読書のすすめ〜アダム・スミス『道徳感情論』〜のつづき

自分の持っている一つひとつの能力が、他人の持つ同様の能力を判断する尺度となるのである。私は、他人の見え方を自分の見え方で、聞こえ方を自分の聞こえ方で、理性を自分の理性で、怒りを自分の怒りで、愛情を自分の愛情で判断する。そのほかに判断する方法を持っていないし、持つこともできない。

アダム・スミス『道徳感情論』(日経BP社)

 アダム・スミス『道徳感情論』(日経BP社)の紹介の続きです。

 本記事と前の記事では、『道徳感情論』の村井章子訳の日経BPクラシックスからの引用をいくつか載せていますが、朗読したくなるような美しく味わい深い文章だと思います。英語の原文は著作権が切れており無料で読めるので、比較して読んでみるのも楽しいと思います。日本語訳は、本記事でも引用している村井章子訳の日経BPクラシックスがおすすめです。

想像上の中立な観察者

 アダム・スミスは中立な観察者の視点でどこまでも真摯に人と向き合おうとする非常にフェアな哲学者という印象です。

 アダム・スミスは古代ギリシャの哲学者に高い敬意を表しています。『道徳感情論』の第7部では、プラトンやアリストテレスを取り上げており、特にプラトンについては以下のように述べています。

プラトンの言う正義には、あらゆる種類の徳性が完全な形で包含されている。

アダム・スミス『道徳感情論』(日経BP社)

一方で、新生児殺しについて、以下のように、ギリシャの哲学者でさえ間引きに疑問を抱かなかったという人間の共感や想像力の限界を認識し、慣習と流行によって是認の感情が左右されることの恐ろしさを指摘しています。

たとえばアリストテレスは、行政官はこれを奨励すべきだと述べている。慈悲深いプラトンも同意見だった。プラトンの著作はどれも人類愛に満ちているように見えるにもかかわらず、この慣行を非難した形跡はどこにも見受けられない。これほど残酷で非人道的行為でさえ慣習によって容認されるなら、慣習の力で正当化できないほど汚らわしい慣行がまずないことは、容易に想像がつく。

アダム・スミス『道徳感情論』(日経BP社)

その中でも可能な限り中立であろうとしたからこそ、あえて主張は控えめな文章を書いているのではないかと思います。ギリシャ哲学の問答法のような諭す哲学とも違う、アダム・スミスは自分自身が唯一の正しい答えを持っていると思っておらず、当時の慣習も疑いながら、公正な正義とは何かを追究しようとしていたように思えます。

 ジョン・ロールズは公正としての正義を無知のヴェールという言葉で説明します。

公正としての正義において、伝統的な社会契約説においける自然状態に対応するものが、平等な原初状態である。

ジョン・ロールズ『正義論』(紀伊國屋書店)

この状況の本質的特徴のひとつに、誰も社会における自分の境遇、階級上の地位や社会的身分について知らないばかりでなく、もって生まれた資産や能力、知性、体力その他の分配・分布においてどれほどの運・不運をこうむっているかについても知っていないというものがある。さらに、契約当事者たちは各人の善の構想やおのおのに特有の心理的な性向も知らない、という前提も加えよう。正義の諸原理は無知のヴェールに覆われた状態のままで選択される。諸原理を選択するにあたって、自然本性的な偶然性や社会状況による偶発性の違いが結果的にある人を有利にしたり不利にしたりすることがなくなる、という条件がこれによって確保される。全員が同じような状況におかれており、特定個人の状況を優遇する諸原理を誰も策定できないがゆえに、正義の諸原理が公正な合意もしくは交渉の結果もたらされる。原初状態という情況(すなわち、全当事者の相互関係が対称性を有していること)が与えられるならば、こうした初期状態は道徳的人格であるすべての個人にとって公正なものとなる。ここで道徳的人格というのは、自分自身の諸目的を有しかつ(さらなる想定として)正義の感覚を発揮できる合理的な存在者のことである。原初状態とは適切な契約の出発点をなす現状であって、そこで到達された基本合意は公正なものとなる、と言ってもよかろう。これが「公正としての正義」という名称のふさわしさを説明してくれる。

ジョン・ロールズ『正義論』(紀伊國屋書店)

 『道徳感情論』の序文でアマルティア・センはスミスのアプローチに比べて、ロールズの中立性は、到達範囲が限られているといいます。

ロールズが『正義論』の中で示した「正義の原理」は、完全に正しい制度を選ぶことを目的とする。このような思想の伝統は、真っ向からスミスと対立する。スミスが力を注いだのは単なる制度や措置ではなくて実現であり、超越ではなく比較だった。ロールズ派の理論では「完全に正しい制度とはどのようなものか」を問うのに対し、スミス流のアプローチでは「どうすれば正義は促進されるか」を問うのである。

アダム・スミス『道徳感情論』(日経BP社)

スミス流のアプローチと社会契約アプローチで重要な対立点の一つは、公正や正義に必要な中立性をどのように確保するかという点である。スミスの思考実験では、「中立な観察者」という装置が提案された。この中立な観察者は、共同体の外から来てもまったくかまわないし、中からでもいい。対照的に社会契約アプローチが容認するのは、契約が成立した政治制度の中にいる人々の視点に限られる。ロールズは自身が「反省的均衡」と呼ぶものについて距離を置いた視点も考えうるとしたものの、「公正としての正義」の理論において検討されるのは、いわゆる原初状態が観察される社会の中の人々の視点だけである。この意味で、ロールズと社会契約アプローチが求める中立性は「閉じている」と言えよう。言い換えれば、契約当事者(またはその「代表者」)に限定されている。これに対してスミスの中立な観察者は、開かれた中立性につながるものだ。

アダム・スミス『道徳感情論』(日経BP社)

 ざっくりいうと「相手の立場になって考えよう」というとき、ロールズが「社会における自分の境遇、階級上の地位や社会的身分」及び「各人の善の構想やおのおのに特有の心理的な性向も知らない」と仮定し、ある意味、個々人の価値観の違いを無視しているのに対して、アダム・スミスは、以下のように、人間の一人ひとりの違いも、人間の合理的判断の限界も踏まえて、中立性を捉えようとしています。

あなたが、あなたが困っているときに友人がお金を貸してくれたら、友人が困ったときにも貸してあげるべきだろうか。いくら貸すべきだろうか、いつ貸すべきだろうか。それに、いつまで貸してあげるべきだろう。こうしてみれば、どの問いにも正確な答えを出せるような原則がどこにもないことはあきらかだ。友人とあなたでは性格もちがえば事情も異なるのだから、どれほど友人に感謝していても、あなたが一銭も貸せなくてももっともだという場合もあるだろう。逆に、貸してもらった額の10倍貸してやり、それどころかくれてやってさえ、ひどく意地悪な恩知らずと見なされ、恩義のほんの一部にさえ報いていないとそしられて当然の場合もあるかもしれない。

アダム・スミス『道徳感情論』(日経BP社)

 想像上の中立な観察者をどのように育むのか。科学や文化が進歩するまで、人種・男女・奴隷・新生児など人間に優劣があるように錯覚してしまった時代があるのは、ある意味致し方ない部分もあるのかもしれません。現代でも動物、AI(将来含む)、胎児などその意識や感情について分かっていないことも多くあります。未だ科学で判明していない感情を持つものすべて(図の最も外側の円)において中立になるには、科学・学問の進歩を待つ必要がありそうです。

 人間は、個人が感情を持つと認識している他人(メディアやネットで知りうる他人含む)のすべてを超えて、感情を想像することはできません。個人としては、知識や教養を身につけることで、現在の科学で判明しているところまで想像できる範囲を拡大できます。それが思慮の徳に繋がるのではないかと思います。また、多くの場合は自分に近い(属性的に、あるいは、実際に直接会話する距離にいるなど)人だけを基準に偏った「中立な観察者」を想像してしまいがちです。アダム・スミスのいう想像力と共感が現代においてもより一層大切になっているように感じます。

自分の持っている一つひとつの能力が、他人の持つ同様の能力を判断する尺度となるのである。私は、他人の見え方を自分の見え方で、聞こえ方を自分の聞こえ方で、理性を自分の理性で、怒りを自分の怒りで、愛情を自分の愛情で判断する。そのほかに判断する方法を持っていないし、持つこともできない。

アダム・スミス『道徳感情論』(日経BP社)

効用、幸福、徳について

 効用(Utility)を最大化する行為を正しいとする功利主義(Utilitarianism)の起源は1700年代後半のジェレミー・ベンサムです。効用最大化は経済学では頻繁に用いられます。
 自己の効用(≒ときに、利益)を追求することを仮定しても商人同士の交換社会が成り立ついわゆる「神の見えざる手」(アダム・スミス自身はその言葉を使っていませんが)について、『道徳感情論』では、以下のように述べています。

商人同士なら互いに愛や好意などなくても効用を感じてやっていけるように、社会もそうしてやっていけるものである。社会の成員が誰一人として互いに恩義を感じず、感謝の念も抱いていないとしても、互いが合意した価値評価に従い損得勘定のもとに助けを貸し借りすれば、社会は維持されよう。だが、絶え間なく傷つけ合い害し合おうと待ち構えている人々の間では、社会は存続し得ない。

アダム・スミス『道徳感情論』(日経BP社)

 ベンサムの数十年前に、スミスが効用について以下のような鋭い洞察で言及しているのは面白く感じます。

たいして役に立たないつまらないものに無駄金を投じ、財産を減らす人がどれほど大勢いることだろう。この手の玩具に目がない人にとっては、効用そのものより、効用を増やすようにできていることがうれしいのだ。そして、役立たずの小道具をポケットに詰め込み、さらにふつうの服にはついていないような新種のポケットまで工夫して、もっとたくさんの品物を持ち歩こうとする。
 効用自体より効用を増やす手段を重視するこの原理に私たちの行動が影響されるのは、こうしたつまらぬ事柄だけではない。公私問わず人生の重大事に関しても、これがひそかな動機となることが少なくない。

アダム・スミス『道徳感情論』(日経BP社)

 以下の文章を読むと、スミスは人間の意思決定が効用最大化だけではなく、正義(他人の幸福に関わるもの)にもとづくように考えていたと思われます。

たしかに効用に注意を払い、考慮したならば、そこに新たな価値が見いだされることは間違いない。だが私たちがまず誰かの判断を是認するのは、それが役に立つからではなくて、正しく確実で真理と現実に一致するからである。

アダム・スミス『道徳感情論』(日経BP社)

 功利主義では、効用最大化と幸福が繋がります。では、アダム・スミスは幸福をどのように捉えていたのか。ラス・ロバーツ『スミス先生の道徳の授業 アダム・スミスが経済学よりも伝えたかったこと』には、アダム・スミスの幸福についての考えが詳しく紹介されています。ラス・ロバーツはアダム・スミスの以下の言葉を取り上げています。

愛されることほど、そして愛されるにふさわしいと感じることほど、しあわせなことはあるまい。また、憎まれること、そして憎まれて当然だと感じることほど、ふしあわせなことはあるまい。

アダム・スミス『道徳感情論』(日経BP社)

アダム・スミスは幸福について以下のたとえを持ち出しています。

人生をみじめにしたり混乱に陥れたりする大きな原因は、ある境遇と別の境遇との差を過大視することにあると思われる。貪欲は貧富の差を、野心は地位の差を、虚栄心は無名と名声の差を課題に評価する。こうした誇大な情念に支配された人は、現在の境遇をみじめだと感じるだけでなく、愚かにもあこがれるものを手に入れようとして、社会を混乱に陥れがちだ。
 ギリシャのイピロス地方を治めていた王に向かって寵臣が言った言葉は、人生でありふれた境遇にいるすべての人に当てはまると思われる。王は寵臣に対し、これから実行するつもりの征服計画を順序立てて話した。ようやく最後の計画に話がおよんだとき、寵臣は訊ねた。「ところで陛下は、その後にいったい何をなさるおつもりであられますでしょうか」。王は、「友とくつろぎ、酒を酌み交わしながら楽しみたいと思うておる」と答えた。寵臣曰く、「いまそれを妨げる理由がなにかございますでしょうか」。要するに、私たちのばかげた空想が描き出す輝かしい栄華の中にあっても、真の幸福がよりどころとする快楽は、現在の境遇で得られる快楽、すなわちささやかではあるがつねに手近にあって確実に手に入る快楽とほとんどいつも同じなのである。

アダム・スミス『道徳感情論』(日経BP社)

アダム・スミスにとって幸福とは、ささやかな日常をおくれることのようです。

健康で借金がなく、心に何らやましいこともない人の幸福には、それ以上何を付け加えられるだろうか。このような状況にある人にとって、幸福の足し前はすべてよけいだと言って差し支えあるまい。

アダム・スミス『道徳感情論』(日経BP社)

 余談ですが、仕事についても、アダム・スミスは非常に人間的です。アダム・スミスは経済学書『国富論』においても常に人に目を向けています。『国富論』の8章「労働の賃金について」には、以下のようにあります。

もし雇い主が、理性と人類愛の命じるところにつねに耳を傾けようとするなら、多くの雇用労働者を仕事に没頭するように駆り立てるよりも、むしろ、度を過ごさないようにさせる必要が少なくないだろう。どんな種類の職業であれ、定期的にきちんと働けるように、度を過ごさないように働く人こそ、もっとも長く健康を維持するだけでなく、年間を通じてみると、もっとも多くの仕事量をこなす人だ、というのが私の信念である。

アダム・スミス『国富論』(講談社学術文庫)

 『道徳感情論』第6部は、アダム・スミスの幸福と徳に関する思想です。本書は7部構成で第7部は「道徳哲学の学説について」と背景になるので、第6版で挿入された第6部「徳の性格について」がまとめの部ともいえそうです。第6部でスミスは、思慮、正義、善行、自制という徳をあげています。

自分の幸福への顧慮が思慮という徳を促すのに対し、他人の幸福への顧慮は正義と善行の徳を促す。正義は他人の幸福を損ねないように、慈愛は他人の幸福を高めるように、私たちに働きかける。思慮を促すのは生来の自己への愛、正義と慈愛を促すのは他者への愛であるが、どちらも、他人の感情、すなわち他人がどう感じているか、どう感じるはずか、これをしたらどう感じるだろうか、といったことは顧慮しない。だがその後に他人の感情への配慮が加わって、徳を実践させ導いていく。生涯にわたり、少なくともその大部分にわたり、思慮、正義、あるいは適切な善行の道を外れることなく着実に歩んできた者に、中立な観察者の感情をないがしろにしてきた者は一人もいない。

アダム・スミス『道徳感情論』(日経BP社)

思慮、正義、善行という徳は、ときに応じて自己への愛または他者への愛という二つの原動力によって同じように促されるのに対し、自制の徳は、ほとんどの場合にはほぼ全面的に一つの力に促される。それは適否の感覚であり、想像上の中立な観察者の感情の尊重である。この力が抑制を課さなかったら、どの情念もまずまちがいなく暴走し、言うなれば、それ自体が満足するまで止まらないだろう。

アダム・スミス『道徳感情論』(日経BP社)

思慮、正義、善行の徳は、快い結果だけをもたらすようにできている。この快い結果を考えて行為者は徳を促され、中立な観察者は徳を評価する。

アダム・スミス『道徳感情論』(日経BP社)

『道徳感情論』の影響ついて

 前回、「神の見えざる手」の話でも触れましたが、アダム・スミスは、『道徳感情論』や『国富論』を読んですらいない自称ジャーナリストや経済学者の論客による妄想の吹聴によって誤解されがちです。
 例えば、フェミニズムの文脈で、カトリーン・マルサル『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か? これからの経済と女性の話』が、Amazonでスターを稼いでいますが、翻訳版の初版を読む限り、著者が『道徳感情論』の冒頭すら読んでいない、Wikipediaに書いてあるようなことすらを調べようとさえしていないと感じます。ジェシー・ノーマンは『アダム・スミス 共感の経済学』で以下のように指摘しています。

それをアダム・スミスと結びつけた点ではまったく救いようがなく、何の検証もしていないいい加減な見方だと言わざるを得ない。マルサルの指摘は完全に事実に反する。

ジェシー・ノーマン『アダム・スミス 共感の経済学』(早川書房)

社会思想家でフェミニズムの先駆者とされるメアリ・ウルストンクラフトが『女性の権利の擁護』を書くときに『道徳感情論』を参照したことはよく知られている。

ジェシー・ノーマン『アダム・スミス 共感の経済学』(早川書房)

実際、メアリ・ウルストンクラーフト『女性の権利の擁護』第八章「良い評判に重きを置く、という性差別意識によって損なわれた道徳について」で以下のようにアダム・スミスに敬意を評しながら、スミスの言葉を引用しています。

私の意見を補強するために、大変立派な権威を持ち出すことができる。冷静な理論家の権威である書というものは、ある意見を確かなものにするためではなく、人びとに考察を促すために有力なはずだ。道徳の一般法則を論じて、スミス博士は次のように述べている。

メアリ・ウルストンクラーフト『女性の権利の擁護――政治および道徳問題の批判をこめて』(未来社)

”一つ一つの行為については、人間は誤解され易いものである。しかし行動全体の傾向が誤解されることは、まずないであろう。”

メアリ・ウルストンクラーフト『女性の権利の擁護――政治および道徳問題の批判をこめて』(未来社)

私はこの著者の意見に全く同感である。というのは、男性でも女性でも、軽蔑される必要がない人が、何か悪徳のために軽蔑されることは殆どない、と強く信じているからである。

メアリ・ウルストンクラーフト『女性の権利の擁護――政治および道徳問題の批判をこめて』(未来社)

 無知であれ情報倫理の欠如であれ、本などで広く大衆に情報を発信する立場にある人が、アダム・スミスの思想と真逆のことを吹聴することはあまりにお粗末で、憤りを感じます。負担をかけてまで背景を調べる読者はごく少数で、Amazonのレビューを見ても、アダム・スミスを読まずに誤った理解を持ってしまった人が多く、ジャーナリズムがいかに人を扇動し、教養がいかに無力かを痛感します。

 哲学の分野では、バーグルエン哲学・文化賞を受賞した哲学者柄谷行人は『世界史の構造』で『道徳感情論』を取り上げています。

スミスのいうシンパシーとは、相手の身になって考えるという想像力である。ハチソンのいう道徳感情と、スミスのいうそれとの間には、微妙だが決定的な差異がある。ハチソンにとって、道徳感情は利己心とは反対のものだが、スミスのいう共感は利己心と両立するものなのだ。そもそも、相手の身になって考えるのであれば、相手の利己心を認めなければならない。

柄谷行人『世界史の構造』(岩波現代文庫)

スミスは一方でレッセ・フェールを解きながら、他方でそれが不可避的にもたらす弊害に気づいていた、そこに彼の倫理学があった、と。かくしてスミスは厚生経済学の先駆者であった、とされるわけである。しかし、スミスが利己心を肯定すると同時にシンパシーを説いたことは、別に矛盾することではない。

柄谷行人『世界史の構造』(岩波現代文庫)

スミスがいうシンパシーは、商品交換の原理が支配的となり、互酬原理が解体されてしまったときのみに出現する「道徳感情」あるいは「想像力」であって、旧来の社会には存在しなかったものである。

柄谷行人『世界史の構造』(岩波現代文庫)

レッセ・フェール=自由放任のことです。「商品交換の原理が支配的となり、互酬原理が解体されてしまったときのみに出現」という部分は、『道徳感情論』においてギリシャ哲学が多く引用されていることを踏まえると賛否ありそうですが、柄谷行人教授も「共感は利己心と両立するもの」と述べています。

おわりに。再び、感情について

 『道徳感情論』で読書会を行ったことがきっかけでこの本を読みましたが、『道徳感情論』は私が人生で読んだ本の中でも一際輝く一冊となりました。

お礼をするときには心からの感謝をこめて気前よくすべきであって、躊躇すべきではないし、報恩は果たして適切かなどと考える必要もない。これに対して罰を与えるときにはつねに躊躇すべきであり、仕返しをしてやりたいという粗暴な気分からではなく、罰は適切であるとの感覚に基づくべきである。

アダム・スミス『道徳感情論』(日経BP社)

というように、『道徳感情論』にありますが、アダム・スミスと翻訳者の方にただただ感謝の気持ちです。

 本書は、人間のSentiments=感情(あるいは、情操)に関する論じた本です。

 感情がその原因や対象にふさわしいかふさわしくないか、見合うか見合わないかによって、結果としての行為が適切か否か、礼節に適うか否かがおのずと決まってくる。
 またその目的や結果が有益か有害かによって、行為の価値と害悪、すなわち報いるべき性質を備えているか、罰すべき性質を備えているかがおのずと決まってくる。

アダム・スミス『道徳感情論』(日経BP社)

感情について、前の記事で書いたように、アダム・スミスの時代より多くのことが分かってきており、それも踏まえ、「道徳感情」について今後も思索していきたいと思います。

 『道徳感情論』は何度も読み返したい本です。また何度も読まないと深い部分まで自分自身の思索が及ばないと感じます。そして何度読んでも新しい発見が得られる本です。


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