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手を動かすことの、カタルシス的効果

 私が4歳くらいの頃の話だが、まだまだ小さい私の手がエアピアノを奏でたらしい。

母が「バンリちゃん、ピアノ弾きたいの?」と聞き、私がそれに「うん」と元気よく答えたそうな。

親バカな父が、月給の10倍くらいするピアノをローンで買ってくれたらしい。

当時の私がそのプライスを知っていたら、全力で止めに入ったかもしれないが、そんなことはつゆ知らず、届いたピアノをまるでおもちゃのごとく弾き倒した。

私には兄がいて、兄は「トランペットを習いたい」と言っていたらしく、母があちこちのツテを頼ってはみたが先生と巡り合えることはなく、結果的にトランペットを買うに至らず。大人になってから、「あの時に先生がいなくても、とりあえず買ってあげれば良かった」と母はかなり後悔していたな。

それは、没頭できる何かを持っていることが、本人を救うことがあると後になって分かったからだ。

ちなみに兄はその後、音楽以外の趣味をたくさん見つけてそれに没頭をしていて、吹奏楽部に入部することもなかった。だから母がそれほど後悔する必要もないとは思っていたし、兄から不満を聞かされたこともない。

思春期になると、ご多聞に漏れず私のメンタルもガサガサイライラしていたらしく(本人はあまり分かっていない)、そのイライラをいつもピアノにぶつけていたようで、その音を聞いていた母が、「学校でなんかあったん?」とよく聞いてきた。

母「ピアノの音で、何かあったんやなっていうのは分かる。もう全部音に出てるわ(笑)。」

とも言われた。

ところが。

確かに学校から帰ってきて手も洗わずピアノの前で鍵盤をバンバンと叩いているうちに、段々とピアノを弾くことに熱中するあまり、なんとなく体の奥に固まっていたはずの何かの存在を忘れてしまうようになり、数時間弾いているうちに、「あれ、今日なんか嫌なことがあった気がするけれど、何やったか忘れてもうたわ、アハハ」みたいな心境になることが多々あった。

私は、身長が高い割には手指が短く、生徒を音大に入れることを至上命題にしていたピアノの先生に、ことごとくそのことを指摘され続けていたので、ピアノを仕事にすることなど最初から考えていなかった。

私にとってのピアノは、単なる趣味の一つにしかすぎなかったのだけど、そのおかげで私はグレなかったんじゃないかと思うこともある。

思春期に限らず、外界と関わる度にイライラさせられることは多々あったはずなのに、それがあまり怨念のように固まっていかなかったのは、ピアノのおかげだと今でも思っている。脳内や体内に蓄積していったネガティブな何かの塊が、その都度都度解消されていったのだと私は理解している。

その後、ピアノを弾くことは一切なくなってしまったのだが、その時その時に何らかの没頭できることがあって、それに集中することで細かい悩みや辛い気持ちを溶かせていけたのだと思う。

それは、「ストレス解消の手段を持っている」という言葉で置き換えできな何かであった。心の中にどんどんと絡まり大きくなりつつある、様々な糸でできた塊が、一本一本をほどくことなく、ただただその存在を溶かしてくれるような出来事であった。

そしてその多くの場合、それは物理的に手を動かす作業であることが多かった。

本を読んでも、映画を見ても、音楽を聞いても、絶叫しても、誰かに優しい言葉で慰めてもらっても癒せない何かは、手作業を無心で行うことで溶かすことができるのかもしれない。

脳内での複雑な判断を必要としない単純な反復作業であったり、(他者から見てどうかは関係なく)自分にとってはそれほど難しくはない作業を淡々とこなしているうちに、自分の存在そのものを忘れるほど没頭してしまった後に、「溶けた」という感覚を得たりする。

それがすなわち、カタルシス(精神の浄化)なんじゃないかと個人的に思っている。

親戚の中に、ある朝突然に配偶者を亡くしてしまった人がいる。早朝に畑を見に行くと言って出かけた後ろ姿が、最後の姿であったらしい。彼女には同居する息子夫婦がいたが、それで寂しさが癒せるわけではない。

「毎日ね。とにかく畑に出るの。そこでいつも思いっきり泣いて。家族には見せられんからね。そこで雑草をとって、もうずっと何時間でも作業をしているうちに忘れるんよ。不思議とね、辛いこととかを忘れて、ただ必死に草取りしてる。畑がなかったら、自分はどうなっていたかわからん。」

お気持ち、分かるかも………..。

屋上テラスで作業をしていると、そういう状況になることが多々ある。特に土づくりをしていて、乾いた土を延々とフルイにかける作業をしていると、時間があっという間に流れる。ハーブを大量に収穫して、それを茎と葉に分けてみたり。枝付きの枝豆を一つずつ外すような作業も同じだ。子供でもできるようなつまらない作業かもしれないが、大人になると意外にそういった時間はとれない。そして時計を見ながら、そんな単純作業に費やした時間を見て「この時間で何ができたか」と考えちゃったりもするのだが、その結果、心が軽くなったりすることもある。ならばその作業は私にとってプライスレスであろう。

ガーデニングや楽器の演奏以外にも、キッチンで食器を手洗いしている時にそれを感じる人もいるし、プラモデルを組み立てることで浄化される心もある。

もし現在、心の中に得体の知れない何かが絡まっているように感じていて、ストレス解消になりそうなものを試しても結果が芳しくないなら、とにかく手を使った作業に没頭してみるのもいいんじゃないかと思う。

ところで、心理療法の現場では長らく箱庭療法が使われてきた。小さな箱の中に砂で地形を作り、そこに自由にモノを配置していく作業を通して、脳内のゴチャゴチャが整理されていくのだろう。が、その目的よりも、単に手を動かす作業に没頭することが、カタルシスなんじゃないかと思ったりもする。

クラフト作業に性差があると言いたくはないが、女性の場合には、手作業による趣味(料理や編み物、ジュエリー制作やフラワーアレンジメント)などを持つ人が多いので、もしかするとそういうカタルシスの手段を持っている人は、外で若者に悪態つく必要がないのかも。悪態ついてる人に高齢オッサンが顕著なのは、たまり溜まった心の澱を溶かす手段を持たない男性が多いのかも知れない。

ということで、自分が容易に没頭できる手作業を、いくつか準備しておくといいのかも。一人暮らしでも機嫌よく過ごすには、手作業大事ね。

何も思いつかない場合は、枝付き枝豆(束)を買ってきて枝から外しとるといいよ。終わったら塩ゆでして冷えたビールと一緒にいただけば気分最高かもよw


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