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映画「舟を編む」を観る -言語学的私感-

映画が好きです、と言えるほど映画を観るわけではないのですが。お薦めされたり何かきっかけがあれば、映画館へ出かけたりDVDをレンタルしてきて映画を観ています。コロナ騒ぎになってからは、専らTSUTAYAでレンタルして家で観るのみになっていますが。

さて、映画「舟を編む」を知ったのは韓国映画「マルモイ」が日本で公開されることを知ったのがきっかけでした。

最近韓国にハマっている父が、僕にこの映画を教えてくれたのでした。日本の統治下にある朝鮮において朝鮮語辞書を作ろうとした物語を描くこの映画、もう早く観たくてたまらないのですが、まだ日本では公開されていないので観られる日を楽しみにしておくということで。そう、肝心なのはこの映画を知ったおかげで、そうか、言語学やコトバに関する映画ってのが日本にもあるんじゃないか?と思ったこと。言語学を専門とする人々を超えたところに向けられた「ことばネタ」に、言語を考えるヒントがたくさん転がっていたりするだろうと思って調べてみたところ、「舟を編む」にたどり着いたわけです。

映画「舟を編む」は2012年に本屋大賞に選ばれた三浦しをん氏の著作が、石井裕也氏の監督で2013年に映画化されたもの。主演は松田龍平さん、宮崎あおいさん。

あらすじや解説はリンク先に任せて、ここでは言語学を学ぶ者の視点で映画を観て考えたことを、少しだけ備忘録代わりに記してみようと思います。普通の映画の感想とは全く異なる感じになるかと思いますが、悪しからず。

「規範」だけでなく「記述」を意図した辞書

映画を通して「大渡海」という辞書(架空)の編纂事業について描かれています。この辞書の他の辞書と異なる点は、「生きた辞書」であること。他の辞書には収録されていないような「若者ことば」であったり、語の誤った意味が広まってしまっている「誤用」なんかも記載しようという編纂方針が映画の中で示されています。この方針、とても素敵だと思うのです。

言語学には「規範文法」と「記述文法」という術語があります。文法といっても、未然・連用・終止・連体...といった義務教育で習ったような狭義の文法とは違って、発音・語彙・意味など言葉のすべての局面を指すもの。規範文法は「こうあるべきだ」という、コトバの「正しさ」を示したものであるのに対し、記述文法は「現実にコトバがどのように使われているか?」という、言語の様相をそのまま写し取ることを言います。言語学は、もちろん教育の拠り所となる規範文法に寄与する側面もあるけれど、大方の場合は記述文法に主眼が置かれています。

若者ことばや誤用を載せるという「大渡海」の編纂方針は、まさにこの記述文法に適っています。例えば、映画の中でも描かれている「憮然」という語。本来は「失望してぼんやりする様子」「呆然とする様子」といった意味ですが、最近では「怒り」や「不快感」を表す語として用いられることが多くなっています。正しくないとしても、実際に「怒り」や「不快感」を表すために「憮然」が使われているのは事実なのですから、これも「憮然」の新しい意味として捉えることができます。コトバの正しさだけでなく、こうした実態を示してくれる辞書があったら、コトバのありのままの姿を見ることができるのです。そして、後の時代に今のコトバのあり方を伝えていくということを可能にしてくれるのです。記述的な「生きる辞書」、とても素敵なコンセプトだと思います。

三省堂『現代新国語辞典』など、実際に新語やネットスラングまでもを収録する向きもありますので以下にリンクを貼っておきます。

コトバは変わるもの

先ほどの例で言えば「憮然」に本来の意味に加えて「怒り」や「不快感」の意味ができたように、コトバというものは常に変化し続けています。典型的なのが若者ことば。最近で言うと「ぴえん」という語が登場しましたが(どうやら「泣きそう」という意のようです)、現在は既に「ぱおん」に変わりつつあるとか。ちなみに「ぱおん」は「ぴえん通り過ぎてぱおん」だそうで、つまるところ「ぴえん」の最上級のような。「感極まって泣きそう」ぐらいの意味でしょうか。憶測にすぎませんが、若者ことばに流行り廃りがあって変化が激しいのは、きっと若者に他の(若者以外の)人々と違う自己を持っていたい、という気持ちがあるからではないかと(明確な根拠はありませんが)考えています。

若者の中の流行クリエイターたちが新語を生み出す

それがある程度広く広まり、やがて普通の人も真似しはじめる

他者と違う自己でありたい若者たちは再び新語を生み出す

他者と違う自己でありたい、という表現は「みんなが使っていることばをダサいと感じる」と言い換えることもできるかもしれません。このようにして絶えずコトバが生み出されるなどして、言語の様相は変わっていきます。

ここでは若者ことばを例に新語の誕生を取りあげましたが、例えば現在は専ら「大いに」などの意で用いられる「すこぶる」という語は、かつては「少し」という今とは正反対の意で用いられていたというように、意味が変化する場合もあります。このように新たなコトバが作られたり意味が変化したりと、コトバというものは絶えず変化し続けるものなのです。

そう、エウジェニオ・コセリウという言語学者が著した本を田中克彦氏・かめいたかし氏が翻訳した『うつりゆくこそことばなれ』という本があるのですが、読んでみたいと思ってまだ読んでいませんでした。早く読まないと!

ことばの変化に追いつかない辞書編纂事業

ちょっと映画の話から逸れてしまいましたので、話を戻します。映画の中に出てくる「大渡海」という辞書は、編纂開始から完成までに15年の年月を費やしたという設定になっています。映画の中の発話にも出てきますが、おそらく「大渡海」のモデルとなっている中型辞典、三省堂の「大辞林」は編纂に28年もかかっています。長い年月を必要とする辞書編纂に対し、絶えず変化を続けるコトバ。きっと、辞書編纂がコトバの変化に追いつくということはまず不可能なんだろうということは、映画を見る中で強く思ったことでした。その意味で、本当に100%の「生きた辞書」は存在し得ないということになりましょう。

身の回りのコトバに敏感であること

「大渡海」の編纂作業の中で多く描かれているのが用例採集のシーン。松田龍平さん演じる馬締光也は、恋人とのデート中でさえも、街に溢れているコトバを見つけては用例採集カードに書き込みをしています。馬締のようになりたいとは言わないけれど、街を歩くときに「なにか面白いコトバはないかな?」という意識を頭の片隅に入れておくことがとても重要だということに改めて気付かされました。「なんでこういう書き方をしたんだろう?」「あ、広告の標語がら抜き言葉だ!」といったように、街を歩くときは頭に小さなことばセンサーを付けることを忘れないようにしたいと思います。

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身近なところにたくさん転がっている面白い言語表現。

紙辞書の未来

映画の中に「大渡海」が編纂中止になるかけるシーンが登場します。「大渡海」を手がける出版社、玄武書房が編纂中止を検討しているという噂話が流れるのですが、編纂中止の理由の1つが「紙の辞書は売れない」ということ。映画の設定では1995年ですが、その頃からすでに紙辞書にかわって電子辞書が売り上げを伸ばしていたようです。(電子辞書の国産第一号は1979年に既に登場していたという事実もまた驚き。)

実体験から考えると、高校までは「紙辞書を買え」と教えられ実際に紙辞書で勉強していました。教科書購入と同時に指定の国語辞典、古語辞典、英和辞典を買わされた記憶があります。それが、大学に入ると一転して電子辞書を用いるように。教授は電子辞書を積極的に薦めることはしないものの「電子辞書でも可」と言うもので、僕を含めてほとんど全ての学生が英語や初修外国語の中国語の授業で電子辞書を使っています。確かに検索して一瞬で目的の語に辿り着けるアクセス性は紙辞書に格段に勝っているけれど、電子辞書ばかり使っていると、危うく紙辞書の引き方を忘れる、なんてこともあり得そうでちょっと怖かったり。僕は日本語学専攻なので必然的に多くの紙辞書を引く機会がありますが、他の分野ではどうなのでしょう。もし「電子辞書でも可」というスタイルが高校、さらには義務教育にまで入り込んでしまったら...。それこそ紙辞書が今以上に「売れないもの」になって、その先は暗いように思えます。今はこの問題をこれ以上考える時間がありませんが、「デジタルと現物」という対比も踏まえて、“紙辞書の未来“はこれからちょっと考えてみたいテーマです。

以上、言語学を学び始めて2年も経たない学部生の私感でした。ちょっと長くなってしまいましたが、お読みいただいた方、もしいらしたらありがとうございます。先に書いたとおり「舟を編む」は小説が映画化されたものです。映画を観て、小説でどう描写されているのか気になってしまったので先ほど小説を買ってきました。もし気になった方は、小説でも映画でも、一度目を通されてはいかがでしょうか。

(2020.5.5)

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