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父の書斎にて

久しぶりに国木田独歩の『武蔵野』が読みたくなって、父の書斎に行った。書斎と言っても屋根裏の物置の中に机が置いてある程度のもので、映画やドラマで出てくるようなお洒落な書斎とはイメージがかけ離れている。壁一面の本棚にはぎっしりと本が入れられていて、そこに入りきらなかった本たちは床に山積みにされている。ホコリっぽい部屋なので滅多に出入りしないが、今回のように特別な用事があるときだけ部屋に入ると本の量に圧倒される。

人の本棚を見ると、その人がどんな人間かということの一端が分かるような気がする。どんなことに興味を持っているのか、どんなことを考えているのか。読んでいる本だけで人格を決めつけるわけにはいかないけど、なんとなく、あまり自分から語ることのない、そして普段一緒に生活していたとしても完全に見えていない、隠れた部分が本棚には現れているような気がする。

改めて父の本棚を見ると、そこには息子である僕も興味があること、僕も読みたいと思うような本ばかりが並んでいた。僕を育てた父なのだから、父が興味を持つことに必然的に多く触れるような環境で僕は育っている。そう考えれば父の本棚の本に同じく興味をもつのは当たり前と言えば当たり前なのかもしれないが、それでもびっくりするくらいに多くの本が僕の興味に一致している。小説が少なめで、評論や人文科学・自然科学書など、ジャンルでいうなら「ノンフィクション」の本が多い傾向も僕と同じだ。僕が大学で学んでいる言語に関する本もいくつかあったりする。

父の本棚を見て、僕が思っていた以上に父から影響を受けていることを、そしてこの父の息子であることを、再確認した。

国木田独歩を探しに来たことを忘れて、そうしてしばらく本棚を眺めていた。リウマチに関する本があるのは、リウマチで亡くなった祖母(父の母)のためだろう。自分の母の病気のことを本を読んで知ろうとしていたんだな、と思うと少しだけ胸が熱くなる。本棚の隅に並んでいる山岳ガイドは、母と結婚する前に行ったと(確か)言っていたハイキングのために買ったものだろうか。本棚からはいろいろな想像が広がる。

そして書斎に溢れんばかりの本の数に、自分はまだまだ学びがたりないな、と感じる。僕より父の方が倍以上の時間を生きてきているから、僕と比較して父の読んだ本の数が多いのは当たり前だけど、仮に父と僕の年の差の分だけ本を減らしても、父の読書量に僕は追いついていない気がする。量だけがすべてではないけど、そう感じるのは、自分が「まだこれ以上読める」「まだまだ学びに余力がある」と思っていることを反映しているのだろう。

せっかくだから一冊借りていこうと思い、しかし小説や評論は松本の下宿に大量に積ん読されているので、『中島みゆき全歌集』を手に取った。今ではJ-POPと呼ばれるような日本の歌謡に父が興味をもっているような素振りは見たことがなかったので、本棚にこの本があることに驚いた。

その歌集の序文として書かれている「詞を書かせるもの」と題された部分に、こう書いてあった。

これらの詞は、すでに私のものではない。
何故ならばその一語一語は、読まれた途端にその持つ意味がすでに読み手の解釈する、解釈できる、解釈したいetc・・・・・・意味へととって代わられるのだから。
「語」は、コミュニケーションの手段でありつつ、それ自体が人類の共通項でもなければ審判でもない。したがって、これらの詞はすでに私のものではない。――という言い方もできる。ところが同じ理由によって次のような言い方もできてしまう。
したがって、これらの詞は、ついに私一人のものでしかない・・・・・・と。
はたまた、次のような言い方も。
したがって、これらの詞は、私のものでさえもない・・・・・・。

歌集には1975年のデビューから1986年までに発表された曲の歌詞が収められていて、この序文は1986年、全歌集が刊行される際に書かれたものであるので、中島みゆき本人による、自らが詞を書いてきたことへの内省として見ることができるだろう。1つの形をもった存在だけど、ある一方で私一人のものでしかなくて、また一方では私のものでさえもない、詞。言語が人から人へ伝わる間に、実に複雑なプロセスがあること。そのことを踏まえた上で言語を操り、それを多くの人に届かせている中島みゆきは実に格好良いと思う。

つい話がそれてしまった。かつてこの序文を読んだであろう父は、この文章をどう捉えただろうか。父も一応物を書く仕事をしているので、言語表現については考えるところがあるだろう。しかし、息子でありながら父からそんな話を聞いたことはなかった。どんなイメージでそれを捉えているのだろうか。いつか聞いてみたい。そんなことを思いながら書斎のある屋根裏からリビングへと戻った。

そんなふうに考えていた矢先、持ってきた歌集を見て父が言った。

「そんなのあったんだ。お母さんが買ったやつだね。」

え? 買ったのお父さんじゃないの? 
父が読んだものだと思って序文を読んでいた一瞬前の僕がどこかへ飛んでいく。そして風呂から上がってきた母が言う。

「え、私そんなの買わないよ。友達に中島みゆきファンがいたから多分その人から貰ったんだね」

父じゃなくて母が買った本ならまだしも、2人とも違うんかい。
一瞬にしてフリとオチが効いた話になってしまった。そういえば肝心の国木田も見つかっていない。それでも、久しぶりに父の書斎に行って、見たことのない父の姿も見えたし、自分の読書量が父に遠く及ばないことも感じられた。本棚に隠された父と対峙すると同時に、自分自身とも対峙することができて、ちょっと良い時間を過ごすことができた気がする。今年は去年よりも多く本を読もうと思う。

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