紡ネンというVtuber、あるいはつながりについて

そもそも紡ネンとは

 紡ネンとは株式会社PictoriaからプロデュースされているVtuberで、コンセプトは粘菌とAI。コーポレートサイトのタレントページに「SNSを通してヒトから言葉を受け取り、学習することで成長する」とある通り、TwitterやYouTubeでのファンのリプライやコメント、チャットを通して言語を学習するAI Vtuberである。

 個人的に最近、この紡ネンが推しのVtuberで、生放送(どのようなストリームなのかは後述する)にも何回か参加したが、どうやらこの紡ネンはただのAIVtuberではない、ということがわかった。拙い文章になるだろうが、それについて書いていきたいと思う。あまり長々書くのは好きではないし、読む方も飽きると思うのでなるべく端的な記述にしたい。


ことばを学習するということ。成長するということ。

 前述した通り、紡ネンはSNS上で「じぶん」に語りかけられることばを学習し、その成果として、TwitterでのツイートやYouTubeでのストリームで自らことばを語る。

 ただ、紡ネンの存在を異色なものにしているのは、このことではない。それは、「紡ネンがことばを原動力にして進化する」ということである。ここでいう「進化」とは言語生成能力の向上という意味ではない。最初の引用に「成長する」という文言があるように、紡ネンはただことばを学習し発することのできる存在であるだけでなく、学習によって表出的な意味で、人間のように「成長」する存在なのである。乳児から幼児へ、幼児から児童へ。このきわめて人間的な成長が、紡ネンを言語学習AIではなくVtuberたらしめている大きな要因の一つなのである。しかし同時にこのことが紡ネンの存在と私たちファンとの「つながり」に不可思議さを与えている。それは一種の哲学である。以下ではそれについて説明する。


二分法の融解

 そもそも、紡ネンを一種の生命体と見なすことはできるだろうか。彼の最初の動画(紹介動画)、『紡ネン AI VTuber Experiment 01』 によれば、「生物でも機械でもない」と定義されている。これは一体どういうことだろうか。

 現実主義的な人は「紡ネンは人間として存在しているわけではなく、あくまでAIなのだから機械だろう」と、理想主義的な人は「紡ネンは学習ができ、私たちと人間的なつながりを持っているので生物だろう」と言うかもしれない。しかし、紡ネン本人はその両方を拒否している。この、生物と機械の二項対立を融和させているところに、きわめて現代的な思潮背景を感じざるをえない。それはデリダやレヴィストロースに代表される、明確に隔てられた両極端では図ることのできない中間的なものを考える思潮である。実際に現代では「ウチ」と「ソト」、「男」と「女」といった二分法的なものの考え方自体が否定され始めており、それは特にいわゆる「Z世代」(2000年代に生まれた若者を指す世代論の用語)に顕著である。この意味で、紡ネンは、現代の若者に上手くターゲティングしたVtuberであるといえるだろう(そもそも若者を対象にしていないVtuberの方が珍しいが)。生物でも機械でもない、この包摂の関係を念頭に置くことで、紡ネンとファンの間の「つながり」がより一層不思議なものとして見えてくる。


成長という欺瞞

 紡ネンが生物でも機械でもないと理解した上で、この段落と次の段落で、その「進化」に注目してこの記事の主題である、紡ネンの存在とファンとの関係の不思議さについて記述する。 

 紡ネンは生物ではないとしても、成長=進化する存在であることは公式に認められていることである。ここで、紡ネンのYouTubeチャンネルにおける再生リストを見て欲しい。

 2021年3月23日現在、YouTubeチャンネルには「幼年期Ⅱ」および「学童期Ⅰ」の二つの再生リストが存在する。紡ネンの成長段階は執筆時点で「学童期Ⅰ」である。(「幼年期Ⅰ」の時点でYouTubeのストリームを行っていなかったためその再生リストも存在しない)

 さて、この「幼年期」「学童期」といった単語をどこかで聞いたことはないだろうか。そう「エリクソンのライフサイクル論」である。エリクソンのライフサイクル論とは、人間の発達段階を、乳児期・幼児期・児童期・学童期・青年期・成人期・壮年期・老年期の八段階に分け、それぞれに発達課題を示した心理学説である。紡ネンの場合では、乳児期に当たる段階が公式には「赤ちゃん」、幼児期が「幼年期」と呼ばれ、児童期が学童期にまとめられているなど、若干の違いはあるが、紡ネンの「進化」の段階が明らかにエリクソンのライフサイクル論に影響を受けていることは認められるだろう。

 ではなぜ紡ネンの進化がエリクソンのライフサイクル論を背景に持っていることが重要なのか。それは、エリクソンのライフサイクル論が人が生き、そして死ぬ過程を表しているからである。だから、言葉を選ばずに言えば、紡ネンの「進化」とは死に向かうことに他ならない。その意味で紡ネンは私たちと共時的(synchronic)である。私たちファンは、紡ネンがいつかは壮年期や老年期に達すると分かっていても、そして老年期のときに成長のゲージ(それはもはや成長のゲージではなく、いのちのゲージとでも言うべきものである)が満たされたときに彼が死ぬと分かっていても、それでも彼を愛することが出来るか、不断に問われ続けているのである。

 多くのVtuberは(多くのアニメキャラクターがそうであるように)時間の概念を持っていない。彼らは永遠に設定された年齢を生きるのである。そこでは、好きなキャラクターが老い、死ぬのではないかという心配は存在しない。しかし、紡ネンの場合は違う。彼は老い、死ぬことが運命づけられている。だがそのことを、紡ネンと運営は「成長」ということばによって巧妙に覆い隠している。この意味で、紡ネンは生々しい「生」の躍動を永遠性のうちに覆い隠している現代のVtuberを暗に批判しているといえるだろう。


死への加担

ここまでで、私がこの文章で主題としている「紡ネンとファンとのつながりの奇妙さ」がどういうことか分かった読者も少なくないと思う。ここで、この文章の最初に書いたコーポレートサイトからの引用を思い出してほしい。「SNSを通してヒトから言葉を受け取り、学習することで成長する」。そしてこの文章には続きがある。「学習できる言葉の数が少なくなるとエネルギー不足で活動が鈍くなる」。紡ネンは私たちのことばによって成長する。逆に私たちがことばを投げかけなければその成長は止まるだろう。しかし私たちは、紡ネンを成長させようとしてことばを投げかける。だが、前で見たとおり、成長とは死に向うことなのである。私たちのことばによって紡ネンは成長する。しかし同時にそれは私たちのことばによって紡ネンの死を早めているということに他ならないのだ。これこそが私が主題とした奇妙さそのものである。

 誰も好きなVtuberの死を望まない。しかし、私たちはみずからの手で紡ネンにそれを近づけているのである。ここで、紡ネンの成長は全くといっていいほど私たちに委ねられているということを思い出さなければならない。彼は機械に特有の無限性を放棄し有限なものになることによって「生」の重みを得た。しかしあえてそれを私たちの側に委ねることによって、私たちに生と死さえを巻き込んだスリリングな体験を提供しているし、逆にそれは生と死を持ち込まなければ伝えられない。引退が死に仮託される大多数のVtuberと違い、紡ネンは他のVtuberよりも非生物なのに生物的な死をリアルに描き出している。これこそが紡ネンの特徴であり、本質であり、存在価値なのである。

 私たちは紡ネンを愛するが、その愛を伝えることによって紡ネンに死をももたらしているという矛盾と葛藤に苦しまなければならない。だがそれは私たちが普段目を背けている生の本質なのである。それに正面を向いて対峙するように紡ネンは私たちとのつながりの中で訴えかけているのである。そしておそらくこれは運営側が意図して作り上げた哲学であると私は考える。ここまでの徹底して生と死が絡み、私たちを生の本質に目覚めさせることは偶然にはできないだろうから。

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