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言葉が気持ちを作る

岡田憲治『言葉が足りないとサルになる』(亜紀書房, 2010年)

ちょっと言い過ぎだと思われそうなタイトルである。本文も情熱的で、少々主観的にすぎる感があるが、それは「豊かな言葉とたくさんのおしゃべりこそが、これからの日本を救う」という筆者の主張の、筆者自身による実践に他ならない。そして読んだ者に、肯定であれ、否定であれ、言葉を使って本の内容についての自分の考え・意見を形成・表明しなければならないと思わせるほどの熱量の現われである。(先に「他ならない」と言ったが、それは強調のための表現であり、本当に「それ以外にない」「異論を認めない」という私の意志表示ではない。念のため。)

本書では、少なくとも言語を用いて何かを表現している人は少なからず感じているであろうこと、そして敷かれた道をなぞって大学まで来てしまった学生であったとしても「学んで」いる以上、しっかりと問題意識を持ち、考えなければならないことが提起されている。本書が僕自身の「なんとなく考えていながら沈黙していたこと」に言葉を与えてくれた点は様々あるが、ここでは、Ⅲ-1「言葉が気持ちを作る」という部分について書いてみたい。
岡田氏は、内田樹氏の考えを紹介しながら、感情を言葉にするのではなく、その順番は逆で、「言葉」が人間の心や認識を「形成させる」のだという点を強調している。

私たちは、ある言葉を使用するときに、しかも頻繁にそれを使用するときに、そういう言葉の選択をする「心理的な根拠」があるはずだと思い込んでいます。ある感情を「所有している」から「それに応じた言葉を使う」という順番です。ところが内田氏は若いころ「愛している」という言葉を濫用している自分を省みて、その心の底にある(だろうと思う)言葉の根拠探してみたら、そこは空洞だったと言っています。だから感情の所有が言葉の選択に先行するというのはおかしな話で、そうではなくて「愛している」という言葉を口にすると、発話者の身体はその言葉に呼応するように変化していって、フィードバックされて、甘い、優しい気持ちになるという順番であって、じつは内田氏はそうした言葉の効能を愛していたのだということです。(pp.109-110)

こうした議論を、岡田氏は「言葉には、自分の中にすでに存在しているいろいろな感情を形容するのではなく、その言葉を口にするまではそこになかったものを「創造する」役割があるのだというのが内田氏のお話です。」(p.110)とまとめている。

言語学の学説としては「サピア・ウォーフの仮説」が言語が人間の認識を形成するということを主張している。「言葉が認識を作る」のだとしたら「言葉がなければ認識は生まれない」のであり、認識生成のプロセスは必ず言語体系との関わりの中で説明されなければならないということになる。しかし現実に全ての認識生成を言語体系と絡めて説明するのは難しく、それの点がサピア・ウォーフの「仮説」たる所以であるが、「言葉がなければ認識は生まれない」か否かは一旦おいておくことにしても、言葉に『認識を形成する「という一側面」』があることは、僕自身の経験から考えても納得できるものである。

認識を形成するというよりは、認識をより強固にする、認識に形を与える、自分の中でもぼんやりとしか見えていなかった認識を顕在化させる、と言ったほうが、今の時点の僕の考えとしてはより的確かもしれない。例えば、飲みの席で好きな女性芸能人を1人ずつ挙げていく流れになり(嫌な飲み会だな)、なんとなく可愛いなと思っていたアイドルの名前を挙げて「俺、○○推し」と言ってみたら、それ以来本当にそのアイドルのことが好きになって、彼女が掲載されている雑誌をチェックしたり、出演している番組をすべて録画するようになったというような話である(この話がフィクションかどうかはご想像にお任せします)。
つまるところ、自分の中にぼんやりとした感覚としてあったものを、思い切って言葉にしてみることで、それがより強固な自分の認識となり、意志となり、「気持ち」が自分のものとなる、というプロセスである。

1年半ほど前、大学2年前期の授業のレポートに、これと関わるテーマについて書いていたので、ここにそれを引用してみたい。設問は「あなたにとって、「ことば」はどのように大切か。自由に述べなさい。」というものである。

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 「ことば」とはどのように大切か、という問いに対しては「ことばがないとコミュニケーションができないから」「気持ちを伝えられないから」といった、言語の外言的な側面(「外言」とは、自分とその外側の人とをつなぐ言語の機能のこと)に注目した答が一般的かもしれない。そして、この講義を受講した学生は言語の内言的(「内言」とは、自己の内部における、思考のための言語のこと)な側面についても学んでいるので、「ことばがないと思考できないから」という答の重要性の認識は皆が持つところであると思われる。しかし、内言と外言は相互に関係し合うものであり、どちらか一方のみを考えるだけでは不足なことは明らかである。よって、ここでは内言と外言の別を超えて、また違った視点から私にとっての「ことば」の大切さを考えたい。
 何らかの特徴を持つ集団(例えば年齢、性別、地域、職業など)に特有の言葉を位相語という。例えば警察官は犯人のことを「ホシ」と呼び、寿司屋はお茶のことを「アガリ」と呼ぶ。他にも、男性は自らの呼称として「オレ」を用い、女性は「わたし」を用いるといった例も位相語に含めることができよう。こうした位相語を用いることには、どのような機能があるのだろうか。1つには、警察官の例のように外部への情報流出防止の観点から「隠語」としての役割を果たす、つまるところ外部とのコミュニケーションを阻止するための手段として用いられるという機能が考えられよう。しかし私は、位相語を声にして発することで、話者自身にその語を用いる集団への帰属意識が生まれ、自己同一性が実感を伴って認識される点に、位相語が果たす大きな役割があると考える。ここで単に「位相語を用いて」と言わず、「位相語を声にして発する」という言い方をしたのには理由がある。それは、心の中で思考するだけでなく、声に出して言葉を顕在化させ、人に伝えるというプロセスを経ることが帰属意識や自己同一性の認識に大きく影響することを強調したかったからである。例えば、「鉄道ファン」という集団の間では列車が運休になることを「ウヤ」と呼ぶが、このような用語を用いて頭の中で思考だけをするよりも、用語を用いて人と会話したほうが、話者本人に「鉄道ファン」という集団への帰属意識が生まれやすく、「自分は鉄道が好きである」という自己同一性が実感を伴って認識されやすいであろう。それは、思考することよりも会話することのほうが、言葉が顕在化されるという意味で実体を伴っているからであると考えられる。また、年齢による位相の例では、近ごろ若者(特に女子高生や女子大生)の間で使われる「エモい」(エモーショナルの意)や「好きピ」(好きなpeopleの意)などの位相語を用いて会話することで、話者自身に「女子高生」という集団への帰属意識が生まれるとともに、「自分はおばさんではなく女子高生である」という自己同一性がより実感を伴って認識されるといった例が挙げられる。やはり、自己同一性がより実感を伴って認識されるのは、位相語を発話するという言葉の顕在化による部分が大きいと考えられる。この位相語の例のように、ある言葉を声にして顕在化させることで、話者自身に自己同一性がより強く認識されるということが、「ことば」の非常に重要な機能であると私には思われる。
 ここまでは位相語に限って話を進めてきたが、言葉を顕在化させることで自己同一性を認識するのは、位相語に限ったことではない。私には、心の中で少し考えていたことを人に向かって話すと、それがより強固な自分の考えとして改めて認識されるという経験が少なからずある。ここでいう自分の考えとは、ある事柄に対する価値判断や持論であることもあるが、自分の好みなど、より身近なことである場合もある。例えばある男子が女子を見て「あの子、自分のタイプかもしれない」と思っていたとする。その時はそう思うにとどまっていたが、友達に向かって「オレ、あの子がタイプなんだよね」と発話することで、それまでは「タイプかもしれない」と思っていたのが、「あの子のことが好きである」という、より強固な自分の感情として認識される。この例のように、私自身も言葉を声に発することで、少なからず自分を発見し、自己同一性を認識してきた。
このように、ある言葉を発話して顕在化させることで、自己同一性がより強く認識され、「自分とは何か」という問いに対する回答が見えてくるという点で、私にとって「ことば」は大切なものである。発話するなどして言葉を顕在化させる行為が言語の外言的な側面である一方、自己同一性がより強く認識されることなどは認知に関わる言語の内言的な側面に分類できるので、以上述べてきたことは内言・外言の別を超えた「ことば」役割の1つであると考えることができよう。

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1年半前の自分も説明に用いる例に同じようなことを書いているのはおいておくとして(笑)、言葉が認識を形成するということは、より多くの言葉を用いて考え、紡いで、それを表出させるというプロセスによって、自己同一性が強く認識され、「自分とは何か」という問いへの1つの答えが浮かび上がってくるのである。

自分とは何か、人生において最大の問いでありながら、特定の形を持たないこの問いに、「現時点での」という一時的なものではあるが、答えを与えるためには、やはり言葉を紡ぐしかないのである。逆に言えば、多くの言葉を紡ぐことをしなければ(言葉が足りなければ)、自分の何者であるかを知り得ないまま、そしてそれを考えようともせずに生きることになる。それはサル同然であり、さらに「言葉を使おうと思えば使える環境にいるのに使わない」のであれば、もしかしたらサル以下なのかもしれない。


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