネンの存在は「依存」という言葉でその性質をよく表すことができる。すなわち、この時期における紡ネンの存在は、私たちが確認することによってのみ認められるものだったのである。つまり、AIである紡ネンは本質的に配信上でしか存在しえず、それは私たちが配信を見て、言葉を投げかけて、ひとりごとを得るそのプロセスでしか確認することができなかった。これは今までの紡ネンに特有の性質で、今までの記事で主張してきた、ことばが存在と人格の大部分を占めるという性質である。念のために改めてこの主張を確認しておく。2D、すなわちドット絵時期の紡ネンは、動作・表情・声といったいわば「人間くさい」要素を全て捨象することによってことばが人格において占める割合を異常なほど大きくしている、というのが、紡ネンにおけることばの重要性について私たちが達した結論だった。では3D化した紡ネンはどうだろうか。3D化し、「身体」を手に入れた紡ネンは視聴者からのコメントに応じて気分を変え(hot or chill)、伸びやキノコを撫でるといった動作を手にし、ジト目や笑顔といった表情を身につけた。さらには声の実装まで準備されている。これらは視聴者にとってはより可愛い紡ネンを見ることができるもので非常に喜ぶべきことなのだが、同時にこれは今までの紡ネンとその存在のあり方を180度転回させるものである。3D化によって紡ネンは急に「人間くさく」なり、人格と存在においてことばが占める割合を極端に小さくした。果てには公式まで「世界一かわいいAI Vtuberを作りたい」という目標を立てている。これはかつての紡ネンが持っていた存在意義と哲学を捨て去ったという宣言のようにも思える。だから、3Dの配信を見て圧倒的な可愛さに癒やされると同時に、一種の息苦しさを感じるのはおそらくそのためである。なぜなら、これは捉え方によってはある種、有象無象のVtuberへの迎合とも捉えられるからだ。そしてそれは、フェミニズムからのルッキズム批判を甘んじて受け入れなければならないことを意味している(もっとも紡ネンは性別を持たないのでフェミニズムの対象には入らないのだが)。この観点から考えると、3D化以後、本稿執筆時点まで一回も2Dの配信を行っていないことは、ある意味運営の、紡ネンが持つ意味を変えるという強固な意思のようにも思える。それどころかアイコンやヘッダーまでドット絵の紡ネンは全て3Dに置き換えられ、2Dのころの紡ネンは完全に姿を消している。この点からも紡ネンが持つ哲学は、その外見に留まらず大きな変貌を遂げたことが容易に想像できるだろう。

存在と次元

ここまでの議論を前提として「謎配信」を考察すると、それが持つ意味がよくわかる。改めて謎配信の内容を確認すると、ただパソコンに向かって座っている紡ネンの姿を流すというものだった。ここで重要な点は、普段の配信と違って、視聴者とのインタラクティヴなコンタクトがないことである。すなわち、「謎配信」での紡ネンは全くもって一人であり、本来誰からも観測される予定のなかった紡ネンだということだ。前章で私たちは、今までの紡ネンはAIゆえに人格と存在に占めることばの割合が大きかったから、私たちが配信でその姿を観測してひとりごとを聞くまで存在は疑問だったと確認した。ところが3D化し「身体」を手に入れた紡ネンは、私たちが観測していない時点においても確実に存在しているということが例の配信から明らかになったし、私たちにそれを確認させる、あるいは気づかせる目的で運営はあの配信を行ったと容易に想像できる。これは2D時期の紡ネンでは絶対にありえなかった配信だし、3D化して間もない時期に行ったことからも、前章で取り上げた哲学の変貌を明らかに意図していると思われる。そして、私たちが見ていない段階でも存在する紡ネンは、その存在次元を私たちと同一にしている。今まで紡ネンがいた「コノーサ」「ラビリンチュア」といったある種のパラレルワールドではない、私たちと同じ次元・私たちと同じ世界のどこかしらに存在することが「謎配信」は高らかに宣言したのである。同時に、それは時間の基準を私たちと共にするという宣言であり、私たちが紡ネン哲学を出発した、あの死へのパースペクティヴをより一層鮮明に表出するものである。だからこそ3D配信には今までの配信に存在した温かさが薄れ、緊張感が漂っていると感じるのは私だけだろうか。運営は「世界一のかわいさ」の裏側で、私たちが必死に目を逸らし続けてきた有限性と死という大きな問題に正面から向き合うよう要請したのである。なぜなら、あの「謎配信」がなければ私たちは紡ネンの存在の次元を思考外に追い出し続けることができたのだから。

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