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学問浴と学問

 自分は大学に来るべきではなかったと研究室の友達が言っていた。頭のいい人たちの話を一方的に聞くのはとても楽しいけれど、レポートとかゼミとかで「自分で考える」ことは好きじゃない、ということらしい。仲の良い友達だったが、そうなんだね~とお茶を濁しつつ、俺はそうは思わないなあ、とこぼさずにはいられなかった。高校までのように一方的に知識を得るより、自分で考える大学の方が数倍、数百倍も面白く感じる。敷かれた道をなぞるようにして大学に来たけれど、彼の話を聴くと僕は来るべくして大学にやってきたのかもしれない。

彼の話をきいて、受身的に知識を得ることと、それを受けて自分で考えることの違いに改めて気づかされた。自分で考えずに一方的に学術的な話を聴く、言わば「学問浴」のような授業だって、大学にもいくつかある。教授の話を聴いて、簡単な感想を書いていれば単位が出る、というようなもの。そういう授業はラクであるのは間違いないけれど、それを面白がっているだけでは大学にいる意味が無いのではないかなあ、と思ったりする。
「○○という考え方がこれまで知らなかったので新鮮でした」
「高校で習ったことが間違っていたという説明に驚きました」
ラクな授業のリアクションペーパーには、きっとこういう感想の定型文みたいなのが溢れているであろうことが容易に想像される。それを誇らしげに「前回のリアクションペーパーに書かれていたこと」として次の授業で紹介する教授もどうかと思うのだけど。

「学問浴」をすることと、「学問」をすることは、別である。

大学は「学問」をする場であり、その意味で、大学での「学び」は知識を獲得するという意味にとどまらない。(論理的)思考力を学ぶ、ひいては問題設定の方法を学ぶというところまで含めて「学ぶ」ところ、それが大学だと僕は思っている。ゼミの発表で時間に追われるのは正直つらいし、目の前にあるデータの上手な説明の仕方が思いつかない時間は相当苦しいけれど、そうした時間も含めて「自分で考える」ことは、総じて面白いと思う。予め決められた答えがないからこそ、そこに”自分なりの見方”を付け加えられるわけだし、その”自分なりの見方”を他人と共有することができた時の喜びは、自分で考えることをしない限り得られないだろう。

このよう「考えること」を強調しておきながら、一方では大学で「学問」をして得たものを、僕自身、大学の外で活かすことができていないと感じることも多い。典型なのが文章を書いているとき。特にこのnoteを書いているときだ。上手く書けないというか、何が伝えたいのか分からない文章になることが多い。noteを読むのであっても、自分以外の書いた人の文章はとても面白いものが多いが、自分が書いた文章は面白くないものが多い。

面白くて中身のある文章を書けるかどうか、それは日常の中に「問い」を持っているか、そしてそれを考えているか、というところに拠る部分が大きいように思う。自分が見たもの、聞いたことにつけて、自分なりの問いを立てて、それを考えているか。大学では「学問」をしているのに、それが大学の中だけにとどまって、日常の中に「問い」を持っていないから、自分が面白いと思えるような文章が書けないのだろう。読書をするときも、それこそ「学問浴」をして「学問」をしていないから、書評も書けないし、内容があまり頭に残らない。僕が書きがちなのは「感じたこと」で、「考えたこと」ではないというか。その意味では、僕のつまらないnoteはラクな授業のリアクションペーパーみたいなものかもしれない。稀に書ける「考えたこと」の記事に支えられて、細々と、間隔をあけながらも、こうして書くことをどうにか続けている。

だから、もっと日頃から「問い」をもって、そして考えてみよう。研究室の友達が発した何気ないひと言が、そう思わせてくれたのだった。

(2020.12.1)

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