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台湾生まれ。日本育ち。WELgee育成事業プロジェクトコーディネーター成田茉央の原点に迫る。

明るい笑顔と陽気な雰囲気が印象的な育成事業プロジェクトコーディネーター、成田茉央。2023年3月にWELgeeに入職した、現役フルタイム唯一の中途採用職員である。
なぜ成田は、ベンチャー企業営業から一転、NPOであるWELgeeへの転職を決意したのか。台湾で生まれ育った彼女に深く根付きつづける、日本人の「輪」と「外」という概念とは。

台湾で過ごした幼少期

1995年7月23日、台湾生まれ。
日本人の両親を持ちながら、台湾のコミュニティで元気に、わんぱくに育った成田。幼稚園・小学校、ともに現地校に通いながら、外では友達や先生と中国語を話し、家に帰ると家族と日本語で話す、という生活を送っていた。幼稚園でも友達も多く、先生にも懐いていたそう。

台湾のわんぱく少女

「(台湾人は)フレンドリー、かつ悪口は言わない、言いたいことは面と向かって言う、裏表がない人だったという印象でした。また個がリスペクトされる文化でした。いろんな性格の人がいましたが、その”出る杭をうたない”。 極端によくしゃべる子、全くしゃべらない子、元気な子、元気でない子、様々でしたが、(こうあるべきというのを重視するのではなく、)個々を尊重していました。」

個々を尊重する文化だからだろうか。台湾では自らが日本人であると強く意識していなかった。周りの子も成田がちょっと違う存在だ、ということは、名前からおそらく気が付いていたが、だからといって特別扱いや貶されることなく、台湾人として接され、台湾人としてのアイデンティティを確立させながら成長した。

台湾人の友人たち

来日した小学生。日本人特有の「輪」への苦しみ

7歳になると親の転勤に合わせ、兵庫に移り、日本の学校に通いはじめる。

通うことになった学校には、国際学級があった。国際学級では、週に何コマか、海外からきた子どもや日本人でない子どもが集まり、日本人の学級とは別の授業を行っていた。海外からの少女であった成田は、普段は2年5組、日本人と同じクラスで過ごしながら、その授業のときだけ国際学級で暮らすという生活を送ることになった。そこで、はじめて日本人でありながら、日本人として扱われない期間を過ごした。

自分は自らを日本人として捉えていた一方で、周りには”海外から来た人”として、”国際学級の子”として見られ、周りが変わると見られ方が変わるということを学びました。

最初は、海外から来た自分、という特別感、唯一無二であり、マジョリティでないことに喜びを感じた。
しかし、同時に、2年5組のコミュニティ、日本人のコミュニティで過ごす中で、いつか日本人の輪に入らないといけない、日本人に合わせていかないといけない時期がくるのかもしれないということも感じはじめていた。


人生が変わったのは小学3年生。学校に親が呼びだされたことだ。
日本の女子小学生には、グループにわかれていく時期がある。成田の周囲も例外ではなかった。特定の子と仲良くし、仲間となり、特定の子を排除する。陰口が蔓延。本人の前ではいい顔をしながら、裏で悪口を言う。自分の陰口が告げ口される。そんな日々だった。
台湾で育った成田には理解しがたい環境であった。怒り、傷ついた。
そして成田はその怒りや傷を相手にダイレクトに伝えることしかできなかった。結果、喧嘩が多くなった。最終的には、親が学校に呼び出しをうけた。

はじめは『なんだこれ、日本出たい』、という気持ちにもなりました。校長に呼び出され、母に『日本人の”輪”を学ばないといけないかもね』と言われ、やっと空気読むように意識するようになりました。」 

器用に空気を読めるようになると、周りと円滑にコミュニケーションをとれるようになった。もともと誰とでも友達になれる性格であったのもあり、友達もどんどん増えていった。

それと同時に、輪に入れない、グループに属せない子とも仲良くするようになった。親がシングルマザーである、家庭に問題がある子など、同じ日本人でもどこか他の子とは違う事情があり、排除される人たちがいる。自分が輪にうまく入れなかった過去があるからこそ、自分に重なる部分もあった。日本人の「輪」とその「外」、その間にある暗黙の線をなくし、皆で仲良くしたい、と思うようになった。

日本の小学校。稲刈りをしたときの様子。

国際協力の道を志すきっかけ

中学生になると、少しずつ、今後の人生・進路を考えるようになる。
自分の過去を振り返るなかで、ふと思い出したのは、幼少期の家族旅行であった。フィリピン・ベトナムなど東南アジア諸国を家族で旅したことがあった。そこには、同じくらいの年の子が物乞いをしている姿があった。自分が日本人として生まれ、過ごしている当たり前の毎日が奇跡であることをはじめて痛感した瞬間であった。
中学になると、社会科で、国境なき医師団について学んだ。15歳以下の子どもが、5秒に1人亡くなっていることを知った。たまたま日本人として生まれ、あたりまえに15歳(当時)まで生きて、公教育を受けている。これがいかに奇跡であるかと改めて学び、この奇跡を、奇跡が来なかった人たちに還元していかないといけない、と思うようになった。
そんな経緯で、高校の英語の授業で、自分の夢についてのスピーチをする機会が与えられると、「国際協力に携わりたい」と発表した。自分の中にすんなり言葉が落ちてきた。友人からも、応援を受け、国際政治・国際協力を最先端で学べる大学を目指すことになった。

ベトナム・ホーチミンに訪れた3兄弟

大学でも向き合った「内と外」

一年間の受験勉強を経て、無事青山学院大学国際政治経済学部に合格。進学すると、高校時代の宣言どおり、国際協力について学ぶようになった。勉学に真摯に取り組み、貧困層、開発のプロジェクト、ボランティア、国連などについて知識を深めた。

ホームステイ先のタンザニア・アルーシャにて
卒業旅行として、友人とアフリカ大陸横断をした

卒業論文では「日本人の内と外 技能実習生からみる日本とは」と題し、「外」から来た実習生が日本人の「輪」と対峙するなかで、発生している日常的な壁や、それを醸成する受け入れ企業側のスタンスについて描いた。ここに興味を抱いたのは、あの小学生の日、校長先生に呼び出されるまで日本人の”輪”に馴染めなかった過去の自分と重なる部分があったからである。

『日本人には島国根性がある。もともといる人(日本人)と外から来た人(外国人)、村八分、えたひにんなど、自分たちとそれ以外、”内と外”という感覚が強く、その間にルールでは決めていない線が存在し、その線に傷ついている人がいる、ここをどう乗り越えていくか、グローバル化の進む社会の中でうまく乗り越えられることがwin-winの結果になるのでは』

そんなまとめ方をした、この卒業論文にはWELgeeが創立当初から大切にしているWithの精神に重なる部分がみてとれる。

内閣府国際交流事業「東南アジア青年の船」決起会にて

国際開発の勉学に向き合っていた大学生がなぜITベンチャーに

勉学に向き合っていた成田は、3年生の時点で大学院へ進学準備をしていた。しかしとある出来事がきっかけとなり、ベンチャー企業に就職することになる。

国連に関する大学のカリキュラムだ。講師となる国連職員は、紛争地域最前線から本部の指揮運営まで長年、国連でのキャリアを積んでいる人物であった。国連だからできることもある、一方、政治だから自分だけでは動かないこともある。長年キャリアを積んできた彼ならではの視点から、ひとつの憧れの世界、夢であった国連を、悪い面も含めて多角的に見ることが知ることができた。

『多様性の広がる将来において、様々なアクターが協力して世界平和を担うようになる。国連にこだわる必要はない。むしろ国連にはない創造的なアイデアや市民を動かす力が、これからの世界を変えていく。ビジネスマンも含め、経験を踏んでから、国際協力のキャリアに歩むことで、生み出せるものがあるのでは。』

この言葉によって成田は就職へ舵をきることを決意した。
社会を知らないと社会を動かせない。若く柔軟に吸収できるうちに、就職して、社会を知ろう。早めに社会人になろう。ビジネスマンとして、経験を積み、社会を知ってから、自分の進みたい世界に飛び込もう。
そんな思いを胸に、大学院進学から一点、キャリアの第一歩へと進んでいった。

ITベンチャーでの4年間を経てWELgeeに

23歳から4年間、ベンチャー企業で営業職につき、身を粉にして働いた。
担当していたのは看護師人材紹介・派遣事業。看護師の求職者に対して、その人の希望にあう施設を提案していた。派遣事業は顧客との関係性が継続的なものである。看護師さんに心から寄り添いながら、キャリアアップや、家庭の状況の変化などにあわせて頼れる存在になることを大切に、営業を行っていた。
また同時に、社会的にも自分の仕事に意義を感じていた。もし看護師さんを派遣できないと、看護師さんの人数が足りないことが原因で病院が閉まってしまう。病院に行きたいけど行けない人が生まれてしまう。エンドユーザーは主に自分の身近なおじいちゃん・おばあちゃんであり、適切な医療を届けるために自らの仕事は不可欠だと感じていた。
当初は押し売りのイメージがあった営業だったが、営業は顧客を幸せにする仕事だとわかったことが一番の学びである。

一方、4年も身を粉にして働くうちに、体にガタがきた。次第に、うまく動けない、会社に行けないという日が増えてきた。いよいよ転職、となったとき、縁があったのがWELgeeだ。「自らの境遇に関わらず、共に未来を築ける社会」というミッションに惹かれたことはもちろんだが、これからフェーズを一段階あがろうとしているタイミングであることも入職をきめる大きなきっかけとなった。組織が変わろうとしている今だからこそ、自分がはいる意味がある、自分が貢献できることがある、そう信じてWELgeeの門をたたいた。

WELgeeに入って、これから。育成事業の未来。

現在、WELgeeでは育成事業プロジェクトコーディネーターとして、育成事業を総括している。 育成事業とは、難民の方一人ひとりが、自身の志や強み、人生経験を最大限に生かした就職活動ができるように、難民人材の志と強みを発掘し、とことん磨く、事業である。現在は、主にメンターシッププログラムや5月から新たにはじまる日本語教育プログラムを担当している。

WELgeeオフィス(シェアオフィスCOEBI)にて

最後に、これから育成事業を担う成田に対して、その意義はどこにあると考えているか聞いた。

「あくまでも見据えているのは就労というゴールです。キャリアアドバイザーに頼るばかりではなく、WELgeeとして、面で人材を高めていくことがこれからの成長に大事になると考えています。難民人材にとって、日本における就活は過酷です。彼ら自身が就職に主体的にならないと、うまく行くものではありません。自ら高く目標を持ち続け、そこに向かってやり続ける力や姿勢を、就労の前段階である育成事業を通じて育めたらと思います。」

日本人でありながら、難民と同じく「外からやってきた人」として日本社会に馴染むのに苦戦しながら、人生を歩んできた彼女が、WELgeeの育成事業というフィールドにどのような花を咲かせるのか。今後の彼女の活躍と育成事業の展開が、とても楽しみだ。

執筆 :加藤 冬華

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難民が日本で人生を再建するのには多くの苦労が伴います。
WELgeeでは、成田の担当する育成事業も含め、難民の就労までの長い道のりを伴走しています。このような支援が、彼らの未来を変えるために不可欠です。
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