読書のすすめ〜アダム・スミス『道徳感情論』〜

人間というものをどれほど利己的とみなすとしても、なおその生まれ持った性質の中には他の人のことを心に懸けずにはいられない何らかの働きがあり、他人の幸福を目にする快さ以外に何も得るものがなくとも、その人たちの幸福を自分にとってなくてはならないと感じさせる。

アダム・スミス『道徳感情論』(日経BP社)

 アダム・スミス『道徳感情論』の冒頭です。

 今回は『道徳感情論』の紹介です。原著のタイトルは“The Theory of Moral Sentiments”。人間のSentiments=感情(あるいは、情操)に関する論じた本です。Moral=道徳については、翻訳者の村井章子氏は日経BPクラシックスの凡例で、「『人間の感情』あるいは「社会的な感情』といった広い意味で捉えたほうがであろうかと思われる。」と語源にも触れて述べられています。とはいえ、日本語訳としては、水田洋氏訳の岩波文庫、高哲男氏訳の講談社学術文庫でも「道徳感情論」として定着しています。

 アダム・スミスは1700年代のイギリス(スコットランド)の哲学者です。主著は、経済学に関する本『国富論』と本書『道徳感情論』です。経済学は『国富論』にはじまるともされるため、アダム・スミスは「経済学の父」と呼ばれています。なお、経済学=Economicsという言葉はアルフレッド・マーシャルの1890年出版の『経済学原理』に由来するとされ、アダム・スミス自身は、Political economy(政治経済学)という言葉を用いています。

歴史的背景と年譜

 アダム・スミスの年譜を簡単に整理します。

  • 1723年 スコットランドに生まれる

  • 1750年 哲学者デイヴィッド・ヒュームとの親交が始まる

  • 1751年 グラスゴー大学論理学教授に就任

  • 1752年 グラスゴー大学道徳哲学教授に転任

  • 1759年 『道徳感情論』出版

  • 1776年 『国富論』出版

  • 1781年 『道徳感情論』第5版改訂

  • 1790年 『道徳感情論』第6版改訂

  • 1790年 エディンバラで病死。遺言によりほぼ全ての草稿は焼却される

年譜を見ると分かるように『道徳感情論』は『国富論』より先に書かれ、『国富論』出版後も亡くなる直前まで改訂されています。

 1700年代イギリスの時代背景についても触れておきます。イギリス(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)は、イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドの連合王国ですが、合同法でスコットランドとイングランドが合併しグレートブリテン王国(≒イギリス)になったのが1707年なので、アダム・スミスはイギリスの中のスコットランドに生まれたことになります。当時のイギリスでは、1772年まで実質的には奴隷制度が存在していました(イギリスの奴隷制度)。『道徳感情論』には奴隷制度など差別への批判的な文章が見られます。

 アダム・スミスは、プラトンやアリストテレスといったギリシャ哲学の影響を大きく受けているようです。アダム・スミスは同時代の哲学よりギリシア哲学に対して多くの同意を示しています。第7部「道徳哲学の学説について」では、プラトンやアリストテレスを取り上げており、特にプラトンについては「プラトンの言う正義には、あらゆる種類の徳性が完全な形で包含されている。(P576)」と述べています。また、中立な観察者という考え方は、序文でアマルティア・センがいうようにイマヌエル・カントの思想にも影響を与えています。

 アダム・スミスの思想についてより詳しく知りたい場合は、以下の書籍が参考になります。

特にジェシー・ノーマン『アダム・スミス 共感の経済学』はアダム・スミスの年譜だったり、『国富論』や経済学との関係だったりについても参考になります。

 第6版で挿入された第6部と過去の学説をまとめた第7部を除くと、第1部は行為者が情念や感情から起こす行為を観察者としてpropriety(適切)とみなすか話、第2部は行為の結果の価値と害悪についての話、第3部から5部では感情と行為の原因、及びその是認についての話ですです。人間の行為と感情から議論をはじめ、行為の結果、感情の原因へと深堀りしていく流れになっています。

感情と共感について

 本書は、人間のSentiments=感情(情操)について非常に丁寧に分析されています。フロイト、アドラー、ユングなどの心理学が1800年代後半、ハーバート・サイモン、ダニエル・カーネマンといった認知科学は1900年代から、脳・神経科学となるとより最近のため、1700年代の『道徳感情論』は当時としては極めて分析的な本と思います。
 一般に感情というと、喜びや悲しみなどですが、『道徳感情論』においては「情念(passion)」として表現されることが多く、「感情(sentiment)」には「是認(approbation)」といった意志のような概念が含まれているように感じます。

利己的な人間と共感

 本書は、人間のSentiments=感情(情操)に関する論じた本です。『道徳感情論』の冒頭には、

人間というものをどれほど利己的とみなすとしても、なおその生まれ持った性質の中には他の人のことを心に懸けずにはいられない何らかの働きがあり、他人の幸福を目にする快さ以外に何も得るものがなくとも、その人たちの幸福を自分にとってなくてはならないと感じさせる。

アダム・スミス『道徳感情論』第1部(日経BP社)

とあるように、アダム・スミスは決して人間を利己的、あるいは、一部の経済学が前提とする合理的経済人(ホモ・エコノミクス)とは考えていなかったことが分かります。

 『国富論』(第一編「労働の生産力が改善される原因、および労働の生産物がさまざまな階級の人々に自然に分配される秩序について」の第二章「分業を引き起こす原理について」)の以下の一文

夕食に対する我々の期待は、肉屋、ビール醸造業者、あるいはパン屋の好意にではなく、彼ら自身の利益に対する配慮にもとづいている。彼らの人間愛に対してではなく、自己愛に対して訴えかけているのであって、説いて聞かせるのは我々の窮状ではなく、彼らの利益である。

アダム・スミス『国富論』(講談社学術文庫)

を切り出して、合理的経済人を主張する人もいます。その前の文章には

これは、他の誰かと何か取引しようとする時、誰でも試みることである。

アダム・スミス『国富論』(講談社学術文庫)

とあり、アマルティア・センが『道徳感情論』の序文で解説するように、「この部分はきわめて限られた問題、分配や生産ではなく、交換に限られており、通常の交換を維持可能にする当事者間の信用や信頼ではなく、交換を促す動機に限られて」います。その後の文章には、

自分の生産物のうち自己消費分を上回る余剰部分のすべてを、自分が必要とする他人の労働生産物の一部と交換できるという確実性、これこそが、万人をして特定の仕事に専念し、自分自身の素質や才能のすべてをその特殊な業務用に洗練して、完全なものに仕上げるよう奨励するものなのである。

アダム・スミス『国富論』(講談社学術文庫)

それぞれの才能が作り出すさまざまな生産物は、交渉し、交換し、取り引きしようとする一般的な気質によって、共同資産ー誰もが他人の才能が生み出した生産物の一部を何でも購入することができるところーへとまとめ上げられるわけである。

アダム・スミス『国富論』(講談社学術文庫)

とあり、分業によって生産力が改善することが説明されています。

 講談社学術文庫(Kindle版)で1400ページ以上ある中の最初の50ページに満たない中に出てくる部分だけを読んで、その先の文章も、『道徳感情論』の冒頭すらも読まない人がこの文章を引用する傾向にあるようです。

 また、「神の見えざる手」というワードについて、『国富論』では、第四編「政治経済学の体系について」第二章「自国で生産可能な財貨の外国からの輸入制限について」に、

すべての個人は、労働の結果として、必然的にそれぞれ社会の年々の収入を可能なかぎり最大にするのである。事実、個々人は、一般的に公共の利益を促進しようと意図しているわけではないし、それをどの程度促進するか、知っているわけでもない。外国産業よりも国内産業の維持を選択することによって、彼は、たんに自分自身の安全を意図しているにすぎず、その生産物が最大の価値をもつような方法でその産業を管理することにより、彼は、自分自身の利益を意図しているのであって、彼はこうするなかで、他の多くの場合と同様に、見えない手に導かれて、彼の意図にはまったく含まれていなかった目的を促進するのである。さらにまた、それがまったく含まれなかったことは、かならずしも社会にとって悪いわけではない。自分自身の利益を追求することによって、個々人が実際に社会の利益を促進しようと意図する場合にくらべて、ずっと効果的に、それを促進することがしばしばある。

アダム・スミス『国富論』(講談社学術文庫)


とあり、「神の」という言葉はなく、また『国富論』全体でも「見えない手」という単語が一度だけ出現するのみです。
 アダム・スミスは『国富論』で自己の利益を追求することを仮定しても交換がうまく機能していることについて説明できると述べているだけで、人間が利己的であるとは述べていません。『道徳感情論』の第1部では、

自分の胸中に湧いた情を他人がともにしてくれるのはたいへん快いものであり、何の共感も示されないのはひどくいやなものである。感情はどれも利己心が巧みに姿を変えて表れるのだと言いたがる人たちは、こうした快感も苦痛も、自分たちの理屈で簡単に説明できると考えている。人間は自分が弱いものであり、他人の助けを借りる必要があると知っている。自分の情念を同じように感じてくれる人を見て喜ぶのは、その人から確実に助けをもらえると考えるからであり、誰にも共感してもらえないときに悲しむのは、確実に敵対されると考えるからだ、と。だが、快感も苦痛も瞬時に感じるものだし、ごくつまらない理由で感じることも多いので、とてもそのような利己的な打算によるものではあるまい。

アダム・スミス『道徳感情論』(日経BP社)

のように、繰り返し人間が決して利己的ではなく共感する生き物であることを述べています。

行動経済学、認知科学、脳・神経科学

 現在の脳・神経科学で感情(feeling)と情動(emotion)は区別されます。アントニオ・ダマシオは、情動は外的刺激や内的記憶の想起によって生じる生理的反応、感情は情動の発生とその原因の推定によって決定される意識的な体験と定義しています(アントニオ・ダマシオ『意識と自己』 (講談社学術文庫))。feelingは道徳感情論のpassionに近く、またsentimentは是認の感情なども包含する概念ですが、アダム・スミスがsentimentやemotionの原因に踏み込んで考察している内容は、脳・神経科学の仮説の宝庫ではないかと思います。
 アダム・スミスの感情に対する考察は、行動経済学や脳・神経科学で検証されたような内容が多くあり、『道徳感情論』がもっと研究されていれば、行動経済学や脳・神経科学は後数十年早く進歩していたのではないかとさえ思います。

 1979年にダニエル・カーネマンとエイモス・トベルスキーが提唱したプロスペクト理論では、金額に対する価値の評価について、評価が中立の「参照点」に対して行われること、価値関数がS字型で「利得、損失いずれについても額が大きくなるほど感応度が逓減する」感応度逓減性があること、「損失に対する感応度は、同じ額の利得に対する感応度よりもはるかに強い」損失回避性があることが指摘されています(ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』ハヤカワ・ノンフィクション文庫)。
 プロスペクト理論のような行動経済学は、主に金額(利得)に対する行動に関する研究ですが、ポジティブな感情とネガティブな感情について、アダム・スミスは、以下のように述べています。

私たちが友人にわかってもらいたいと願うのは、喜びのような快い情念よりも、悲しみのような不快な情念であることに気づかされる。共に喜んでもらうより共に悲しんでもらうことの方に満足し、悲しみへの共感が得られないときの方が衝撃は大きい。

アダム・スミス『道徳感情論』(日経BP社)

 乾敏郎『脳科学からみる子どもの心の育ち』第四章によると、1977年、発達心理学の研究者メルツォフとムーアが「乳幼児の模倣の発達過程で最初に見られる模倣として、出生直後に新生児が顔の表情を模倣すること」を発見し、「赤ちゃんがみている対象(親)を自分と同じような存在だと自動的に思い込むことで、いろいろな模倣学習ができるようになる」というlike-me仮説を提唱しました。そして、1997年に新生児模倣について説明する論文を発表しました。また、1996年に「あるニューロン(神経細胞)は物を割るという動作を自ら行うときに活動するだけでなく、他人が物を割るのを見るだけで、自らは何の動作もしないときにも活動することを脳科学者リゾラッティが発見しました。ミラーニューロンのおかげで他者の模倣ができ、他者の痛そうな仕草や表情を見るだけで自己の痛みを感じる部分も活動し、情動的共感を生むといいます。二歳児の遊びの研究から、模倣したり模倣されたりする経験が、その後のコミュニケーションに重要であることが指摘されているそうです。大人にとっても模倣は重要で、「自分のちょっとした行動を他者に模倣されると、そのことに気づかない場合でもその模倣した人に対してポジティブな感情を持つ」ことが知られており、社会心理学ではカメレオン効果といいます。

 アダム・スミスは以下のように述べていますが、近年、発達心理学で解明されつつある共感の仕組みに対する鋭い洞察です。

想像こそが他人の不幸をわがことのように思いやる気持ちの源なのであって、不幸な人の思いを身にしみて感じたり、それに心を動かされたりするのは、想像の中でその人と立場を取り替えているからである。

アダム・スミス『道徳感情論』第1部(日経BP社)

 観察から仮説を生み出し、実験によって検証するのは科学の基本的な姿勢です。観察と仮説構築において、アダム・スミスほど優れた人は歴史上でも数少ないと思います。アダム・スミスは、主張は控えめで分析的です。アダム・スミスの時代、実験的な社会科学は未発達でしたが、もし、アダム・スミスが現代の人であったなら、認知科学者か行動経済学者になり、多くの仮説をもとに様々な実証研究を行っていたのではないかと想像します。

共感の限界について

 アダム・スミスは人間を共感する生き物と捉えていますが、一方で、以下のように指摘し、共感の限界も認識しています。

人間は共感を抱くように生まれついているとはいえ、自分と関わりのない他人のことについては自分自身のつまらぬ災難を重大視する。

アダム・スミス『道徳感情論』(日経BP社)

清という大帝国が、幾千万の住人とともに、地震で一瞬のうちに消えたとしよう。そして、ヨーロッパに住んでいて中国とは何の関係も持たない一人の慈悲深い男が、この災厄の知らせを受け取ってどう感じるかを想像してみよう。思うに彼は、何よりもまず、不幸に見舞われた人々に深い哀悼の意を捧げるだろう。そして人生の無常や、かくも一周で灰燼に帰す人の営みの虚しさについて、陰鬱な省察を加えるだろう。考え深い人なら、この災厄がヨーロッパの商業ひいては全世界の貿易や取引にどのような影響をもたらすか、考察するかもしれない。しかし念入りな検討が終わり、思いやり深い感情を余すところなく表現してしまったら、何事も起こらなかったかのように、いつも通り落ち着き払って仕事に戻るだろう。あるいは娯楽や休息や気分転換をするだろう。これに対して自分の身に起きたごく些細な災難も、心底彼を困らせたに違いない。たとえば明日自分の小指を切られることになったら、今晩は眠れないだろう。だがたとえ一億人に破滅が訪れるとしても、会ったこともない人々であれば、安心して高いいびきをかくだろう。これほど大勢の人の破滅といえども、自分自身のささやかな不幸に比べたら、あきらかに興味を引かない出来事なのである。

アダム・スミス『道徳感情論』(日経BP社)


 ただし、『道徳感情論』は次のように続きます。

では、自分自身のこのささやかな不幸を防ぐために見知らぬ一億人の命を犠牲にすることは、慈悲心のある人にできるだろうか。人間の本性はこの考えに怖気づくにちがいないし、世の中がどれほど堕落し腐敗しているといっても、そのような行為のできる悪者はいまだかつて生み出したことがない。

アダム・スミス『道徳感情論』(日経BP社)

 アダム・スミスは人間を深く理解し、「では」という切り返しで、状況に応じた人間の心理を炙り出していると思います。ただ、その後、世界は二度の大戦を経験し、権力者にとってささやかな不幸かもしれないことのために1億人に迫る犠牲者を出しているのも事実です。

 1990年代に人類学者ロビン・ダンバーは人間が安定的な社会関係を維持できるとされる人数の認知的な上限は150人程度であると提案しました。この上限数はダンバー数といわれます。ルトガー・ブレグマンは『Humankind 希望の歴史―人類が善き未来をつくるための18章』の11章で「人間の脳が有意義な人間関係を築けるのは150人が限度だ」とダンバー数を取り上げ、そして、4章と10章では、生物学や人類学の見地にもとづいて、人間の共感の限界が述べられています。

「人間を最も優しい種にしているメカニズムは、人間を地球上で最も残酷な種にもする」と子犬の専門家ブライアン・ヘアは言う。人間は社会的動物だが、致命的な欠点がある。それは自分によく似ている人々に、より強い親近感を抱くことだ。

ルトガー・ブレグマン『Humankind 希望の歴史 人類が善き未来をつくるための18章』(文藝春秋)

このホルモンは友人に対する愛情を高めるだけでなく、見知らぬ人に対する嫌悪感を強める。つまりオキシトシンは、普遍的な友情の燃料ではなく、身内びいきの源だったのだ。

ルトガー・ブレグマン『Humankind 希望の歴史 人類が善き未来をつくるための18章』(文藝春秋)

それはナチのイデオロギーではなかった。また彼らは、ドイツは勝てるという幻想を抱いていなかった。洗脳されてもいなかった。ドイツ軍の人間離れした戦闘を可能にしたのは、もっと単純なものだった。友情である。

ルトガー・ブレグマン『Humankind 希望の歴史 人類が善き未来をつくるための18章』(文藝春秋)

ルトガー・ブレグマンは、史上最悪の虐殺へ駆り立てたのは友情だったと主張します。

これはわたしたちの致命的なミスマッチの症状なのだろうか。馴染みのあるものを好む本能は、人間の歴史の大半を通じて特に問題ではなかったが、文明の興隆とともに、厄介なものになったのかもしれない。

ルトガー・ブレグマン『Humankind 希望の歴史 人類が善き未来をつくるための18章』(文藝春秋)

彼(ブルーム)によると、共感は、世界を照らす情け深い太陽ではない。それはスポットライトだ。サーチライトなのだ。共感は、あなたの人生に関わりある特定の人や集団だけに光を当てる。そして、あなたは、その光に照らされた人や集団の感情を吸いとるのに忙しくなり、世界の他の部分が見えなくなる。

ルトガー・ブレグマン『Humankind 希望の歴史 人類が善き未来をつくるための18章』(文藝春秋)

 グローバル化やソーシャルメディアの発達によって、現在は、アダム・スミスの時代と比べ、より一層、共感の範囲の限界を超えてしまう状況にあるのかもしれません。

慣習と想像力ついて

 人間の是認の可否の感情の限界について、アダム・スミスは次のような例をあげています。

たとえば、幼い子供を傷つけること以上に野蛮な行為があるだろうか。

アダム・スミス『道徳感情論』(日経BP社)

ところが、新生児殺し、いわゆる間引きは、ギリシャのほとんどすべての都市国家で、最も教養高く育ちのよいアテナイ市民の間でさえ、許されていた。親の事情により子供を育てることが不都合になった場合には、生まれたばかりの子供を捨てて餓死させようと、野獣に喰わせようと、何の責めも咎めも受けなかったのである。

アダム・スミス『道徳感情論』(日経BP社)

人間の想像力は未開社会の時代にこの習俗に慣れ親しんでしまい、それがずっと変わらずに続いてきたものだから、だいぶ時代が下ってからも極悪非道だとは思えなくなったのだろう。

アダム・スミス『道徳感情論』(日経BP社)

ところがギリシャ時代の後期になってまで、間接的な利害や単なる便宜上の点から同じことが容認されているのは、まったく釈明の余地がない。

アダム・スミス『道徳感情論』(日経BP社)

公正と正確を旨とすべき哲学者の学説でも、よくあることだが定着した習俗に惑わされ、このむごい権利の濫用を非難せずに、公共の利益に資するという強引な解釈の下で支持したのである。たとえばアリストテレスは、行政官はこれを奨励すべきだと述べている。慈悲深いプラトンも同意見だった。プラトンの著作はどれも人類愛に満ちているように見えるにもかかわらず、この慣行を非難した形跡はどこにも見受けられない。これほど残酷で非人道的行為でさえ慣習によって容認されるなら、慣習の力で正当化できないほど汚らわしい慣行がまずないことは、容易に想像がつく。

アダム・スミス『道徳感情論』(日経BP社)

 アダム・スミスは、当時の哲学に比べ遥かに道徳的に優れていると称賛しながら、一方でそのギリシアの哲学者でさえ、間引きに疑問を抱かなかったことを問題視し、慣習の恐ろしさを指摘しています。

 合理性はすべての代替案を知ることができないとき限定されることを限定合理性といい、ハーバート・サイモンが提唱しました。限定合理性は、合理的経済人を批判するときにも使われます。本書の例は、合理性ではなく共感についてですが、ある意味、限定共感性とか、限定想像性ともいえるような内容です。

 アダム・スミスが以下に指摘するように、想像が及ばないと、人間はどこまでも残酷になってしまいます。

想像こそが他人の不幸をわがことのように思いやる気持ちの源なのであって、不幸な人の思いを身にしみて感じたり、それに心を動かされたりするのは、想像の中でその人と立場を取り替えているからである。

アダム・スミス『道徳感情論』(日経BP社)

自分の持っている一つひとつの能力が、他人の持つ同様の能力を判断する尺度となるのである。私は、他人の見え方を自分の見え方で、聞こえ方を自分の聞こえ方で、理性を自分の理性で、怒りを自分の怒りで、愛情を自分の愛情で判断する。そのほかに判断する方法を持っていないし、持つこともできない。

アダム・スミス『道徳感情論』(日経BP社)

 一部の経済学や哲学はややもすると人間を利己的か利他的か、性悪説か性善説かのゼロイチの二項対立で語りがちですが、冒頭にあるようにアダム・スミスは決して人間を利己的とは思っておらず、一方で、共感の範囲があり慣習に左右される人間の共感の限界も炙り出しており、人間の感情に深く迫る本と感じます。

続き

 この記事では、『道徳感情論』の背景から、主題である「感情」について取り上げました。『道徳感情論』における分析の特徴として、「中立な観察者」という考えがあります。続きのnoteではその点について触れていきます。


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